"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

上野顕太郎『さよならもいわずに』を読んで

by | Leave a Comment | Tags:
04 7
以前凹レンズ 〜まとまりのない日記〜にて紹介されているのを読んでから気になっていたマンガ、上野顕太郎『さよならもいわずに』を帰国と同時に購入し、今日読了。
「マンガ表現の新しい可能性を見た」などと紹介されていただけあって確かにコマ割りの工夫や、リアリティと幻想と空白とランダムなインクの染みなどが一つのコマ内に同居するような描き方など独自の面白い手法がたくさんあった。上記ブログでも面白いレビューをされているので参考にしていただきたいですが、ともかく「これはマンガでしかできない」、というような工夫が随所に見られます。そしてそれらの工夫が愛する人を喪う一連の経験と連動して揺れ動く得も言われぬ心情をどこまでもリアルに表現するために機能している。
近年従来的なテレビ、ラジオ、映画、紙本の形態で読む雑誌、論文・論説・エッセイや小説、マンガなどの既存のメディアに加え、ホームページやYoutubeなどの動画投稿サイトのみならずブログ、SNS、Twitter、UStream、電子書籍…というふうにかつて無いスピードでメディアの形態が広がり、世界総表現者時代とでも呼ぶべき時期を我々は経験しています。そんな中僕は(そういう「ロングテール」に属する表現者の一人として)「どういう内容をどういうメディアに載せて発信するのがどういうメッセージを伝えるのに適しているのか」ということを考えるのが楽しいと思っているのですけど、このマンガはことマンガという視覚表現を考える上で参考になりました。
まあそういう「外枠・箱」への興味に比べ、「中身」への感心という意味では僕は個人的には誰にでもお薦めしたいという風には思いませんでしたが、ともあれ興味のある方はどうぞ。僕はやはりこういう近しい人の死にまつわる話をどうしても母を亡くした自分の経験に引き寄せて読んでしまいますんで、嗚咽しながら読んだ『ブラックジャックによろしく』のがん篇のどんぴしゃ感とかに比べたら…、というような、非常に個人的な経験に基づく相対的な評価です(僕の母は膵臓がんだったので黄疸が出て入院してやせ細っていって西洋医療に絶望して出口のないままもがきながら…ていう流れが『ブラよろ』(と訳すか?)のそれとまあ重なる重なる、という感じだったもので)。
でも、「そうそう」とか思う場面も少なからずあった。その中でも特筆すべきは以下のくだり。うつ病を患っている奥さん(キホさん)が心臓麻痺で死ぬ前日の描写、抗鬱剤の作用で集中力が持てず本などを読めないとこぼすキホさんが「ごめんね」と呟く。上野は「別に何も悪くないよ。薬が効くのが遅いのかもしれないね」と特段表情も変えずに言うのだが、心の声で彼はこう呟く:
私はいつもキホの病気を恐れていた 
日常が崩れてしまうのを恐れていた 
予定が狂ってしまうことを恐れていた 
一番つらいのはキホ自身だというのに 
この時私は思ってしまった…
こまったな やっかいだな めんどうだな …………と 
あやまるのは私のほうなんだ………
上野顕太郎はキホさんを心臓麻痺という突然の出来事で亡くすのだが、それは僕の母ががんを宣告されてそうだと認識をしながら段々と死に近づいていく感覚とは異なる。が、それにつけてもこれはとてもリアル。がんが発覚し入院している母を日常的に見舞いに行く日々や、残り少ない時間を家で過ごしたいという母の希望のために料理を覚えたり通院のために車を出したりという日常でも、この言葉で語られるような背徳感を僕だって抱いていた。表現者としてのプライドがなせる業なのか、ないし「この出来事をマンガで表現するんだ」という使命感に支えられたものなのか、そんな得も言われぬ後ろめたさをこういうリアルな言葉でこういう形で想起し告白する上野の気持ちはいかばかりのものであろうか。
ところで、僕は上の言葉で表現されるような背徳感のようなものを自分も抱いたことがあることを認めるが、そういう後ろめたい感情だけで母との闘病生活の時期を過ごしていたなんてことは全くないし、何の恥ずかしげもなく自分で自分に肯定できる愛だの慈しみだの献身だのの感情だって持っていたことを僕は自分で知っているから、今更そのとき背徳感を持った事実に背徳感を持って落ち込むなんていう不毛なことを僕はしない。
