"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ:その2

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01 10

前回前々回のエントリーに関して@wataruuくんからまた別のフォローアップの質問をTwitter上でもらいました。

成田さんはある種理論の”packaging”をしているように思われるのですが、internalistでありつつモデル論的意味論を採用することは可能ではないでしょうか。…(続く)

あと、internalistになった途端に、意味論はsyntaxになる、というのがよく分からないのですが、教えていただけますか?

今回はこれに応えるエントリーを書きます。

まず、「形式意味論ってのは結局syntaxとして解釈されるべきもんですんで」っていうのはチョムスキーが最近いろんなところで口を酸っぱくして言ってることですんで、別に僕が最初に言い出したなんてことは全然ないですからね。その前提での僕なりの私見(つまりチョムスキーの意図とは違うかもしれない僕個人の意見)を以下に述べることにします。

「”packaging”してるだけじゃん?」と@wataruuくんが言う意図はわかるような気がして、つまり「なんでsyntax/統語論と別の理論であるべきsemantics/意味論をまで”packaging”してsyntaxとよばなきゃいけないんかい?」っていう質問なのでしょう。これはまあ基本的には用語の問題で、LSLT以来の術語を使って「The theory of linguistic/mental form and its formal manipulation (with no explicit reference to the way in which it is put to use)」としてsyntaxを定義するなら、現行のmodel-theoryの計算というのはその広い意味でのsyntaxと捉えるのが一番妥当だ、というのがまず基本的な点です。

さて、ここでまず有りうる反論1:
「いやいやいや、「linguistic formがどう使用されるか」に関するある特定の形式的手続きによる記述がmodel-theoretic semanticsなんであって、そうであるならそれは上の()部分の条件を満たしていない以上syntaxではない」 

⇐この立場について最近のエントリで僕がいっているのは、そういう形式的意味記述が面白いデータを提供しているらしいってことについて僕は文句ないってことです。そういうデータに関してはやはり来るべき説明理論を求める、ということで、説明を目指すということはイコールsimplest possibleな理論を求めること、そして願わくば(おそらく自然法則が導きだしてくるところの)simplicityという概念そのものを説明項として利用する可能性を追究することで、まあそれはつまり意味の問題に関してもminimalist programで研究をすることでしょうね(Goodmanの路線:Goodmanのsimplicityの概念がChomskyによってどう言語理論に応用されてきたについての簡明なoverviewに関してはTomalin 2003, Linguaがとても詳しい)。
そこでnarrow syntaxがどれだけ主要な役割をはたすことになるかは経験的な問題ですが、すでにLSLT, Syntactic Structuresで示されているようにnarrow syntaxの意味の問題に関する強い説明力は疑い得ないでしょうから、じゃあこのnarrow syntaxをどこまで強い説明項として利用できるかを問うというのは意義のあることでしょうな。それがChomsky-Hinzen-Uriagerekaの問いでしょう。

でま、この反論1によると意味論が記述しているのはlinguistic formでは「なく」「それの使用の仕方だ」ということになるんで、この方向で意味論の射程を解釈する限りにおいては@wataruuくんの「packagingしてるだけじゃん?」っていう批判はあたってるってことになるのかな。

しかしここで注意すべきは、この路線を求めるということは本来的に「言語の使用に関する理論は作りえない」という後期ウィトゲンシュタインの強い批判と対峙しなくてはならなくなるということなんです。言語使用というのは「暑いね」と言われたらそれが「クーラーつけて」とか「アイスクリーム頂戴」というリクエストの意味にも「お前の部屋換気もしてねーのかよくそったれが」という非難の意味にもとれたりとか、そういう徹頭徹尾形式的記述を拒む複雑な人間行動の全体を指すわけで、その全てをformal semanticsが記述しおおせる(ましてや説明しおおせる)可能性はないでしょう。デカルト以来”creative aspect of language use”というのが徹頭徹尾理論的説明を拒み続けていることを言語学者・言語哲学者は無視できません(Cartesian Linguistics (またその3rd editionのイントロby McGilvray)、New Horizons in the Study of Language and Mind)。

さて、ただ現代の職業的意味論者はまさか「あついね」→「クーラーつけて」の問題を真剣に取り扱おうとは誰も主張しないわけですが、それは彼らが「言語使用」の全部ではなく「一部」を取り扱おうとしているのであり、その「一部」に関してであればformalな(ことによるとmodel-theoreticな)記述が可能だという仮定をしているからなんだと思います。

で、その「一部」って何? 

