"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

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数学(的思考法)とは? – 数学者たちとの飲み会記録

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06 27

さる某日、ボストン留学時代の仲間の数学者たちと飲んだんですが、その時に出た数学者たちの名言をまとめておきます。僕のつたない頭で精一杯咀嚼したもので、誤解は十分ありえますが、これはやはりブログの形で世に問う価値があると思いました。 1. 数学的な意味で視野が狭い人はよく答えを一般化しようとするが、本当に数学が見えている人は問題を一般化しようとする。 なんでそういうふうに頭が動くんだろう。その発想がなかった。 しかし、言語学でも思い当たるフシはある。Chomskyが “Conditions on Transformations” (1973)でSubjacency(下接条件)を提示し、RossのCatalog of islandsのいくつかを統一する原理を打ち立てたのは、どちらかといえば「答えを一般化した」という方の作業にあたる気がするが(それだけでも超すごい)、Rizzi (1978)がイタリア語のデータに基づくsubjacencyのbounding nodesのparametrizationを試みたのを見て、Chomskyはそれを高く評価しただけでなく、いわば獲得の問題一般に対してこのRizziタイプの解法が有効なのではないかという着想のもと、ご存知の「原理・パラメーターモデル」を打ち立てたわけで、ここで起こったことは、(後天的に学習できない知識の獲得という)「問題の一般化」だったのではないか。 2. 数学者A:「世の中の数学的問題には「才能がなくても解ける解法」(総当たり的な力技)と「才能がなければ見えない解法」(ひらめき・直観要素がある)の両パターンがある。」 数学者B:「「才能がなくても解ける解法」を敢行する能力だって十分才能じゃないか」 なるほど… 3.数学とは何か。特に純粋数学などに見られる一つの考え方は、物理学などの自然科学はもうすでにそこにあるもの(物質、電気、etc.)を数学(なり実験なりの経験科学的手法)を使って理解しようとするのだが、数学はいわばその逆をやる。これこれこういう公理を立ててみると、それだけでいかに驚くべき定理の数々やそれらが織りなす構造的体系がfollowするか、それを理解しその美しさを愛でる学問である、と。 理解が間違っているかもしれませんが、今まで「数学とはなにか」をついぞ理解できないできた中、これが僕にとってもっとも腑に落ちる理解の仕方だった。特に3が一番知りたかったことで何度も聞き返して説明を求めたものですが、結局教えていただいたことがすべて理解できているのか自信がない。 かっこいいなあ。数学が分かるようになりたいなあ。

ブログもう一度やってみようかと思います

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06 25

昔、大学院生ぐらいのときに、自前のブログをやっていました。飽きて随分前に更新をストップし閉鎖してしまったんですが、この頃言語学関係の学会等の機会に、昔そのブログを読んでくださっていたと告白してくださる方にお会いすることが多い。 手前味噌で大変おこがましいのだが、「ブログ楽しく読んでいました」と好意的に言ってくださる方が複数いらっしゃる。僕としては、あの何者でもなかった馬鹿者の自分の世迷言ブログが、何故そんな方々の目に止まったのかわからず、大変恐縮してしまう(若い方々だけではなく、かなり上の世代の教授先生方で読んでくださっていた方がいるというのだ。全く驚きだ)。 ブログを書くのが億劫になってしまったのは、まあ例によって、このSNS時代の不特定多数の匿名性のもとでの「全人口揚げ足取り時代」(あるいはそのような恐ろしいイメージ)の前に、余計なことはまあなるべくしないでおこうという、自己防衛の意味合いもあってのことだったが、基本的には僕が単に怠惰になったというだけのことなのだと思います。あと、僕なんて大した人間じゃないし、大したことも考えていないちゃらんぽらんな馬鹿者だという大前提の自己認識があったので、そんなやつの妄言をあえてウェブの海にゴミ捨てするのも世のため人のためにならないだろうという気持ちもあった。有り体に言えば恥ずかしい。古巣の上智に顔を出した際にその時の新修士1年生に目をキラキラさせて「ブログ見てます!!」と言われてしまい、「ああごめんなさい!」といってその日のうちに2年放置していたBloggerを閉じたのも今は昔。 でもちょっとやってみようかな。僕は相変わらず馬鹿者のちゃらんぽらんな人間ですが、ただ、僕の知り合いには、僕が心から尊敬する先生も先輩も同輩も後輩も友人も家族もいるので、彼らがふと言ってくれた目の覚めるような考え方や、思わず唸る鋭い疑問などを耳にする機会はあるのだ。自分にとってはとても価値があると感じられることがらを、そういう人たちに迷惑をかけない程度に必要に応じて匿名的にしつつ、文章の形で世に残しておくことには一定の意味があるのではないか、そんなふうに感じることがあった。 またすぐ飽きて更新をストップしてしまうかもしれませんが、とりあえずそんなわけで一応ブログを再開しますとだけご報告いたします。暇で暇でしょうがないときがあれば、時々見に来てやってください。

[8] competence vs. performcance: 理論言語学と実験言語学の間にあるギャップについて

[01:27] おさらい: 生成文法は言語の無限性に注目することで従来の言語研究に数々の視点の転換をもたらした // [07:35] 理論言語学と実験言語学の間のギャップ∋言語能力(competence)と言語運用(performance)の間にあるギャップ // [14:47] 言語能力(competence)と言語運用(performance)の区別とは // [20:42] 言語産出(speech production)における言語使用の創造的側面(creative aspect of language use)の問題(デカルトの問題)は我々人間の理論的理解の範囲を越えたところにあるのかもしれない // [27:56] 言語産出と違い、言語知覚(speech perception)の問題に関してはある程度決定性を保ったモデルを作ることが可能かもしれない // [30:30] 重要な未解決問題:文法性の程度(degrees of grammaticalness)が統辞解析(parsing)のモデルに投げかける難問 // [47:25] 理論言語学が実験言語学との有意義な協働体制を実現するためには、経験的に妥当な統辞解析のモデルを作ることが何よりも必要である(理論家の踏ん張りどころ)。

[7] 原理・パラメターモデル(Principles & Parameters Model)