そして思うに、上野がその時期を「あやまるのは私のほうなんだ」と後ろめたい気持ち「のみ」で過ごしていたということはあるまい。上のように呟く彼の中にも同時的に愛があり、慈しみがあり、献身があったはずです。
さて、ヒト言語というのは、少なくともそれが音声化されて心/脳の外に出てくる限りではその音声形式は単線的な構造を持っており(音声形式の背後にある句構造はもっと豊かな構造を持っていますが、それは別の話)、後ろめたさを告白する文と「同時に」他の内容を伝える文を出すことができません。「2文以上を同時に表現することができない」というヒト言語に関する経験則は僕は人の口蓋器官が形成しうる音声の単線的特徴によって規定されているものなのかと思ってましたが(十分に調音された音を2音以上同時に口で発することはできない)、友人にきいた限りはおそらく手話の方でも(2本の手や表情筋など表現に参画する器官が複数個並列的に存在しうるにも関わらず)この経験則は適用されるようなので、モダリティを超えでたなにかもっと深い原理がそこに関わっているのかもしれません。ヒトは考えるときはもっと色々なことを同時多発的に思っているんだろうという個人的直感があるんですが、なぜ言語を通すとこうも単線的な表現ないし知覚しかできないんだろう。不思議。
で、マンガというメディアもやはり部分的にヒト言語の表現形式に依存したメディアであると思いますが、上野が上記の後ろめたさを告白するという言語行為をする際、コマ全体も暗い色調、人の描写にもどよーんと陰がかかり…、というふうにページ全体が言語的にも視覚的にも「あやまるのは私のほうなんだ」的雰囲気に満ちています。『もっとキホが生きているうちにできることがあったんじゃないか』と悔いる日々を描くマンガのストーリー進行上この告白のインパクトというのはかなり重要なので、上野が表現者としてここで視覚情報全体で「どよーん」感を演出することを選んだということに僕は当然何の文句もないんだが、じゃあ上野のこの表現に限らず、「「ヒトが複数個の相反する感情を同時的に有機的に連続的に多発的に抱きうること」を何らかの形で率直に表象するような表現というものは可能なのか」、という問いを問うてみるのは面白い、と思った。
言語文で意味内容を表現することが(なぜか)「2文以上を同時に表現することができない」とするなら、そういう同時性の表現は言語のみの描写ではないのかもしれない。いや、あるいは言語での表現にあくまでこだわり、時系列的には一瞬の出来事であってもそこで起こった感情を数十ページにわたって詳細に述べ連ねるというのもひとつの手なのかもしれない。
しかし、何かを言語で語るということは他のすべてを言語で語らないこととイコールであると思われるので、難しい。
それでは言葉で何かを表現しつつも視覚や聴覚情報などでは別のことを表現しようとするという形態はどうか。ないし、あえて言語を全く離れてしまってはどうか。ピカソの絵などの絵画なんかがもしかしたらそういう方向性、言語というメディアの構造的制約を離れた表現の可能性を追求する一つの試みなのかもしれません。僕には絵画はよく分かりませんが。
人の心・感覚のリアリティをどこまでも追求することがあえてビジュアルや言語そのものの単純なreproductionを離れることをもその可能性の一つとして内包する、というのは面白いですね。
しかし人が人の感情を表現するときの言語の持ち味とというのはなかなか他の感覚情報に置き換えづらい何かを持っているというのも事実かと思う。そしてヒトもそれぞれきっと言語を使って自分の中の得も言われぬ感情を理解しようと努めているわけで、特定の形式制約を持ちつつもかなり効率的な情報整理の方式が「言語化」であるとしたら、我々のエピソード記憶の多くも多かれ少なかれ言語を介してこそ保持可能になっているのやも知れぬ。いやはやとても難しいですね。
ま、何の結論もないですが、そんなでした。

Previous postモデル理論的意味論を巡るTwitter談義記録(2011年1月9日〜10日) Next post成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売

What do you think?

Name required

Website

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>