"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について

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06 19

心身二元論という哲学的・形而上学的言説があります。自然界には物質の世界と心・精神の世界のふたつがあり、このふたつの世界はかなりな程度断絶されていて、それぞれまったく異なる法則や実体によって支配されている、というような考え方ですね。それ以前にもそれ以後にもそれに似た自然観は存在していたものと思われますが、デカルトのそれが最も有名でしょうしまたこれから続ける何回かの投稿に最も関わりが深いと思いますので、とりあえずはその定式化を紹介します。

デカルト的心身二元論によると、物質の世界はいわゆる有限の体積および質量を持つモノどものがひしめく世界である。この物質の世界における運動は、単純にモノとモノがぶつかり合って運動エネルギーが伝わるというような「接触による伝導」という形で、そのような形のみによって実現される機械的な世界です。一方こころの世界は、なんだかよく分からない思推実体や霊魂などの世界である。どういうわけだか脳の下垂体あたりの位置にこの精神世界のベンチのようなものがあるというふうにデカルトは言っていたんですが、まあそれ以上はよくわかりませんね、という、なんというか不明な世界だった。

ノーム・チョムスキーが著書”Language and nature” (1995, Mind収録)やNew Horizons in the Study of Language and Mind (2000)などで指摘しているように、デカルトの形而上学的二元論(metaphysical dualism)というのはその実「自然はこういうふうにできている」という経験的な仮説(hypothesis)ないし予想(conjecture)だったと考えられます。この予想を提出するデカルト側の動機は(他にもあるかもしれませんが)とりあえず大きく分けて2つありました。まず第一に、後に物理学と呼ばれていくような一大研究プロジェクトをデカルトが立ち上げようとしていたとき、人間の思惟の問題はどうも物質およびその接触による運動がどうのという方向性ではとても説明し尽くしようがないなにかがあるということに彼は気づいていました(デカルトのこの辺の思想史的事情はもっとずっと複雑ですが)。そこで、数学的に明晰に物事を把握するという探究の仕方を、とりあえず心の問題はカッコに入れて進めてみよう、というふうに決めました。ですから、二元論的にモノの世界を心の世界と独立のものとしてとりあげるというのが、彼にとっての数学的明晰性をモットーとする物理学の構築にとって必要なガイドライン・working hypothesisでした。また、より重要なことに、この形而上学は「接触力学を極めることで(少なくとも物質的な)世界の理を極めることができるはずだ」というデカルトの壮大な楽観を裏付けるバックボーンでもありました。実際、モノの世界なんて結局のところそれくらい単純なものなんじゃないか。それくらい単純なモノの世界に関してなら、接触による運動っていうこれまた単純な概念のみを通して究極の説明理論を作ることができるんじゃないか。とそういう楽観的な野望がデカルトにはありました。

いってみれば、デカルトの形而上学的二元論とは、接触力学としての物理学が到達しうる世界把握に関して、彼がもつ期待の最大値をあらかじめ表明したものだったんです。心のことは(この方向だけでは)分からんだろうけど、モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち!!っていうね。

接触力学でそこの法則すべてを看過しうる(と期待される)世界としての物質の世界と、その探究においてはとりあえずカッコに入れられてしまった別次元のものとしての心の世界。このモノと心の二元論的断絶は、デカルトの提示する機械的物理観が経験的に正しい仮説である限りにおいてその信憑性が高まります。しかし、これは口を酸っぱくして言っておかなきゃいけないんですが、デカルトの機械的物理観はニュートンの万有引力の発見によって完膚なきまでにぶっ潰された。ご存知のとおり、万有引力は、質量を持つ2つの物質が互いに接触を介さず引き合う引力である。「接触を介さず」というのが味噌で、これは接触力学を唯一の原理とすべきデカルト的物質世界においてはあり得ない力であったわけです。こういう接触を介さない力が重力加速という根本的な運動現象を生み出すということが知れた以上、デカルト的なモノの概念、接触力学のみをもって把握しきりうる「閉じた」物質の世界というのは実際のところ間違っていた、ということにならざるを得ない。この結論は当時のデカルト的自然観に慣れ親しんでいた哲学者たちにはおよそ受け入れがたいものであったし、それゆえニュートンの仮説は「せっかくデカルトが純粋化した物質世界にまた幽霊みたいな”オカルト”力を持ち込んできやがるトンデモ仮説」としてさんざっぱら批判されたそうです。面白いことに万有引力を発見した当人のニュートンすらもそう思っていたらしくて、ニュートンは晩年にいたるまで自分の発見した万有引力の接触力学的根拠を明らかにすること、デカルトの機械的物理観と万有引力の間の矛盾を何とか解消する糸口を見つけることに専心したといいます。ニュートンのその努力は結局のところ報われることはなく、結局彼は諦観をもって”I frame no hypothesis”とつぶやきましたとさ(この”I frame no hypotheses”はまるで反理論主義、実験・データ・観察至上主義を支える言明として権威主義的によく引用されるようですが、少なくともニュートンの意図を汲む限りそれは曲解だと考えるべきでしょう)。