[00:00] はじめに (前回のおさらい) [05:50] Xバー理論 (X-bar theory) と 主辞パラメター (head-parameter) [29:46] 原理パラメターモデルの登場 [36:39] チョムスキーの原理パラメターモデルの評価 伝統的な句構造規則(phrase structure rules): (1) English: a. S’ → COMP S b. COMP → (XP) ±WH (i) +WH → if, whether, Ø (ii) −WH → that, Ø c. S → NP Aux VP d. Aux → Ø(Present),-ed(Past), will, … e. NP → […]

[6] UG構成要素の一例: 島制約(island constraints)、下接原理(Subjacency)の話

[00:02:45] はじめに [00:07:38] Chomsky’s (1964) A-over-A principle [00:26:22] Ross’s (1967) catalog of island constraints [00:38:31] Chomsky’s (1973) Subjacency Principle [01:12:07] Rizzi’s (1978) data from Italian (1) Wh-movement (simplified) structural analysis: COMP – X – wh-phrase – Y structural change: wh-phrase – X – ⊘ – Y (2) a. S’ → COMP S b. COMP → […]

[5] Syntactic Structures(Chomsky 1957)の変換生成文法

※今回のPodcast講義では補足資料が必要になります。HPからダウンロードしてください:Chomsky (1957) Syntactic Structures, Appendix II (PDF) // 講義補足資料のPDFはこちら。 [00:02:06] 前回までの簡単な復習 // [00:04:49] Chomsky (1957) Syntactic Structuresの概説 // [00:08:26] Appendix IIの見方に関する概説 // [00:17:15] (1) “The boy reads the books.” という文の派生(derivation) / Phrase Structure: Σ:  # Sentence # ―(F1)→ # NP + VP # ―(F2)→ # NP + Verb + NP # ―(F3)→ # NPsing + Verb + NPpl […]

[4] 生成文法研究はプラトンの問題(刺激の欠乏問題)の収集・整理から始まる

[01:27] プラトンの問題とは何か(プラトン哲学の紹介を交えつつ) // [15:15] I-languageという概念 // [17:26] 一般学習機構だけで言語の獲得の問題が片付くだろうか // [35:12] structure-dependence(構造依存性)の原理(サヴァンのクリストファーの実験の話など) // [38:48] 生成文法理論はUGの措定を通してプラトン主義と部分的合流を果たした // [45:11] 現場の生成文法研究は大小様々なプラトンの問題の収集・整理から始まる(冒頭の質問への回答として、反面教師的一例として成田の卒論と修論の研究テーマとその選び方に関する反省を交えつつ) // (今回配信分のハンドアウトはこちら)

[3] 生成文法理論はヒト言語の無限性の学問である

[00:01:26] 言語の進化学会(EVOLANG9)に関する個人的感想 // [00:27:27] ヒト言語の無限性 ([00:35:31] 小鳥の歌の文法との比較など) // [00:45:24] 無限性に注目することの重要性 // [00:55:05] 「生成文法」(generative grammar)とは何か // [01:01:11] 言語記述・言語獲得・言語進化という三つ巴の研究課題

[2] 成田広樹・福井直樹. 2011「言語を巡る「何」と「なぜ」」音読

今回は私成田が福井直樹先生との共著で言語学の面白さを論じた解説文の音読をお届けしたいと思います。第3回の配信ではこの解説文の内容に基づいた議論もお送り出来ればと思っています。 成田広樹・福井直樹 (2011). 言語を巡る「何」と「なぜ」ー生成文法の視点からー. 『日本語学』30(13): 24-33. [01:49] §1 無限性にまつわるヒト言語の固有性 [08:52] §2 併合理論の射程 [16:48] §3 言語獲得の問題と普遍文法 [25:20] §4 普遍文法と言語進化の問題 [30:45] §5 おわりに

[1] はじめに

こんにちは。成田広樹です。この度新しいPodcast「naturally mind/brain」の配信を開始しますのでお知らせします。私成田が授業や講演の準備をしている時、または学会などに参加して発表をしたり他の研究者の方の講演を聞いたりした時に考えたことなど、言語研究、そしてそれを取り巻く心の科学、脳の科学にまつわるアイディアを皆様と共有する場にしていけたらなと思っています。今回はこのPodcastingの趣旨説明が主たる内容ですので、言語・心・脳の研究を巡る議論は次回以降に配信していきたいと思います。2012年度内は主にノーム・チョムスキー(著)、福井直樹(編訳)『言語基礎論集』(岩波書店、2012年)の講読に基づくお話をさせていただきたいと思っていますので、ご興味のある方はどうぞお気軽にこちらのPodcastを登録していただけたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

Papers

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04 5

forthcoming Narita, Hiroki (submitted). *{XP, YP}, the Independence of the LCA and Antisymmetry, and the LCA-free Phase-based Account of the CED Effect. Submitted to Proceedings of the Conference on Minimalist Approaches to Syntactic Locality.   2012 Narita, Hiroki (2012). Phase cycles in service of projection-free syntax. In Angel J. Gallego, ed., Phases: developing the framework, […]

黒田成幸、ゼータ関数、言語学と数学

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01 17

UCSD名誉教授でいらした故黒田成幸教授(2009年没。生成文法理論黎明期から日本語文法研究や形式言語理論研究において多大な功績を残した; http://ling.ucsd.edu/kuroda/obituary.html )は、彼の遺稿論文『数学と生成文法』(2009)において、文脈自由句構造言語と呼ばれる形式言語のある特定の部分言語を算術化し、その累和としてラマヌジャンのゼータ関数(ζ functions)を特徴づける、という一大構想をぶち上げています。少なくとも二次ゼータ関数までに関しては部分的な成功を収めたようです。数論や力学系の研究を始め数学や物理学の様々な分野で用いられているゼータ関数ですが、それがある抽象的なレベルで言語の形式構造にも関わりを持つことが示唆されているとしたらすごく面白いですよね。曰くこの研究の示唆するところは「ヒトの言語のありようも、数学的実在として、情報の構造とともに、奥深い数学的実在と本質的に全く無関係ではないかもしれない」ということだそうです。ヒト言語はヒトの生物学的所与であるという意味で文字通り自然物であるわけですが、その構造もやはり自然界の背後に抽象的に存在する数学的実在からの影響下にあるということが、とても奇妙な形で、そしてもしもその全貌が明らかにされたならば大変な知的好奇心を喚起するだろう形でさらなる証左を与えられていることになります。 僕は数学の知識が絶対的に不足しているため、目下この研究の意義を全く理解できておりません。言語学しかできない人間の限界をこうまざまざと見せつけられて悔しい限りなんですけど、でもいつかはしっかり黒田先生のお仕事を読み込めるようになりたいなあ。 ※参考文献:・黒田成幸(2009). “数学と生成文法—「説明的妥当性の彼方に」、そして言語の数学的実在論 福井直樹へ贈る一つのメルヘン.”  Sophia Linguistica 56:1-36.・Kuroda, S.-Y. (1976). A topological study of phrase-structure languages. Information and Control 30.4: 307-379.