生成文法に与する意味論者は、その言語行動の「一部」というのは特にある統語構造の表示のレベル(”LF”)から形式的に定義された手続きによってメカニカルに一意的に写像される意味解釈の表示と捉えています。そういう表示があるはずだという研究者としての直観があればこその計算意味論です。

この「一部」をヒト個体の外に仮定するなら、それはsemantic externalismになります。Fodorのcausal theory of referenceだったりspeech community内の慣習との一致をその実とするDummettとかPutnamとかの路線だったり、色々な方向性が言語哲学文献内で提案されてきたことでしょうが、ま、その限りにおいてこの統語と心の外の対応関係を問う研究は心のメカニズムの研究ではなく人の行動の研究で、それに関してはチョムスキーの『New Horizons in the Study of Language and Mind』などが強力な批判を挙げていますし、また職業的言語学者はみんなそれには同意した(風を装っている)ようなので、ここに関してはそれ以上言わないことにします。

では、その「一部」をやはり心の中の出来事として捉えると「仮定」したらどうでしょうか。これを仮定Aと呼びましょう。formal semanticsをinternalist theory of human languageとしてとらえようとすればきっとこの仮定Aが必要になります。仮定Aをもってすれば、ヒトのmind/brain内の回帰的計算メカニズムである統語と、および上で述べた意味の「一部」をも引っ括めたモノとしてFaculty of Language(言語機能; FL)が再定式化される事になります。さらに、その意味の「一部」とはLFから一意的に機械的に写像される一心的表示と再定式化されることになりますが、その心的表示をここではD(enotation)-markerと呼ぶことにしましょう。そのLFからD-markerへの写像に関する計算手続はFLの研究の一部となり、またその計算はD-markerがその後でどう使われるかという問題を問わずに行えるということになるはずです。すると言語使用の噛んでくる前の心的表示としてのD-markerおよびその計算に関する研究は上のLSLT的な定義に従っていえばまさしく「syntax」であり、その限りにおいてこれは心のメカニズムの研究=認知科学です。そう言わざるをえない。

これで僕の中では大体@wataruuくんの質問に答えたつもりです。

でま、この路線を取るなら、それを統語論と呼ぼうと呼ぶまいと、Lexicon-to-LFという一方のnarrow syntaxとLF-to-D-markerという他方のpost-LF-syntaxの二つを同時に心的計算メカニズムとして仮定することになりますんで、その二つを仮定する限りはなぜこの二つのsyntaxがかくも異なる様相を呈していなければならないのかということが経験的問題として浮上します。認知科学者としては願わくばそこにbest possible answerを求めたいところですし、それが単純な意味でのminimalismでしょう。可能であればこの2つの異なる計算サイクルを一元化したいと願えばそこに例のphase theoryが噛んでくることになるでしょうし、またそこに一元化を期待することが不可能だということが何らかの独立の証拠によって示されたりした場合は(今は全くそんなモノは示されていない)、じゃあなんでそんな不恰好な姿をしてなければいけないのか、そんな不恰好なものがどうやってヒトの言語能力として獲得されるのか・進化してきたのか、という問題が重くのしかかります。

でま、兎にも角にもformal semanticsという分野では上に述べたような2重のsyntaxを仮定する路線をあゆみ、結果として一部面白いデータを洗い出しているわけですから、そこに文句はない。GBが5つの異なる統語サイクルを仮定する理論でもって面白いデータを出してきてたってことを僕が疑わないのと同じです。そのデータに関しては上の段落に述べたような問題意識の上に如何にしてそこに説明が可能かというのを問い続ける以外にない。

さて、ここでこの2重のsyntaxを仮定する路線を追究する上での問題:

問い①:D-markerとは何か。

問い②:仮定Aを取る根拠は何か。

さて、問①に関しては以下の回答Eを出すわけにはいかない:

回答E:D-markerとはexternalismが仮定するところのdenotation(truth-conditions, reference)と同等である。

こう言ってしまうと、結局のところdenotationというinternalistな認知科学が取り扱う範囲を超えでた(そしてNew Horizonsが語る限り取り扱い得ない)「word-world relation」、externalistのstipulationsを認知科学にそのまま持ち込む、ということになる。これは看過しがたい。

それでは、denotationとは違うD-markerの定式化がありうるのか。その問いをきちんと正面きってdenotationist semanticistsは問うているのか、という点については、僕は正直疑問を抱かざるをえない。以前引用したUriagerekaの以下の一文がその点を如実に指摘していると思う。

