"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

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質問されるのは楽しい(こともある)けど、質問の笠を着て自己アピールされるのはあまり好きではない、という話

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(学生さんにお話した話を一般化して覚書として書きます。僕がそういう注意をしたその学生さん本人がこのブログ見たら気分を悪くするだろうけど、たぶんあなただけのことではなく世に敷衍する問題だと思うから書くので許してね。個人は特定できないようにもちろん書くので。) 言語には疑問文を作る機能があり、それを用いて人は人に話しかけ、相手からのリアクションを促すことができる。現代はメールなどのツールで直接顔と顔を合わせなくても文字だけで他人にリーチできる環境もあり、疑問文を用いたコミュニケーションはいっぱい増えているだろうことと思います。が、タイトルにも書いたことなのですが、疑問文は純粋に情報や相手の意図理解等を問う「質問」に使える一方、実際は質問の笠を着た単なる「私をみて!」アピールというのが存在する。 チョムスキーは日々世界中から「私は言語についてX,Y,Z,…と思うがあなたはA,B,C,…についてどう思うか。意見を聞かせてください」系のメールを受けて困ってるってどっかのインタビューで言っていたと思うが、たぶんそこで起こっていることの中には上に書いたような質問の笠を着た自己アピールの疑問文も投げかけられていたに違いない。また、チョムスキーの何億倍も無名な僕ですら最近時々その種のメールを受け取るのだが、ときどき「質問」の意図がわからず答えあぐねているとき、上に書いたような「邪推」をしてしまうこともあります。 思い起こせば、僕が過去学生時に例えば福井直樹先生とかCedric BoeckxとかChomskyとかに対して同じようなことをしちゃったなー、あのときは迷惑だっただろうなー、と思う。 ただ、それでもああいう懐の大きい人達は、そういう背後の意図とかも全て見透かした上で、気前よくしっかり応じてくれたりする。偉大な人たちだなと思う。 過去の僕と同じ過ちを犯そうとしている諸君に言っておくと、おそらく彼らは、たとえば僕程度がぱっと思いつく上に書いたような「邪推」は、全て織り込み済みで行動されているものと思います。自己アピールはよっぽどまともな「質問」にまぶして上手に隠さない限りは簡単に見透かされますよ。注意してくださいね。 ところで、学生が自分の側に確たるachievementがなくても頑張って人に話しかける、ということ自体はとてもいいことだと思います。そうしなきゃいけないことだとも思う。どんどんやるべきです。質問があれば質問をすればいい。 ただし誠実に。自己アピール本位の疑似質問にありがちな、「何を答えればいいのか本当のところがわからない修辞疑問文」的なものは、それに応じるために何をすれば適切なのかを考えるコストが相手にかかる。「この人は何を訊きたいんだろう?」とか、「どういう答えが期待されてるんだろう?」とか考えるのは、基本的に非生産的(字義通り)だし面倒くさい。 なので、ごく単純な話ですが、他人に質問を投げかける場合、よかったら相手が簡潔に答えやすいように疑問文の方を調整してあげてください。その方がお互いにとって情報のやりとりの意味でもコミュニケーションのスムーズさにおいても有用だと思います。 一つの指針として、ちゃんとした質問はたぶんシンプルなもので、だから大抵は短く簡潔に書けるはずだと思われます。背景説明が必要な質問というのは存在するが、ただ、その質問を投げかける価値のある専門の人に書いてるんだから、前提の多くは共有されているはずで、その意味で背景説明も短くできるはず。一方、「私ってこんなすごいこと・深いこと考えてます、すごいでしょ」っていう自己アピール成分が増えれば増えるほど、疑問文まわりの余分な文量が増えていくんだと思う。ということで、短く書けない質問メールは、もしかするとちょっと立ち止まって考えてみてもいいかもしれません。 良い質問はシンプルでand/or考える価値がある問題なので、それについても質問を受けた人も自然と考えたくなるものだったりします。短い質問で何行にも渡る多大な答えを受け取れたらそれはしめたもの。「答えの文量」/「質問の文量」の値が大きいほど良い質問、なんていうざっくりした指針もある程度有効かもしれません。 いつもそうですけど、これら全て自戒の意味を込めて書いてます。明日僕から長文メールを受ける方々、僕の言語能力の低さでご迷惑をおかけしてすみません。

言語学の「新しい仕事」(覚書)

