「何をやるかより、何をやらないかが大切だ」とよく言っている。(中略)一人の科学者の一生の研究時間なんてごく限られている。研究テーマなんてごまんとある。ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終わってしまうんですよ。だから、自分がこれが本当に重要なことだと思う、これなら一生続けても悔いはないと思うことが見つかるまで研究をはじめるなといってるんです。(利根川進、立花隆 (1993). 『精神と物質』 文集文庫)
いつ見ても非常にいい言葉だと思う。曲がりなりにも言語の科学者を目指す人間としては実に身につまされる話だ。
人生長く見積もっても80年。ついこの間27歳になったから、もう人生の3分の1は過ぎてしまったってことになりますね。早いものだ。幸いなことにbiolinguisticsという自分の一生の仕事は見つかったのだが(見つかったことが不幸かもしれない恵まれない分野ではあるが、苦笑)、しかし自分が五体満足に研究を続けられる時間はそれこそ人生のもう3分の1とかしか残ってないだろうな。僕は仲間と遊ぶのにも十分に時間を充てたい人間なのでさらに時間は減り。困ったものだ。
で、そんな限られた時間でなにをやるか、と自分自身に問いかけたとき、僕はどうも日本語のうんたら構文とかの詳細記述などの仕事に第一義の興味を持てないんだよな。それらがヒトのbiologyに関しての何らかのnontrivialな洞察を与えるという予感がしない限り。
この間大学の先輩に「お金があったから買い物にいった」と「お金があったので買い物に行った」のようなときの「から」と「ので」って微妙に違うけどそれってどういう違い?なんて質問を受けた。生成文法研究者がまさか自分の母語のこういう言語学的に面白そうな問いを専門家でない人から興味を持って質問されるなんていうのは自分の専門の知識というか力を示す千載一遇の一期一会のそしておそらく唯一無二の機会だったというのに、僕は残念ながら「昔そんなこと扱ってた論文読んだことあったけどなんだったっけなー」と言いながらお茶を濁すに終わってしまった。
なんてしょっっっっっぼい言語学者! この先輩に対して自分が言語学者なんだぞと見せつける場面はもう一生ないかもしれないというのに!!
しかし僕はきっとこういった類いの才能は今後もあまり伸びないんじゃないかと思う。齢を重ねてもそういうことをやり続けるタイプの言語学者もいらっしゃるしそういった方々の仕事を決して否定するつもりはない。むしろ僕にはないその才能にひれ伏すばかりである。そして才能ある人がそのふたつの語彙の比較研究から何か本当に深い洞察を導きだす可能性もまったく否定しないが、残念ながら僕にその才能はない。少なくとも僕がそう思っていない、そしてそれで十分である。
僕は日本語の扱いがうまくなりたいのでも衒学をひけらかすのでもなく、ヒトのbiologyを知りたくて言語学をやっているんである。日本語にしかないしかも2つの語彙でしかない「から」と「ので」の違いについて論文を読みあさったりしてたら本当に普遍文法の解明という本業に時間が全く足りなくなるに違いないのである。だから読めません!!
という言い訳。ちゃんちゃん。