成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売

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11 1

お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。 第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。 言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。 Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k よろしければ!

上野顕太郎『さよならもいわずに』を読んで

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04 7

以前凹レンズ 〜まとまりのない日記〜にて紹介されているのを読んでから気になっていたマンガ、上野顕太郎『さよならもいわずに』を帰国と同時に購入し、今日読了。 「マンガ表現の新しい可能性を見た」などと紹介されていただけあって確かにコマ割りの工夫や、リアリティと幻想と空白とランダムなインクの染みなどが一つのコマ内に同居するような描き方など独自の面白い手法がたくさんあった。上記ブログでも面白いレビューをされているので参考にしていただきたいですが、ともかく「これはマンガでしかできない」、というような工夫が随所に見られます。そしてそれらの工夫が愛する人を喪う一連の経験と連動して揺れ動く得も言われぬ心情をどこまでもリアルに表現するために機能している。 近年従来的なテレビ、ラジオ、映画、紙本の形態で読む雑誌、論文・論説・エッセイや小説、マンガなどの既存のメディアに加え、ホームページやYoutubeなどの動画投稿サイトのみならずブログ、SNS、Twitter、UStream、電子書籍…というふうにかつて無いスピードでメディアの形態が広がり、世界総表現者時代とでも呼ぶべき時期を我々は経験しています。そんな中僕は(そういう「ロングテール」に属する表現者の一人として)「どういう内容をどういうメディアに載せて発信するのがどういうメッセージを伝えるのに適しているのか」ということを考えるのが楽しいと思っているのですけど、このマンガはことマンガという視覚表現を考える上で参考になりました。 まあそういう「外枠・箱」への興味に比べ、「中身」への感心という意味では僕は個人的には誰にでもお薦めしたいという風には思いませんでしたが、ともあれ興味のある方はどうぞ。僕はやはりこういう近しい人の死にまつわる話をどうしても母を亡くした自分の経験に引き寄せて読んでしまいますんで、嗚咽しながら読んだ『ブラックジャックによろしく』のがん篇のどんぴしゃ感とかに比べたら…、というような、非常に個人的な経験に基づく相対的な評価です(僕の母は膵臓がんだったので黄疸が出て入院してやせ細っていって西洋医療に絶望して出口のないままもがきながら…ていう流れが『ブラよろ』(と訳すか?)のそれとまあ重なる重なる、という感じだったもので)。 でも、「そうそう」とか思う場面も少なからずあった。その中でも特筆すべきは以下のくだり。うつ病を患っている奥さん(キホさん)が心臓麻痺で死ぬ前日の描写、抗鬱剤の作用で集中力が持てず本などを読めないとこぼすキホさんが「ごめんね」と呟く。上野は「別に何も悪くないよ。薬が効くのが遅いのかもしれないね」と特段表情も変えずに言うのだが、心の声で彼はこう呟く: 私はいつもキホの病気を恐れていた  日常が崩れてしまうのを恐れていた  予定が狂ってしまうことを恐れていた  一番つらいのはキホ自身だというのに  この時私は思ってしまった… こまったな やっかいだな めんどうだな …………と  あやまるのは私のほうなんだ……… 上野顕太郎はキホさんを心臓麻痺という突然の出来事で亡くすのだが、それは僕の母ががんを宣告されてそうだと認識をしながら段々と死に近づいていく感覚とは異なる。が、それにつけてもこれはとてもリアル。がんが発覚し入院している母を日常的に見舞いに行く日々や、残り少ない時間を家で過ごしたいという母の希望のために料理を覚えたり通院のために車を出したりという日常でも、この言葉で語られるような背徳感を僕だって抱いていた。表現者としてのプライドがなせる業なのか、ないし「この出来事をマンガで表現するんだ」という使命感に支えられたものなのか、そんな得も言われぬ後ろめたさをこういうリアルな言葉でこういう形で想起し告白する上野の気持ちはいかばかりのものであろうか。 ところで、僕は上の言葉で表現されるような背徳感のようなものを自分も抱いたことがあることを認めるが、そういう後ろめたい感情だけで母との闘病生活の時期を過ごしていたなんてことは全くないし、何の恥ずかしげもなく自分で自分に肯定できる愛だの慈しみだの献身だのの感情だって持っていたことを僕は自分で知っているから、今更そのとき背徳感を持った事実に背徳感を持って落ち込むなんていう不毛なことを僕はしない。 そして思うに、上野がその時期を「あやまるのは私のほうなんだ」と後ろめたい気持ち「のみ」で過ごしていたということはあるまい。上のように呟く彼の中にも同時的に愛があり、慈しみがあり、献身があったはずです。 さて、ヒト言語というのは、少なくともそれが音声化されて心/脳の外に出てくる限りではその音声形式は単線的な構造を持っており(音声形式の背後にある句構造はもっと豊かな構造を持っていますが、それは別の話)、後ろめたさを告白する文と「同時に」他の内容を伝える文を出すことができません。「2文以上を同時に表現することができない」というヒト言語に関する経験則は僕は人の口蓋器官が形成しうる音声の単線的特徴によって規定されているものなのかと思ってましたが(十分に調音された音を2音以上同時に口で発することはできない)、友人にきいた限りはおそらく手話の方でも(2本の手や表情筋など表現に参画する器官が複数個並列的に存在しうるにも関わらず)この経験則は適用されるようなので、モダリティを超えでたなにかもっと深い原理がそこに関わっているのかもしれません。ヒトは考えるときはもっと色々なことを同時多発的に思っているんだろうという個人的直感があるんですが、なぜ言語を通すとこうも単線的な表現ないし知覚しかできないんだろう。不思議。 で、マンガというメディアもやはり部分的にヒト言語の表現形式に依存したメディアであると思いますが、上野が上記の後ろめたさを告白するという言語行為をする際、コマ全体も暗い色調、人の描写にもどよーんと陰がかかり…、というふうにページ全体が言語的にも視覚的にも「あやまるのは私のほうなんだ」的雰囲気に満ちています。『もっとキホが生きているうちにできることがあったんじゃないか』と悔いる日々を描くマンガのストーリー進行上この告白のインパクトというのはかなり重要なので、上野が表現者としてここで視覚情報全体で「どよーん」感を演出することを選んだということに僕は当然何の文句もないんだが、じゃあ上野のこの表現に限らず、「「ヒトが複数個の相反する感情を同時的に有機的に連続的に多発的に抱きうること」を何らかの形で率直に表象するような表現というものは可能なのか」、という問いを問うてみるのは面白い、と思った。 言語文で意味内容を表現することが(なぜか)「2文以上を同時に表現することができない」とするなら、そういう同時性の表現は言語のみの描写ではないのかもしれない。いや、あるいは言語での表現にあくまでこだわり、時系列的には一瞬の出来事であってもそこで起こった感情を数十ページにわたって詳細に述べ連ねるというのもひとつの手なのかもしれない。 しかし、何かを言語で語るということは他のすべてを言語で語らないこととイコールであると思われるので、難しい。 それでは言葉で何かを表現しつつも視覚や聴覚情報などでは別のことを表現しようとするという形態はどうか。ないし、あえて言語を全く離れてしまってはどうか。ピカソの絵などの絵画なんかがもしかしたらそういう方向性、言語というメディアの構造的制約を離れた表現の可能性を追求する一つの試みなのかもしれません。僕には絵画はよく分かりませんが。 人の心・感覚のリアリティをどこまでも追求することがあえてビジュアルや言語そのものの単純なreproductionを離れることをもその可能性の一つとして内包する、というのは面白いですね。 しかし人が人の感情を表現するときの言語の持ち味とというのはなかなか他の感覚情報に置き換えづらい何かを持っているというのも事実かと思う。そしてヒトもそれぞれきっと言語を使って自分の中の得も言われぬ感情を理解しようと努めているわけで、特定の形式制約を持ちつつもかなり効率的な情報整理の方式が「言語化」であるとしたら、我々のエピソード記憶の多くも多かれ少なかれ言語を介してこそ保持可能になっているのやも知れぬ。いやはやとても難しいですね。 ま、何の結論もないですが、そんなでした。