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言語学における価値ある新しい仕事というのは (1) これまで十分に手を付けられていなかったissueがあることを示す (2) (1)に対する具体的な解決を証拠付けて論理的に説得力のある形で示す (3) (2)によって得られる、既存の枠組みの中で期待される効果(つまり(1)の解決)をしっかり果たせる、かつ既存の枠組みの別の場所に悪影響が出ないことを示す (4) (2)でもってこれまで期待されていた(1)/(3)以上の追加のbenefitがあることを示す という4つを満たす作業である。ここで、純粋にプレゼンテーションの問題として、(1)にはごく少数の(理想的には1つの)誰にでも通じる問題を設定するのが良い。 従来的な記述的な仕事はこの点(1)は誤らないから、その後でlabelingがどうのfeatureがどうのphaseがどうのcartographyがどうのと(2)以降にしょうもない提案が出てきてもまだ聞いていられる。一方、割と若い学生さんにありがちな、(1)にAもBもCも問題だ、とするのは得策ではない。できるだけ(1)の数を厳選して絞り、かつ広く問題の意義を理解してもらえるものにしたほうがいい。 また、「ミニマリズムをやりたい」という学生さん(にかぎらず先生方)にはさらに別のありがちな問題があって、(1)におよそ狭いChomskyan集団の外には通じるべくもないtheory-internalな問題を据えてしまうことがある。 (i) labeling理論下でCEDを出すにはどうすればいいか? (ii) Mergeの枠組みではなくMERGEの枠組みでhead-adjunctionに準ずる操作を捉えるにはどうすればいいか? (iii) MERGEの枠組みにおけるWorkspaceに語彙項目を足す操作は何か? (iv) Left peripheryの中でなぜTOP*だけが複数レイヤーを構成できるのか? (v) multiple spec constructionをlabeling failureから救う道具立て なんていうのを色々聞いてきました。これらはまあ、ミニマリズムやMERGEや、テーマを限定したワークショップの中での発表の一つとしてはまあまだ機能するのかもしれないですが、こういうのは、Chomskyの最新の論文とかに親しんでいる”hard core minimalists”にはある程度は通じる問題設定であるとはいえ、一度そういう狭いminimalist campの外に持ってくと、そもそも「は?何が問題なの?theory-internalなnon-issueでしょそんなの」と問題設定の意義自体が通じないと思われます。(1)にこういうトピックを選んで発表している人(学生さんに限らずもちろん大御所の先生さんもいます)は、(1)の話を始めた時点で例えば日本の標準的な言語学関係イベントの聴衆の9割の関心を失うことになる。こういうのは避けたほうがいいと思うので、やはり(1)には広く誰にでも通じる問題設定をおく、あるいは理論内的問題設定であっても少なくともそれの意義を十分に自分のいる枠組み外の人にも通じる言い方で表現する努力が必要と思われます。 さらに別の問題として、こういうやり方は、これから言語学やりたいけど生成文法/ミニマリズムっての面白そうだな、ちょっと興味あるタイトルだから見てみよかな、くらいの気持ちで参加してくれる若い人たちの気心をいたずらにくじくことにもなりかねないと思う。本来大変魅力的かつ挑戦的な企てである生成文法/ミニマリズムを推していく上で、これは実にもったいないし、ただでさえこのままでは尻すぼみになっていってしまう予感バリバリなミニマリズムの将来を明るくすることでもない。だからやはりせめて(1)には気をつけましょう。 もちろん、(4)を意図して書いたであろう論文やプレゼンでも、(2)すら満足にやれてないのは問題外である上、(3)で実は甚大な問題をはらんでいるケースも多々見受けられます。当然気をつけましょう。 諸々全てこれは自戒の意味を込めての覚書です。本年もどうぞよろしくお願いします。