“[W]hen it comes to … `reference’-bearing elements, or more generally elements with a denotation (John, book, sing, and the like) not a single theory exists that clarifies what sort of relation takes place between such words and what they denote. This may seem too harsh a comment to make, but the truth is all familiar theories—all of them, really—presuppose the relation, in statements of the sort of `snow’ refers to snow. Indeed, contemporary semantics prides itself in being able to operate without detailed knowledge of that intentional dependency, solely on the basis of the algebraic combinations that work above those relations, which are deemed either irrelevant—where the theory bottoms out—or something that psychologists ought to work out the details of. But the details themselves are not forthcoming.” (Uriagereka 2008, Syntactic Anchors: p.9)

そして、ここで補足すべきは、言語使用の中にreferenceだのtruth-conditionだのという抽象的な概念が埋めこまれているという想定はfactual observationsではない、ということ。むしろ言語哲学の慣習にしたがってそういうstipulationsを立てる人がいるというだけで、それはstipulationsである限りにおいて言語使用をする個々人がfactualなintuitionsを持てるような対象ではない。それがdenotationであれD-markerであれ、それはそういう表示の存在を想定している科学者・哲学者がどういう表示であるかを自由にstipulateできる対象であってそれ以上ではない。僕達人間はもちろん望むなら「”the dog” refers to the dog」といったり「”it snows” is true iff it snows」といったりというゲームを行えるが、それと同じゲームを認知科学が説明項として想定する心的表示そのものが行っているとさらに想定するというのはどうなのだろうか。”Reference is what people do, not what linguistic computations and representations do”というのを確かMcGilvrayがCartesian Linguisticsの3rd editionのイントロで言っていたけど、そのとおりだと思う。

さて、D-markerがdenotationでないんだったら、何なんでしょう。これは上の問い②とも関係しますが、仮定Aを想定しまたLexicon-to-SEMという一元的統語論ではなくLexicon-to-LFとLF-to-D-markerという二種類の全く異なる統語論・心的計算メカニズムを想定するということをすることの理論的根拠は何なんでしょう。たまたま今一部でそういう研究路線が流行っているという歴史的偶然はその問いに関してなんら実質的な回答を与えない。structuralist linguisticsの不備について「いや、それが流行ってるんだからそれでいいじゃん」という回答が意味をなさなかっただろうことと同様に。その理論的根拠というのは、それがあるとしたら、externalistが仮定したdenotationという想定を超え出たところにあるべきでしょう。あるなら教えてください。僕は不勉強にして知りませんので。

もし「そう研究して面白い研究成果が出てるんだから」というのであれば、それはstructuralist linguisticsが行い得たものよりもずっとまともな根拠付けでしょうね。で、もしもLexicon-to-LF, LF-to-D-markerという統語論二元論が例えばデータの記述に関して面白い洞察を載せ「やすい」フレームワークであるとしたら、それはFLの性質に関して何らかの真実をついていることになるのかもしれない。そしてさらにそういう路線がGBの頃のような統語論五元論とは質的に異なるような洞察を与えていて、それが真実を付いていると思われることがあるとしたら、その限りにおいてそれもやはり面白い問題です。

ここで個人的には、ですが、僕はGBの統語論五元論が言語記述の上で一定の成果をあげたと思われることに関して、言語研究っていうのはやっぱりフレームワークそのものが与える記述のある程度の「ゆるさ」、「自由さ」みたいなものがfruitfulな研究を量産する上でうまく働く傾向があるってことなんじゃないだろうか、と思っています。ミニマリズムが統語論一元論(的な路線)を追究することで、一部bare phrase structure (Merge)のような本質的説明に迫る重要な概念の発見を促したというのは大変喜ばしいことだと思いますが、一方で道具立てのMerge-Agreeによる一元化が一部の統語論者によってCartographyのようなかくも醜い結果を出さしめ、ことによるとこういうふうにしか統語研究は進みえないという諦めのようなものを分野の力のある若手に抱かしめるのだとしたら、それはresearch programとしては(少なくとも現時点では)不成功なものだと言わざるをえないでしょう。

ただ、そういう状況を打開すべく研究を進めようともがく統語論者・意味論者が少数ながらも何人かいるということに関しては見過ごすべきではなくて、自分もそういう人たちに力添えをしたいなと願いつつ、当面はそういう仕事の次なる成果を待ちつつ、自分は自分で粛々と自分に出来る仕事をしなければな、と思う次第です。

そんなところでしょうか。


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