モデル理論的意味論を巡るTwitter談義記録(2011年1月9日〜10日)

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01 15

僕の「形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ」のその1、その2の執筆の間に起こったTwitter上での@wataruuくん、@tossijpさん、そして@yuizumiさんとの間に起こったモデル理論的意味論(model-theoretic semantics)に関する談義をこちらに参考までにアップしておきたいと思います。@yuizumiさんがご指摘されているとおり、言語学・言語哲学において今後意味の問題に関してどのようにとりくむべきかという問題に関して面白いトピックが色々と見え隠れしていると思います。僕自身も決してここで触れられた話題全てを消化できているわけではありません。今後もしっかり考えていきたいと思います。少しでもご参考になれば幸いです。 重ね重ね上のお三方、大変参考になる意見交換をさせていただきましてどうもありがとうございました。ところで記録のためコピペにこだわったのですがどうもBloggerの表示とあまり相性の良くない美しくない出力になってしまいました。Togetterの別個のエントリを用意しましたのでよろしければそちらでもご覧いただければと思います。 Togetter: 「形式意味論、internalism、統語論、ミニマリズム、モデル意味論」 http://togetter.com/li/92089

言語学と進化論:なぜ言語学者が最近進化の問題によく口を出すようになったのかについての私見

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01 14

前回のエントリーでもご出演いただいた生田敏一博士からの別の問い合わせがありました。 言語を記述する上で生物学的な人の進化を考慮しないといけない理由ってなんですか?まずは計測(=記述)するのが科学です。少なくとも生物学にお いては、進化の過程で起こり得るか起こり得ないかを考えた上で生命現象の記述(というよりかは計測)をすることは無いです。そもそも中枢神経の存 在なんて奇跡でしかないしなあ。脊椎動物の発生なんて事故だよ。(なんて生物学をやっていると、平気で口にしてしまいます。) それに対しての僕なりの回答が以下の通り。 考えなきゃいけないということはないでしょうね。おっしゃるとおり言語学の目標は結局のところ言語能力の記述なんであってそれ以上ではないですから。ただ、理論である以上できるだけシンプルに、そして願わくば深い説明的洞察を与える理論を目指すというのは当然で、それがminimalismですよね。で、minimalismを標榜するようになってからChomskyらがなぜこんなに言語の進化の問題に首をつっこむようになったのか、という疑問があるわけですが、僕の理解では「進化の問題を問うという態度」そのものがミニマリズムを追究するひとつの根拠を与えてくれるということがあるからだと理解しています。ことヒト言語の理論に関していうと(i)「ヒト言語が5万年か10万年かそこいらの、生物進化のスケールでいえば「瞬き」みたいな一瞬で出てきた(それゆえ自然選択やadaptationなどが強く働く時間は与えられていなかった)もんなはずなのに他の生物に類を見ないような能力でありうるのはなぜか」、と問い、(ii)それにたいして「いやいや一見複雑に見えるけどちゃんと注意深くその構成を吟味するとその実こんだけシンプルなメカなんですよ」という答えを予見すること、(iii)それでもって「100の独立のモジュールが犇めき合う器官より1こだの2こだののelementaryなメカをもつだけのシンプルな器官だということになればそれだけ「それがなぜ進化上出てこれたか」という問題に対してアプローチするのが容易くなる」という儲け話を期待する、という三つ巴のconsiderationsが絡まってのことなんだと僕は理解しています。つまり進化の問題というのは、シンプルな理論的記述を求めるという態度=minimalismを擁護するための一つのplausibility argumentであって、それは重要な問題意識だがminimalismの全てではないし、原理的にはそれと独立にminimalismをやってってもなんの問題もない、そういったものだと思います。  同じ質問をされたときに例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが、僕の進化論的議論に関する現行の態度はそのようなものです。 生田さんのそれに対するコメントは以下。 なるほどなあ。でも、別に上記の理由無くても科学だったらSimplestな記述をするわけだしね。つまりこれはGenerative Grammarのではなく、(GBの歴史の上に立つ)Minimalistの企てを行っていく上での話だな。ここまで壮大な哲学的論争を繰り広げなくては ならないというのはやはりGBからMinimalismっていうのは相当なパラダイムシフトだったってことだな。そもそも記述的な必要性があってシフトしたわけじゃないんだから(ってChomskyも書いてたし)、論争が起こるのは当然かもだけど、パラダイムシフトの時に哲学的論争が起こ るのは必死だね。アインシュタインVSボーア論争もしかり。  ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね。いや、もちろん、記述が完了し たらそれは進化の結果を記述したことになるのは間違いないし、よく考えてみると確かに言語学は(機能的な「退化」を含めた)進化を記述してるんだ しね。認知機能の記述でもあることを60年代からチョムスキーは主張してきたけど、その時も「言語学は認知そのものを記述しているのではないので 認知科学ではない」と一見筋の通ったデタラメが流行したらしいし。言語学の対象はStateだってちゃんと言ってたのにねえ。 ここで生田さんがおっしゃっている、「ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね」という意見に僕は個人的に賛成です。そして頻繁に一人歩きしているという現状認識も僕は共有しますね。うん十年前から言われていたとおり、言語進化の問題について我々が実際上経験的な仮説を述べる余地は元々ほとんどないわけで、いくら最近チョムスキーがそういう関連のことを語り始めたからと言って、流行りに乗っかってフォロワーの連中がspeculation(机上の空論)の応酬のようなことで言語学の文献を埋め尽くすような事にはなってほしくないと僕は個人的には思っています。 