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統辞論)に関してのフォローアップ:その3

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5,6年前にブログをやめ、つい6月とかにちょっとの気の迷いで一瞬ブログを復活させた後、やっぱり気が変わってこのホームページからリンクをといてほっといたんですが、先日友人に「hiroki narita blogで検索すると全然出ますよ! http://hirokinarita.org/tag/blog 」と言われてぎょっとした。タグ検索までやってたら普通に検索できるようになってしまっていたらしい。それで、細かい経緯はともかく、そのグループの別の友人が「モデル理論的意味論を巡るTwitter談義記録」を読んでくれて、ずいぶん好意的にコメントを下さった。8年前の記事にコメントもらえるというのもありがたい話ですが、ということで、一応そのときに彼に返信した内容を一部編集してここに再掲しておきます。 上記Twitter談義記録にたいするフォローアップポストは他にすでに2件(8年前に…笑)書いてるので今回は3。ちなみに1がこちら,2がこちら。 じゃ、以下メール再掲です。文中ではその相手の方をAさんとしておきます。 ====== 僕が8〜9年前とかに書いた無責任なノートにコメントくださってありがとうございます(苦笑)。いや、今更当初の思いのすべてを再構築はできないですけど、例えばAさんが書いていらっしゃるふうに読んでいただいてもいいと思います。文章は世に出した瞬間著者を離れた客体になりますので、僕がどう思ってたかとかは関係なしに考える種になれたなら幸いです。 で、その上で、当初僕が考えていたことの一部は、まあpsychological reality(心理実在性)と言ってもいいですけど、というかもっと一般的にscientific realism(科学的実在性)の問題だったように思います(後者のうち一部のみにpsychologicalとラベル付けをしてもしなくてもあまり問題は変わらない)。科学が仮説モデルを立て、それが現象をシンプルかつ網羅的に説明できる程度に応じて、その説明仮説モデルの実在性(reality、あるいは信ぴょう性)は高まるのだと思うのですが、ということは、説明仮説モデルの実在性を少しでも高めようという営為そのものは、これはもう誰がなんと言おうとミニマリズムです。Chomskyを好きでも嫌いでも知らなくても、理論家でも実験屋でもエンジニアでも、科学的実在論の立場を取り(とらなくてもいい;その場合科学は現象記述のゲームということになる)、自分の提示する仮説モデルが現実のよい表示と考え、そしてそれをより良くしていこうとしている人(引退してない科学者)は、もうこれはみんなミニマリストです。最小限のシンプルな仮説で最大限の現象説明を得ようとする。 言語理論はヒトのfaculty of language (FL)のそうした科学モデルでしょうが、最大にシンプルな方が良ければ、もちろん何かどうしても外せないもの(Xとする)以外を全部一旦疑ってみて、どうしても外せないものXの使い方でむしろそれらの仮説体の効果を得ようとすることになる。Chomskyはここで言語の離散無限性や移動現象の偏在や刺激の貧困等々の議論をもとに、「Mergeのみがprespecifyされた計算機構(syntax/UG)」をXに仮定し、他をどうこのモデルで扱うかを考えてみましょうと世に問うた。 リアクション1:syntaxはもう「なんでもあり」(unconstrained Merge)のビーストみたいなもんになってるようだけど、いいよそれで。そいつの外にいる俺たちのメカ(formal semantics?、Y)がきちんと出てくるものを正しく選別してfilter outしてあげるから。こっち側がきちっとしておくんで、てかsyntaxの中身とかもう別にどっちでもいいよ。S→NP VPでもX-barでも、要は最低限の組み合わせさえだしてくれりゃいいんで(ハーバード留学当時僕がformal semanticistsのおおいばりに感じていた雰囲気)。 ⇒(僕の感想1)いや、Yってなんだよ。それ科学ならシンプルさを求めるべきでないの? type e,tとか合成typeとかfunction applicationとかdenotationとかtruth-conditionとかset of possible worldsとかcontext variablesとかtype shiftingとか、なんかなんでもござれやってますけど、それらの「どうしても外せない根拠」って何? そんなのなさそうだし、僕はとりあえずはXにたてられてる根拠(言語の離散無限性や移動現象の偏在や刺激の貧困等々の議論)の方を当面は信じておくかなあ。 ⇒(僕の感想2)てか、「もやもやで科学が太刀打ちできないpragmatics」から「かっちりはっきりわかるformal semantics」を切り出して研究できるっていう、semantics/pragmaticsの区別の根拠ってのも本当のところ何? なければやっぱりとりあえず「人間の言語使用・意図は(ウィトゲンシュタインだなんだが示したように)科学が太刀打ちできない領域なんだからとりあえずわかる領域(文法)から研究始めといたほうが安全」ていうチョムスキーに賛成だなあ。 ⇒(僕の感想3)逆に、もし仮に「「かっちりはっきりわかるinternalなformal semantics」を切り出して言語計算モデルの一部として捉える方向性が妥当だ(記述的・説明的なachievementがそれによって確かにある)」ということになったなら、その場合その説明力の程度に応じてその理論価値、科学実在性が高まるでしょうが、それはもう「FL内の計算機構」という意味で広義のsyntaxでしょう。ということは、成功を収めるformal semanticsはsyntaxなんで、結局syntaxの本分(X)をバカにするとか意味不明。Xからは逃れられないし、てかXが基本だし、Xとがっつり性質が異なる別口のsyntaxを仮定する根拠も強い議論が必要。 リアクション2:Merge最高。ミニマリストモデル最高。詳細な言語事実はそれだけ詳細な語彙項目とか素性とかを立てておけばAgreeしてSpec移動してHead-movementしてちゃちゃっと揃えちゃえばいいわけで、うっしゃ、うちのモデルでマジなんでも記述できるぞ。言語学的に面白い問題は全部素性と移動で解決しちゃるけんね (cartographyに代表されるミニマリスト標榜者のよくある態度) ⇒(僕の感想4)理論全体をシンプルにしたいと思ってねーやつがミニマリズム語ってんじゃねーぞ。XにこだわるあまりにUGにその他百万を足すのを嬉々として受け入れようっていう気がしれん。Xの薄弱さ(ミニマリズムの難しさや時期尚早さ)がかえって浮き彫りになるだけじゃん。お願いだからシンタクスが面白くない分野だと若い人たちに思わせるネガティブキャンペーンやめてくれ。 リアクション3:GBの頃ってgovernmentだのCase filterだのbindingだのECPだのD-structureとS-structureだの、いろいろなとっかかりがあっていろいろな記述が自由に洞察を羽ばたかせて記述できてていい時代だったよね。minimalismは言語学をつまらなくした。新しい記述的発見も出てこないし、結局minimalismは研究プログラムとしてはmassive failureなんだよ(syntaxやろうとするけどなかなか成果を出せない若手がふとつぶやく言葉) ⇒(僕の感想5)…。確かにminimalism下で「理論のいじり方」がものすごく限定されているがゆえに良い成果を出すのが本当に難しくなったと思う。でも、だって、「本当に重要な研究目標」(ミニマリズム)が見つかって、それがそういう守ることが厳しい処方を俺らに課すんだったら、それはそれでしょうがないじゃないか。福井先生は修論を指導してくださってたとき「ミニマリズムは難しいから、おいそれとミニマリズムの最新のモデルを仮定しようと躍起になろうとするのではなく、GBのある程度理論全体の整合性が見通せたモデルを仮定して記述的課題をしっかり描き出すほうが大抵はfruitfulだよ」とおっしゃってたけど、僕はそんなに「記述ではとりあえずこっち、でも長期的に考えとくほうはあっち」みたいな器用な頭の使い方はできない…。 ということで、当時は僕はあっちをみてもこっちをみても僕は不満で、Chomskyや福井先生やほかごく小数名しか本気で話を聞きたい人いなかったんですよね。syntaxは本当は本当に重要で刺激的な分野であるはずなのに…。そういう不満がああいう文章を書かせた、それが8年とか なわけです(苦笑)。 で、僕はその後ブログを閉じたりとかしてこういう話をしないでおくようになったわけですけど、ここに書いた根本的な不満は基本変わってません。ただ、「じゃあ結局何が一番シンプルな路線か?」という問題は結局の所科学を志す者たちそれぞれの主観的判断であって、絶対的なものではない。とすれば、僕の内なる直観がいかにFormal semanticsもCartographyも「Chomskyの最新理論」のblind followersも「なにかおかしい」と感じていたとしても、僕の直観が間違ってるかもしれないのだから、独断的断定的物言いは無責任だな、結局、と思い直した。そういう次第です。 長々と失礼しましたー。 ============ 上のメール再掲の最後の部分にも書いたんですが、僕の科学者としての直観がいかにformal semanticsとかcartographyとかが間違ってると感じていたとしても、僕の直観が間違ってるかもしれない可能性は否めないので、だったら「責任ある大人」は口をつぐむべきかなあと思ってブログも閉じた、みたいなところがあります。でもまあ、僕のページにわざわざ飛んできてくださる言語学者の方というのは、ごく少数であり貴重な存在でいらっしゃるわけですから、8年前の投稿にわざわざ今になってコメントをくれた上記Aさんも含め、そういう方々には何かしらrelevanceのがあるかもしれない投稿をお目にかけたい気持ちはある。そういう場合、僕が言いたいことをあえて口つぐんでるということがメリットとは思われないですし、ま、上くらいのことならいいかなと。 というか、cartogpraphyもformal […]

