"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ

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前回のブログで僕が現行の「formal semantics」と呼ばれているある種の統語論について持っている疑念を簡単に紹介しましたが、それに関して早速ICUの先輩である生田敏一博士(漢字が分かんなくて試しにぐぐってみたらWikipediaのICU人物一覧の言語学の欄に載ってた!)にフォローアップをいただきましたんで、ご参考までにそちらもご本人の許可を得てこちらにアップしておきます。

ブログで形式意味論に関して成田くんが議論したいのは、形式意味論そのものについてではなく、形式意味論者の態度とかあり方についてだよね?

Strictな意味で、形式意味論は、「意味」(whatever it is)を形式的/数学的に「記述」するものであるのだとし たら、syntaxが意味あるかないかなんて、そもそも関係ないわけ。

これはまさに相対性理論で速度が質量と関係しないと同じくらい無関係だな。

だから、形式意味論その物に対する問題提起ではなく、形式意味論絶対主義に対する問題提起だよね。

それには大賛成だな。

ってか、「意味」では解決できないSyntaxの必要性なんて、Syntactic StructuresのChapter2を読めば小学生でも分かるような問題だよね。

こちらで生田さんにご指摘いただいているとおり、形式意味論と呼ばれる枠組みで行われている言語の意味の形式的記述に関して僕は何の文句もありません。downward/upward entailing environmentsだのquantifierだのfocusだのの振る舞いなど色々と面白いデータが記述されてますし、僕自身興味深いと思うこともしばしばです。

こちらのメールへの僕の返信を以下に一部抜粋して掲載します。基本的には生田さんにご指摘いただいた通りである旨を確認した上で、僕なりの「形式意味論者の態度とかあり方について」の問題提起を具体的に列挙しています(僕の方でのあきらかな文法ミスやタイポなどは気づいた範囲で直してあります)。

そうです、形式意味論者のよくある態度のあり方についての僕なりの問題提起をしているつもりです。

その問題の態度の在り方については大まかに三種類あって、まずひとつはformal semanticsが仮定しているようなFunction ApplicationだのPredicate Abstractionだののメカが真理条件なりなんなりの「denotation」とやらを計算して出してくるっていうあのメカは、結局のところsyntaxであるということを認識していないこと。もう少し正確に言うなら、formal semanticsとは、LFという表示をinputとしてとり、(narrow syntaxと全く違う手順でもってinclusivenessを破りまくって)”D(enotation)-marker”なるものをoutputとして出すというsyntaxの別個のcomponentを仮定しその理論を作るという試みというふうにしか捉えざるを得ない(それを単なる言語行動の記述ではなく心/脳の実在として主張する限り)。それなのに例えばnarrow syntaxの研究に関してまるで傍観者の立場から「ミニマリズムとかなんとか言って結局いくらでもstipulationを加えて記述用にメカを複雑にしてるだけじゃん」とか言ってきたりするんですが、同様の批判はそっくりそのままD-markerの計算機構にも当てはまるということを認識していないことが往々にしてあるんです。

この問題を複雑にしているのが、Chomskyがミニマリズムの目標を定式化するときによく使う「syntaxはCI(“thought system”)の要請に対してoptimalに応えるefficientな計算機構だ」みたいな言説なんですが、これを上に述べたような誤解をしているsemanticistsが曲解すると「じゃー俺の意味の理論はこれとこれとこれっていうinterpretive rulesを仮定しておくから、syntaxの方はそれに見合うようなphrase-markersを単に出してきてくれればいいんじゃね?」っていう謎の想定につながるんですわ。この路線ですとsyntaxとはformal semanticistsが勝手にnarrow syntaxの外にstipulateしたものどもにへへえと迎合してそいつらのために妙ちくりんな表示をかえすっていう奴隷のようなメカのように捉えられることになりますが、これは僕はやはり不当な仮説だと思います。この類のextra-syntacticなstipulationsというのは二重にたちが悪くて、まずこんなものがヒトの進化(ないし初期の言語獲得)でどうやって出くんだっていう出自の問題をまったく未解決のままに放っておくしかないということ。それにくわえて、結局「thought system」というのは言語=syntaxを使ったときの表れを通してしか研究できないですから、それをもとにして意味の問題を研究するべきsyntaxをstipulationによってsemanticsにsubserveするものと見ようというのはなんとも滑稽なものなんです。

その上さらにsemanticistsの態度として問題なのが、これが3つ目ですが、「externalismは言語のような認知機構の研究においては徹頭徹尾排除されるべきだ」というChomskyの大元の批判にはさも同意するような顔をしておきながら、その実D-markerという概念を全くexternalismのdenotationという概念と同等の価値を無反省に付与したままふんぞり返っているということに気づいていない、という点。これも自分たちがやっているのがその実syntaxの研究だっていうことを認識出来ていないところから起因することなんでしょうね。「What is denotation?」という問題設定をしているsemanticistsの少なさったらホントに異常ですよ。この点Uriagerekaの以下のコメントが非常にto the pointだと思います。