ところで、僕の回答部分で「例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが」という但し書きを付けましたが、きっと彼は僕みたいな進化論のほぼ素人がちゃちゃっと考えるよりもずっと長く言語学と進化論のかかわりのあり方について思いを巡らせてこられているわけで、だから例えば彼が”evolutionary adequacy”だの「ダーウィンの問題(Darwin’s problem)」などという用語を用いて言語進化の問題設定の重要性を言語学者に語っているのには彼なりの哲学が背後にあるからなんだと思います。実際藤田耕司先生とは去年一本共著論文を書かせていただく機会がありまして、その上で色々と個人的に意見交換させていただいたのですが、その時彼がe-mailで言っていたのは以下のとおり: 僕が進化、進化といってるのは、たとえば進化心理学や進化倫理学などが、単に心理学や倫理学の下位部門を意図しているのではなく、進化を統合のキーワードにして諸分野をまとめあげようとしているのと同じように、言語学についても進化言語学がそういう役割を果たすべきである、と思っているからなんだけど、ね。 僕は不勉強にして藤田先生のこの方法論的な、ないしヒューリスティック(heuristic)な目標設定について主体的にコメントできる知識はありません。しかしやはりこう言った問題設定の可能性も頭の片隅に置きつつ研究を続けていきたいと思っています。

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ:その2

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01 10

前回、前々回のエントリーに関して@wataruuくんからまた別のフォローアップの質問をTwitter上でもらいました。 成田さんはある種理論の”packaging”をしているように思われるのですが、internalistでありつつモデル論的意味論を採用することは可能ではないでしょうか。…(続く) あと、internalistになった途端に、意味論はsyntaxになる、というのがよく分からないのですが、教えていただけますか? 今回はこれに応えるエントリーを書きます。 まず、「形式意味論ってのは結局syntaxとして解釈されるべきもんですんで」っていうのはチョムスキーが最近いろんなところで口を酸っぱくして言ってることですんで、別に僕が最初に言い出したなんてことは全然ないですからね。その前提での僕なりの私見(つまりチョムスキーの意図とは違うかもしれない僕個人の意見)を以下に述べることにします。 「”packaging”してるだけじゃん?」と@wataruuくんが言う意図はわかるような気がして、つまり「なんでsyntax/統語論と別の理論であるべきsemantics/意味論をまで”packaging”してsyntaxとよばなきゃいけないんかい?」っていう質問なのでしょう。これはまあ基本的には用語の問題で、LSLT以来の術語を使って「The theory of linguistic/mental form and its formal manipulation (with no explicit reference to the way in which it is put to use)」としてsyntaxを定義するなら、現行のmodel-theoryの計算というのはその広い意味でのsyntaxと捉えるのが一番妥当だ、というのがまず基本的な点です。 さて、ここでまず有りうる反論1:「いやいやいや、「linguistic formがどう使用されるか」に関するある特定の形式的手続きによる記述がmodel-theoretic semanticsなんであって、そうであるならそれは上の()部分の条件を満たしていない以上syntaxではない」  ⇐この立場について最近のエントリで僕がいっているのは、そういう形式的意味記述が面白いデータを提供しているらしいってことについて僕は文句ないってことです。そういうデータに関してはやはり来るべき説明理論を求める、ということで、説明を目指すということはイコールsimplest possibleな理論を求めること、そして願わくば(おそらく自然法則が導きだしてくるところの)simplicityという概念そのものを説明項として利用する可能性を追究することで、まあそれはつまり意味の問題に関してもminimalist programで研究をすることでしょうね(Goodmanの路線:Goodmanのsimplicityの概念がChomskyによってどう言語理論に応用されてきたについての簡明なoverviewに関してはTomalin 2003, Linguaがとても詳しい)。そこでnarrow syntaxがどれだけ主要な役割をはたすことになるかは経験的な問題ですが、すでにLSLT, Syntactic Structuresで示されているようにnarrow syntaxの意味の問題に関する強い説明力は疑い得ないでしょうから、じゃあこのnarrow syntaxをどこまで強い説明項として利用できるかを問うというのは意義のあることでしょうな。それがChomsky-Hinzen-Uriagerekaの問いでしょう。 でま、この反論1によると意味論が記述しているのはlinguistic formでは「なく」「それの使用の仕方だ」ということになるんで、この方向で意味論の射程を解釈する限りにおいては@wataruuくんの「packagingしてるだけじゃん?」っていう批判はあたってるってことになるのかな。 しかしここで注意すべきは、この路線を求めるということは本来的に「言語の使用に関する理論は作りえない」という後期ウィトゲンシュタインの強い批判と対峙しなくてはならなくなるということなんです。言語使用というのは「暑いね」と言われたらそれが「クーラーつけて」とか「アイスクリーム頂戴」というリクエストの意味にも「お前の部屋換気もしてねーのかよくそったれが」という非難の意味にもとれたりとか、そういう徹頭徹尾形式的記述を拒む複雑な人間行動の全体を指すわけで、その全てをformal semanticsが記述しおおせる(ましてや説明しおおせる)可能性はないでしょう。デカルト以来”creative aspect of language use”というのが徹頭徹尾理論的説明を拒み続けていることを言語学者・言語哲学者は無視できません(Cartesian Linguistics (またその3rd editionのイントロby McGilvray)、New Horizons in […]