数学(的思考法)とは? – 数学者たちとの飲み会記録

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06 27

さる某日、ボストン留学時代の仲間の数学者たちと飲んだんですが、その時に出た数学者たちの名言をまとめておきます。僕のつたない頭で精一杯咀嚼したもので、誤解は十分ありえますが、これはやはりブログの形で世に問う価値があると思いました。 1. 数学的な意味で視野が狭い人はよく答えを一般化しようとするが、本当に数学が見えている人は問題を一般化しようとする。 なんでそういうふうに頭が動くんだろう。その発想がなかった。 しかし、言語学でも思い当たるフシはある。Chomskyが “Conditions on Transformations” (1973)でSubjacency(下接条件)を提示し、RossのCatalog of islandsのいくつかを統一する原理を打ち立てたのは、どちらかといえば「答えを一般化した」という方の作業にあたる気がするが(それだけでも超すごい)、Rizzi (1978)がイタリア語のデータに基づくsubjacencyのbounding nodesのparametrizationを試みたのを見て、Chomskyはそれを高く評価しただけでなく、いわば獲得の問題一般に対してこのRizziタイプの解法が有効なのではないかという着想のもと、ご存知の「原理・パラメーターモデル」を打ち立てたわけで、ここで起こったことは、(後天的に学習できない知識の獲得という)「問題の一般化」だったのではないか。 2. 数学者A:「世の中の数学的問題には「才能がなくても解ける解法」(総当たり的な力技)と「才能がなければ見えない解法」(ひらめき・直観要素がある)の両パターンがある。」 数学者B:「「才能がなくても解ける解法」を敢行する能力だって十分才能じゃないか」 なるほど… 3.数学とは何か。特に純粋数学などに見られる一つの考え方は、物理学などの自然科学はもうすでにそこにあるもの(物質、電気、etc.)を数学(なり実験なりの経験科学的手法)を使って理解しようとするのだが、数学はいわばその逆をやる。これこれこういう公理を立ててみると、それだけでいかに驚くべき定理の数々やそれらが織りなす構造的体系がfollowするか、それを理解しその美しさを愛でる学問である、と。 理解が間違っているかもしれませんが、今まで「数学とはなにか」をついぞ理解できないできた中、これが僕にとってもっとも腑に落ちる理解の仕方だった。特に3が一番知りたかったことで何度も聞き返して説明を求めたものですが、結局教えていただいたことがすべて理解できているのか自信がない。 かっこいいなあ。数学が分かるようになりたいなあ。

ブログもう一度やってみようかと思います

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06 25

昔、大学院生ぐらいのときに、自前のブログをやっていました。飽きて随分前に更新をストップし閉鎖してしまったんですが、この頃言語学関係の学会等の機会に、昔そのブログを読んでくださっていたと告白してくださる方にお会いすることが多い。 手前味噌で大変おこがましいのだが、「ブログ楽しく読んでいました」と好意的に言ってくださる方が複数いらっしゃる。僕としては、あの何者でもなかった馬鹿者の自分の世迷言ブログが、何故そんな方々の目に止まったのかわからず、大変恐縮してしまう(若い方々だけではなく、かなり上の世代の教授先生方で読んでくださっていた方がいるというのだ。全く驚きだ)。 ブログを書くのが億劫になってしまったのは、まあ例によって、このSNS時代の不特定多数の匿名性のもとでの「全人口揚げ足取り時代」(あるいはそのような恐ろしいイメージ)の前に、余計なことはまあなるべくしないでおこうという、自己防衛の意味合いもあってのことだったが、基本的には僕が単に怠惰になったというだけのことなのだと思います。あと、僕なんて大した人間じゃないし、大したことも考えていないちゃらんぽらんな馬鹿者だという大前提の自己認識があったので、そんなやつの妄言をあえてウェブの海にゴミ捨てするのも世のため人のためにならないだろうという気持ちもあった。有り体に言えば恥ずかしい。古巣の上智に顔を出した際にその時の新修士1年生に目をキラキラさせて「ブログ見てます!!」と言われてしまい、「ああごめんなさい!」といってその日のうちに2年放置していたBloggerを閉じたのも今は昔。 でもちょっとやってみようかな。僕は相変わらず馬鹿者のちゃらんぽらんな人間ですが、ただ、僕の知り合いには、僕が心から尊敬する先生も先輩も同輩も後輩も友人も家族もいるので、彼らがふと言ってくれた目の覚めるような考え方や、思わず唸る鋭い疑問などを耳にする機会はあるのだ。自分にとってはとても価値があると感じられることがらを、そういう人たちに迷惑をかけない程度に必要に応じて匿名的にしつつ、文章の形で世に残しておくことには一定の意味があるのではないか、そんなふうに感じることがあった。 またすぐ飽きて更新をストップしてしまうかもしれませんが、とりあえずそんなわけで一応ブログを再開しますとだけご報告いたします。暇で暇でしょうがないときがあれば、時々見に来てやってください。