“[W]hen it comes to … `reference’-bearing elements, or more generally elements with a denotation (John, book, sing, and the like) not a single theory exists that clarifies what sort of relation takes place between such words and what they denote. This may seem too harsh a comment to make, but the truth is all familiar theories—all of them, really—presuppose the relation, in statements of the sort of `snow’ refers to snow. Indeed, contemporary semantics prides itself in being able to operate without detailed knowledge of that intentional dependency, solely on the basis of the algebraic combinations that work above those relations, which are deemed either irrelevant—where the theory bottoms out—or something that psychologists ought to work out the details of. But the details themselves are not forthcoming.” (Uriagereka 2008, Syntactic Anchors: p.9)

ま、そんなところでしょうか。こういう認識のもとにあえて意味のmodel-theoreticな記述を本分としたい(ないしその記述の上でこそみえてくるinsightがあるはずだ)という言語学者がいれば僕はその態度は尊重しますよ。それは「GBの枠組みをあえて使って統語現象の記述を続けることのほうが有意義だろう」という方法論的な決断・予測をするsyntacticiansがいてもおかしくないというのと同じことです。

「Syntactic Structuresを読めばそんなことぐらいわかるだろ」というご意見ももっともだと思います。しかしなんでしょうね、Cambridgeで学生をやっているものとして、現在どうやらformal semanticsとかいうのが流行っているらしく、その上で上に述べたような誤解の多くを目のあたりにすることがあんまり多いので、一応ああいう形で書いておこうかなと思ったっていうことなんです。

ま、その上で言えば、minimalismを標榜して書かれる昨今の統語論の論文のつまらなさは全く目に余るものがありますし、そういう意味で「統語論ツマンネー」っていう感覚を持つ人達がいることは実感として実によくわかるという気がしますわな。で、そういう時に力のある若い学生が目指すべきは、Cartographyだのなんだのいうsyntaxで提案されている恐ろしくみっともないメカをなんとか超え出ようという努力にこそ注がれるべきであり、結局Cartographyと同等の記述力をformal semanticsという形でpost-LF syntaxに焼き直そうっていうような方にいってほしくないな、と僕個人は思うのだ、ということなんです。

ところで、僕はNorbert Hornsteinの仕事の中でダントツで一番素晴らしいと思っているのは彼の1984年の Logic as Grammar という本で、これはおそらくチョムスキーを除く生成文法理論家が初めて正面きってdenotational semanticsの枠組みがその根本に抱える問題を批判した本です。彼がかつてJim McGilvrayなどの手ほどきを受けた哲学者だったというそのバックグラウンドを十二分に発揮している良著。僕の記憶している限りではHornsteinの批判は全然古くなってないし、むしろ当時のformal semanticistsが「文脈に依存しないformalなsemanticsの記述が可能なはず」と楽観していた部分はぼろぼろに崩れて現行のsemanticsがcontextual variablesいれまくりのメカに肥大している昨今ではむしろその批判の意義は増しているのではないでしょうかね。

加えて、Chomskyの本っていうとたいていそのGBだのAgreeだのphaseだのlabelingだのの技術的な詳細を追うときにばかり読まれている感じですが、彼の2000年出版の New Horizons of the Study of Language and Mind なんて本当に言語学者全員が読むべき良著ですよ。Semantic externalismに関するシリアスな批判がものすごい迫力で論じられているんですが、externalismへの批判というのはたいていはそっくりそのまま普通の意味でのdenotational semanticsにも当てはまるし、またもしdenotational semanticsはmind-internalだと捉え直す=つまりLF-to-D-markerの写像システム・syntaxとして捉え直す路線なら上に述べた問題が出てくるわけです。こういう仕事をしっかり読まんといかんぜよ、と思うこと多々。とはいえ、僕自身きちんとあの本の詳細を把握しきれているわけではないんで、これは本当に地道に勉強してかなきゃいけない。みんなで頑張りましょう。

最後に、自著で申し訳ないんですが、僕が昔UriagerekaのSyntactic Anchorsのreview (Lingua, 119 (2009) 1767–1775)で書いたのは以下の通りで、今でもこういう「先にsyntaxありきの研究態度で意味の問題に望むべきだ」という僕の研究方針は変わっておりません。

It is [an] obvious fact that syntactic forms (sometimes associated with overt sounds or signs, though not necessarily) can be used by an individual, ‘appropriately’ and ‘meaningfully’ with regard to whatever purposes s/he might use them for. Such an observation leads the participants of the above-mentioned naturalistic inquiry to more or less passively postulate the ‘thought’/C–I system as a sum of performance mechanisms that syntax can interface with. In doing so, naturalists may expect that this enterprise, when developed, can eventually clarify something about the nature of this interfacing hypothetical construct. But such an expectation is in principle secondary to the naturalistic study of the forms and workings of syntax, since syntax can anyway generate forms regardless of whether and how ‘meaningful’ they are at such interface(s). Whether the theory can eventually meet such expectation will only depend on empirical progress and prospects that the study of syntax will yield in due course.  (pp. 1769-1770)

ま、そんなところでしょうか。以上、成田でした。


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