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ

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前回のブログで僕が現行の「formal semantics」と呼ばれているある種の統語論について持っている疑念を簡単に紹介しましたが、それに関して早速ICUの先輩である生田敏一博士(漢字が分かんなくて試しにぐぐってみたらWikipediaのICU人物一覧の言語学の欄に載ってた!)にフォローアップをいただきましたんで、ご参考までにそちらもご本人の許可を得てこちらにアップしておきます。 ブログで形式意味論に関して成田くんが議論したいのは、形式意味論そのものについてではなく、形式意味論者の態度とかあり方についてだよね? Strictな意味で、形式意味論は、「意味」(whatever it is)を形式的/数学的に「記述」するものであるのだとし たら、syntaxが意味あるかないかなんて、そもそも関係ないわけ。 これはまさに相対性理論で速度が質量と関係しないと同じくらい無関係だな。 だから、形式意味論その物に対する問題提起ではなく、形式意味論絶対主義に対する問題提起だよね。 それには大賛成だな。 ってか、「意味」では解決できないSyntaxの必要性なんて、Syntactic StructuresのChapter2を読めば小学生でも分かるような問題だよね。 こちらで生田さんにご指摘いただいているとおり、形式意味論と呼ばれる枠組みで行われている言語の意味の形式的記述に関して僕は何の文句もありません。downward/upward entailing environmentsだのquantifierだのfocusだのの振る舞いなど色々と面白いデータが記述されてますし、僕自身興味深いと思うこともしばしばです。 こちらのメールへの僕の返信を以下に一部抜粋して掲載します。基本的には生田さんにご指摘いただいた通りである旨を確認した上で、僕なりの「形式意味論者の態度とかあり方について」の問題提起を具体的に列挙しています(僕の方でのあきらかな文法ミスやタイポなどは気づいた範囲で直してあります)。 そうです、形式意味論者のよくある態度のあり方についての僕なりの問題提起をしているつもりです。 その問題の態度の在り方については大まかに三種類あって、まずひとつはformal semanticsが仮定しているようなFunction ApplicationだのPredicate Abstractionだののメカが真理条件なりなんなりの「denotation」とやらを計算して出してくるっていうあのメカは、結局のところsyntaxであるということを認識していないこと。もう少し正確に言うなら、formal semanticsとは、LFという表示をinputとしてとり、(narrow syntaxと全く違う手順でもってinclusivenessを破りまくって)”D(enotation)-marker”なるものをoutputとして出すというsyntaxの別個のcomponentを仮定しその理論を作るという試みというふうにしか捉えざるを得ない(それを単なる言語行動の記述ではなく心/脳の実在として主張する限り)。それなのに例えばnarrow syntaxの研究に関してまるで傍観者の立場から「ミニマリズムとかなんとか言って結局いくらでもstipulationを加えて記述用にメカを複雑にしてるだけじゃん」とか言ってきたりするんですが、同様の批判はそっくりそのままD-markerの計算機構にも当てはまるということを認識していないことが往々にしてあるんです。 この問題を複雑にしているのが、Chomskyがミニマリズムの目標を定式化するときによく使う「syntaxはCI(“thought system”)の要請に対してoptimalに応えるefficientな計算機構だ」みたいな言説なんですが、これを上に述べたような誤解をしているsemanticistsが曲解すると「じゃー俺の意味の理論はこれとこれとこれっていうinterpretive rulesを仮定しておくから、syntaxの方はそれに見合うようなphrase-markersを単に出してきてくれればいいんじゃね?」っていう謎の想定につながるんですわ。この路線ですとsyntaxとはformal semanticistsが勝手にnarrow syntaxの外にstipulateしたものどもにへへえと迎合してそいつらのために妙ちくりんな表示をかえすっていう奴隷のようなメカのように捉えられることになりますが、これは僕はやはり不当な仮説だと思います。この類のextra-syntacticなstipulationsというのは二重にたちが悪くて、まずこんなものがヒトの進化(ないし初期の言語獲得)でどうやって出くんだっていう出自の問題をまったく未解決のままに放っておくしかないということ。それにくわえて、結局「thought system」というのは言語=syntaxを使ったときの表れを通してしか研究できないですから、それをもとにして意味の問題を研究するべきsyntaxをstipulationによってsemanticsにsubserveするものと見ようというのはなんとも滑稽なものなんです。 その上さらにsemanticistsの態度として問題なのが、これが3つ目ですが、「externalismは言語のような認知機構の研究においては徹頭徹尾排除されるべきだ」というChomskyの大元の批判にはさも同意するような顔をしておきながら、その実D-markerという概念を全くexternalismのdenotationという概念と同等の価値を無反省に付与したままふんぞり返っているということに気づいていない、という点。これも自分たちがやっているのがその実syntaxの研究だっていうことを認識出来ていないところから起因することなんでしょうね。「What is denotation?」という問題設定をしているsemanticistsの少なさったらホントに異常ですよ。この点Uriagerekaの以下のコメントが非常にto the pointだと思います。 “[W]hen it comes to … `reference’-bearing elements, or more generally elements with a denotation (John, book, sing, and the like) not a single theory exists that clarifies what sort of relation takes place between […]