と、いうわけで、デカルトが物質世界の究極理解を夢見た接触力学原理主義的研究プログラム、およびそれを支える経験的仮説・予想だった心身二元論はニュートンによってものの見事にぶっ壊されてしまった。まあ経験的仮説が後日新たなデータ・発見によって覆されるなんてのはよくあることなんで、それ自体はむしろ理解が深まったということで歓迎されるべき発見なんですけど、しかしそれにしても、デカルトの形而上学的心身二元論が既に経験的反証によって瓦解してしまったことの意義は十分に現代人たちに認識されているとは言い難い。

ひとつ大きな結論としては、ニュートン後、我々はもはやそれによって立つべき明晰なモノの概念、モノだけの「閉じた」世界という世界像を描くことができなくなった、ということがあります。モノの存在や運動の背後にある原理は接触力学なんていう偏狭な理論じゃ全く語りつくせないような、人智を超えた神秘的な力に満ち満ちている。事実その後の物理学には、万有引力を皮切りとして、電磁波、一般相対性、量子、などなど、なんというか「手で触れられる」みたいな常識的なモノ観なんかの遥か外にあるような概念がどんどん入ってくるということが科学史的事実として起こってきた。結果として、我々は今、そういう物理法則の類が実際に力を及ぼしている範囲についての原理的な理解を有していない。デカルトの機械的物理観亡き後、モノの世界は接触原理のみに「閉じて」いなくなった。そして僕たちは「モノ」や「物理法則」の範囲をどう「閉じ(なおし)て」いいのか分からない。

もうひとつの結論は、「(心のことは分からんだろうけど)モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち」っていうデカルトの楽観的予想がもろくも崩れ去った今、心の世界とモノの世界を二元論的に峻別する経験的・理論的根拠はもはやないのだ、ということです。モノが物理学(などの自然科学)が扱える範囲であり、心はその蚊帳の外のオカルトなんだろう、というのがデカルト時代の「科学者たち」の一般的な想定であったが(ちなみに自然哲学が自然科学と哲学に分離させられていく方向性をこの二元論的想定が助長していったのは間違いない)、先の段落に見たように、いまやもう「モノ」の世界・物理学の世界は閉じていないのである。閉じ方を知られていないのである。だから心とモノの境界線だってどうやって引かれるべきかも分からない。というかそもそもデカルトの研究プログラム亡き後、そんな境界線を引く科学的根拠すらも今のところ与えられていない、という状態なのである。

よって次のようなことが起こりうる。ひょっとしたら、今まで心の領域と呼ばれていたもののどこかに、モノの世界で観察されるような物理法則の影響を見出すことがありうるかもしれない。逆も然りで、もしかして心の領域に関わるとされる何らかの法則の影響を実はモノの世界の方にも見出しうるのかもしれない。物理法則がモノだけでなく心の現象の一端をも説明する統一的原理として再認識されることがありうるかもしれない。逆もまた然りかもしれない。モノと心の世界は結局のところ閉じていないのかもしれない。互いに素ではないかもしれない。形容矛盾でもなんでもない「心の物理学」(mental physics)というものが(例えば「化学現象に関する物理学」(chemical physics)と同じように)将来的に可能なのかもしれない

ある程度僕の解釈が入るかもしれませんが、現代言語学を牽引する研究プログラムである極小主義プログラムミニマリスト・プログラムthe minimalist program)は、結局のところ「心の物理学として言語学をやっていこう」という呼びかけなんだとも解釈しうると僕は考えています。現在、言語現象の中に作用最小性原理や計算最適化原理などの物理法則の影響を探すという、それこそちょっと前だったら考えられなかったようなことが、極小主義プログラムを追究する一部のbiolinguistたちによって真剣に試みられています(ちなみにminimalistを無反省に権威主義的に、ないし意識的に政治的に名乗っている連中の大半はその実真剣なminimalistではないので言語学の文献にあたる際には注意が必要)。

やっぱり未だにノーム・チョムスキーがこの極小主義プログラムを牽引する急先鋒なんですが、しかし残念ながら彼には一流の物理学者・数学者としての素養はないのでなかなか彼だけではどうにもならず、その意味では未だ研究プログラムとしては実に刺激的なものが立ち上がったとはいえ、他所の分野の人達に誇って示せる、それをもとに言語学のキャンペーンを張っていけるような美しい研究成果というものを我々はまだ出せてないでいます。でも心の物理学を真剣に目指して研究を続けることで、将来的に心の科学に関するガリレオやニュートンの到来を期待できるかもしれないんです。

ともかく、デカルト二元論亡き後、真に有意義な形で「心の物理学」を目指すことを阻む哲学的原理はもはや何もなく、言語学を初めとする認知科学が物理などの自然科学との将来的な統合に向けて歩みを始めているということそれ自体は、ぜひ言語学の分野の外にいる人達にも知っていってもらいたいことです。

ちょっと長くなりましたので、またこの記事の続きは日を改めて書かせていただくことにします。


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