Cartographyとか形式意味論とかが流行ってる言語学の現状についての僕の私見

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言語学の先輩に質問というか問題提起のメールを受けて、ちょっと考えて返信したので一応こちらに返信した内容の抜粋をアップしておきます。 まず一点目:Cartographyのようなものが日本も含めてやたら取り沙汰される言語学の現状をどう思うか、ということをご質問いただきまして、それに対する僕の簡単な回答が以下: さてさて、おっしゃるとおりで、なんであんなにCartographyみたいなのに惹かれてしまう連中がいるのかというのが全く分からないです。まあしかし、福井先生がおっしゃるとおりで、いわゆる機能範疇だったり素性だったりの道具立てが多ければ多いほど記述が楽になるっていうところに甘んじてああいうのを利用して論文書いちゃう無責任者共が後を絶たないからって居う部分が大きいんじゃないですかね。僕は全く評価できませんが、しかし傾向としてこういう流れがあるとしたら残念ですよね。 この辺のことについての僕の自分の意見についてはNarita(2010) “The tension between explanatory and biological adequacy”(Review of Fukui (2006))の方で提示しましたので、興味のある方はそちらもご参照ください。結局のところ、生成文法理論の勃興当初から常にシンプルな説明を追究する方向と目に見えるデータを記述したいというdescriptive pressureがせめぎ合ってきていたわけで、Cartographyなんかに逃げてノリでイタリア語のleft peripheryだったり日本語の文末助詞だったりを記述してふんぞり返っているだけでは、結局のところ説明的妥当性(explanatory adequacy)の問題も生物的妥当性(biological adequacy; ないしbeyond explanatory adequacy)の問題も全く解決できない、というかむしろそれらのより重要な問題を看過しがたい形で複雑化するだけのことです。 まあそういう当たり前のことに気づいてる人達も実は多いと思うんですけど、しかし時間の制約の中で論文を量産しなきゃいけないプレッシャーに常に追われている言語学者の皆々様方はこういう「使いやすい」「便利な」道具があるとついつい使ってしまうのが人情ですよね。壁にあいてしまった穴を埋めなければならないというとき、板から漆喰から何から買い揃えて抜本的なケアを時間と手間をかけてやるという辛抱強さが必要なところを、手元にたまたまあったペンキでとりあえずはその穴の部分を塗って隠しただけでめんどくさい仕事に取り組むのを怠る、そういう感じ。やめましょう。難しいことですが、ヒト言語の形式・出自に関する真の説明を求める態度を失ったら言語学は廃業ですよ(ま、真の説明を求めるための一番効果的なアプローチがCartographyだとホントの本気で信じこんでしまっている人がいるのかどうかは僕は不勉強にして知りませんが、どうなんでしょうね)。 この「目先の使いやすい(しかし説明力の薄い)小手先術」をつかうという態度についてなんですが、これはCartographyにかぎらずかなり言語学全般を通して陥りやすい罠で、例えばuninterpretable featuresをだらだらstipulateしまくってふんぞり返ってるタイプの仕事も同じようなことがいえます。それから以下に述べる形式意味論もおんなじ問題を抱えています。 というわけでその先輩からの第二の質問:(成田くんはあまりsemanticsを信用していなかったはずだけど)、意味論上の問題にミニマリズムと同じ種類の疑問をぶつけること(具体的には獲得の問題を考えることとか、意味計算がどれだけ他の物理法則や生物法則に従っていて,より一般性の高い原理から導かれるのかということを問う試み)をどう思うか、という問題提起を頂きました。それに対する僕の回答: 僕は当然そういう疑問があるべきで、その疑問をしっかり持って取り組もうとする以上は絶対にやすやすとはやりのtruth-conditional denotational (externalistic) type-theoretic Fregean semanticsだのなんだのに与するわけにはいかないと(あくまで僕個人は)思ってます。ChomskyがGenerative Enterprise Revisitedのインタビューなんかでも指摘していますが、記述意味論の現状はまるで音韻論のようで、考えうるありとあらゆる計算制約を破っています(inclusiveness, minimality, non-tampering, etc.)。一方で形式意味論で仮定されているモジュールというのは結局のところsymbol-manipulationのシステムであり、故に広い意味でのsyntaxですから(McGilvray 1998の用語を使うなら”broad syntax”)、もし仮にあれをFLの内容として仮定し、つまりpost-LF syntaxとして定式化するとしたら(そうしなきゃいけないという強い根拠は示されていない;(formally approachable) semanticsと(unexplainable) pragmaticsの区別というのはアプリオリな仮定として慣習として持ち込まれているだけでその区別を経験的に正当化するデータは上がっていない)、なぜ「そのsyntax」がnarrow syntaxとかくも異なるimperfectionを示さなきゃいけないのかというのが経験的な問題になります。そこ Minimalismと同様の疑問をぶつけるなら、まずは絶対に疑い得ないもの(“virtual conceptual necessity”)から話を始めてみたり、ないし計算効率原理などのthird factorの効果を探すところから始めたりという取り組むべき課題が自ずと見えてきますし、それゆえにこそFregean semanticsとuse-theoretic pragmaticsの区別をstipulateするところから始めたりexternalistの概念である真理条件なんかを意味の議論に持ち込むところから始めたりというステップは取るべきでないと(個人的には)思いますね。 ま、もちろん意味論をやる上でminimalist programに従った研究方策のみが正当だ、なんていうような乱暴な議論はできませんし、もし記述意味論が記述の部分でなんかの成果をあげるっていうのであればそれはデータとして意味のあることとは思います。それはGBのころにECPとかgovernmentだとかの「古い概念」でもって記述されたデータがデータとして未だ興味深いのと同じで、いずれ同じようにtruth-conditionだのFregean senseだのtype-theoryだのFunction-applicationだのの「古い概念」が乗り越えられるべきなんだろうと僕は思っています。Cartographyとも同様ですね。 そしてそんな現状で意味の問題にどう取り組むべきかということを考えた場合には、僕としては(discrete infinityなどの基本的な事実から存在が確実な)narrow syntaxの方をむしろ第一義の説明項として意味の問題に取り組もうというUriagereka-Hinzenの研究プログラムに共感するところが大きいですね。ま、これはあくまで僕の決断なので、他の人がそうしなきゃいけないとは言わないですが。 ま、形式意味論に取り組む方々が往々にしてsyntaxの説明力を疑問視するということが続いていて久しいですが、おそらくその手の反感はcartographyとかuninterpretable featuresをふりつづけるとかそういう無責任な仕事をする連中の仕事を「つまらない」「説明的でない」と思うという至極当然の認識からきているというパターンが多い。それらの仕事に対して正しく低評価をできる人達にむしろ僕は強い共感を覚えますが、しかしそういう仕事をまるでsyntaxの代表のように取ってしまい、その上で「syntaxなんて結局古く説明力のない分野に成り下がった」という結論へジャンプする人たちがいたらそれは大間違いだと思いますね。 ChomskyがLSLTをもって生成文法理論を立ち上げた当初から、syntaxというのは言語学の中心的な分野で在り続けてきましたし、そしてその当初から「いかに言語学は「意味」(=自由意志による言語使用)なんて掴みどころのない物に言及しない形で文法理論を作ることができるか」という問題設定のもとにsyntaxの研究が進んできました。そして言語学の主要なachievementsはその多くがsyntaxに関するものです。それはある意味で当然のことで、他のヒト以外の生物のコミュニケーションシステムとヒト言語を区別する最も根本的な特徴はその生成力の離散無限性(discrete infinity)にありますが、それをとらえようとする限りにおいてヒトの認知能力に特有の生得的でかつ回帰的な(recursiveな)計算システムを仮定せざるを得ず、それがつまりsyntaxです。(そこで起こる計算手順のおそらく最もシンプルな定式化は併合(Merge)という操作によって与えられるものと思われ、それゆえ我々はbare phrase structureを追究するのですが、まあその辺は今回は置いておいて。)言語学をbiologyとして捉え、それに取り組もうとする限り、その研究の主対象はこのヒトに生得的な計算能力の研究となるでしょう。それは徹頭徹尾syntaxです。 上のメールの返信部分にも書きましたが、現行の”formal semantics”と呼ばれる分野は結局のところそれはsyntaxの一分野にしか過ぎないわけです。その上で疑問をもつべくは、どうしてこの部分のsyntaxがいわゆるnarrow syntaxと比べてかくも異なる様相のあり方を呈しなければならないのかという問題です。この問題に取り組む限りは、願わくばnarrow syntaxの研究が進んだやり方と同じようにこのbroad syntaxの研究も真の説明を求めていくべきであり、その上ではやはりminimalismのような研究方策をとることが一番正当だと思うんですよね。そしてその場合stipulationsから研究を始めるという形式意味論の文献内でintensifyされてしまった態度に関しては徹底的な反省の余地があると思います。真の説明を求めてnarrow syntaxの研究がGB理論の不備を徹底的に反省していき、結果としてGB理論を解体していったのと同様に、我々はいずれ現行の形式意味論の文献に散在するあらゆる無反省なstipulationsの数々を徹底的に吟味するという作業が必要です。 ところで上のメール部分でHinzen-Uriagerekaの路線に言及したのですが、こういう時に不便なのが、HinzenやUriagereka自身がnarrow syntaxに持っている考え方自体がかなりかたよっている(し多くの部分で間違っていると僕は思う)ということでして、彼らの打ち出している研究方策には非常に共感すれど彼らが出しているnarrow syntaxの理論には決して魅力を感じないというか、そういうところが難しいんですよね。僕は一時期はかなりPaul Pietroskiの仕事の方にむしろHinzen-Uriagerekaプログラムを進める上での魅力を感じていたのですが、まあPaulはPaulでね(笑)。ま、この研究方策について簡単に知りたい人は僕のUriagereka(2008)のReviewか”The naturalist […]

徒然なるままにツイッター

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今日のツイッターの書き込みはまあ保存しておいてもいいかと思ったので別途ブログに書き残しておく。雑文もいいとこだが、まあこういうあっちこっちに思考が飛ぶのを自由に許すのもツイッターのいいところだということでご了承。 Wikileaksは「「組織が金をかけてまで情報を隠そうとしているというのは、その情報を世に出せば社会的利益がある」という信念に基づいている」/「無関心との戦い」/日本への飛び火もそろそろか、などなど。いい記事です: http://ow.ly/3o17W チョムスキー「アメリカ合衆国は宇宙の軍事基地化を計画していて、それは極めて危険なことです」。宇宙開発のアメリカ独占の裏に潜む危険についての彼の率直な意見。なるほど…。 雑木帖「ノーム・チョムスキー」: http://ow.ly/3o1uM MITの友達の何人かは本気でNASAで働きたいという夢に向かって全力疾走していて、僕はいち友人として素朴に彼らを尊敬し応援するのですが、彼らの宇宙へのロマンなども軍事目的や経済利益で国家に利用される恐れと常に背中合わせなんだな、ということに凹んだ。みんな知ってることなのかねえ。 チョムスキーのアナーキズムは国家の暴力性と不正に関する彼の根気強い警鐘に裏打ちされていると言えるだろうが、ウィキリークスによる一連の暴露を目の当たりにするにつけ、いよいよ彼の勇気ある活動の意義が明らかになってきたのではないだろうか、と思っている。 これもその関連でそう思うし。RT @kenichiromogi: 今年の最重要ニュースは、間違いなくウィキリークスだと思う。国家とは何か、情報とは何か、報道とは何か、根源的な問いかけをする画期的な出来事。そして、変化はもう逆戻りできない。 日本はそれほど豊かでも安全でもない社会に移行しつつある…「[そんな社会]でも生き延びられるように自分なりの備えをしておく方が合理的だろう…私自身はそのための「備え」をだいぶ前から始めている。血縁地縁ベースの相互扶助共同体の構築である」内田樹 http://ow.ly/3o2og 「国」ってなんでしょね。 茂木健一郎がちょっと前のブログで「一人ひとりの人間は、弱々しく、欠点だらけで、だからこそ愛すべき存在なのに、なぜ「国」になったとたんにモンスターになるのか」と問うていたのが目についたが、実際実に正しい問いだと思う。 うーむ、孤独。寂しい。と、思う。 ところで爆笑問題のカーボーイで「太田はこれを読んだ」というPodcastが流れた時があったが、そこで宮沢賢治の銀河鉄道の夜を太田が紹介していて、誰かが主人公にこういうシーンがあるのですって。「別の神様を信じている人をだって愛せるだろ。その人がいうことにも感動できるだろお前」と。 僕はあまり小説を読まないので知りませんでしたが、いやあ本当にいいセリフ。海外で生活して人種や宗教や価値観の違う人たちと話す日常を過ごす上でかなり励みになったし、というかついつい勝手に「同族意識」のフィルターを通して見がちな日本人への接し方だってだいぶ考えなおさせられた。 どこの国の人だとか、どの政党、宗教や学説にコミットしてるかとか、どういう連中と利害関係を持ってるかとか、そういうことは常に気になっちゃうけど、ある程度そういう事とは別のこととして、単純に自分の前で人が笑ったり楽しく喋ったりしているっていうローカルなことを大切にしたいよね。 という、徒然なるままのツイート。いやーTwitterってこういう書き物の敷居が低くて助かる。