[8] competence vs. performcance: 理論言語学と実験言語学の間にあるギャップについて

[01:27] おさらい: 生成文法は言語の無限性に注目することで従来の言語研究に数々の視点の転換をもたらした // [07:35] 理論言語学と実験言語学の間のギャップ∋言語能力(competence)と言語運用(performance)の間にあるギャップ // [14:47] 言語能力(competence)と言語運用(performance)の区別とは // [20:42] 言語産出(speech production)における言語使用の創造的側面(creative aspect of language use)の問題(デカルトの問題)は我々人間の理論的理解の範囲を越えたところにあるのかもしれない // [27:56] 言語産出と違い、言語知覚(speech perception)の問題に関してはある程度決定性を保ったモデルを作ることが可能かもしれない // [30:30] 重要な未解決問題:文法性の程度(degrees of grammaticalness)が統辞解析(parsing)のモデルに投げかける難問 // [47:25] 理論言語学が実験言語学との有意義な協働体制を実現するためには、経験的に妥当な統辞解析のモデルを作ることが何よりも必要である(理論家の踏ん張りどころ)。

[7] 原理・パラメターモデル(Principles & Parameters Model)

[00:00] はじめに (前回のおさらい) [05:50] Xバー理論 (X-bar theory) と 主辞パラメター (head-parameter) [29:46] 原理パラメターモデルの登場 [36:39] チョムスキーの原理パラメターモデルの評価 伝統的な句構造規則(phrase structure rules): (1) English: a. S’ → COMP S b. COMP → (XP) ±WH (i) +WH → if, whether, Ø (ii) −WH → that, Ø c. S → NP Aux VP d. Aux → Ø(Present),-ed(Past), will, … e. NP → […]

[6] UG構成要素の一例: 島制約(island constraints)、下接原理(Subjacency)の話

[00:02:45] はじめに [00:07:38] Chomsky’s (1964) A-over-A principle [00:26:22] Ross’s (1967) catalog of island constraints [00:38:31] Chomsky’s (1973) Subjacency Principle [01:12:07] Rizzi’s (1978) data from Italian (1) Wh-movement (simplified) structural analysis: COMP – X – wh-phrase – Y structural change: wh-phrase – X – ⊘ – Y (2) a. S’ → COMP S b. COMP → […]

[5] Syntactic Structures(Chomsky 1957)の変換生成文法

※今回のPodcast講義では補足資料が必要になります。HPからダウンロードしてください:Chomsky (1957) Syntactic Structures, Appendix II (PDF) // 講義補足資料のPDFはこちら。 [00:02:06] 前回までの簡単な復習 // [00:04:49] Chomsky (1957) Syntactic Structuresの概説 // [00:08:26] Appendix IIの見方に関する概説 // [00:17:15] (1) “The boy reads the books.” という文の派生(derivation) / Phrase Structure: Σ:  # Sentence # ―(F1)→ # NP + VP # ―(F2)→ # NP + Verb + NP # ―(F3)→ # NPsing + Verb + NPpl […]

[4] 生成文法研究はプラトンの問題(刺激の欠乏問題)の収集・整理から始まる

[01:27] プラトンの問題とは何か(プラトン哲学の紹介を交えつつ) // [15:15] I-languageという概念 // [17:26] 一般学習機構だけで言語の獲得の問題が片付くだろうか // [35:12] structure-dependence(構造依存性)の原理(サヴァンのクリストファーの実験の話など) // [38:48] 生成文法理論はUGの措定を通してプラトン主義と部分的合流を果たした // [45:11] 現場の生成文法研究は大小様々なプラトンの問題の収集・整理から始まる(冒頭の質問への回答として、反面教師的一例として成田の卒論と修論の研究テーマとその選び方に関する反省を交えつつ) // (今回配信分のハンドアウトはこちら)

[3] 生成文法理論はヒト言語の無限性の学問である

[00:01:26] 言語の進化学会(EVOLANG9)に関する個人的感想 // [00:27:27] ヒト言語の無限性 ([00:35:31] 小鳥の歌の文法との比較など) // [00:45:24] 無限性に注目することの重要性 // [00:55:05] 「生成文法」(generative grammar)とは何か // [01:01:11] 言語記述・言語獲得・言語進化という三つ巴の研究課題

[2] 成田広樹・福井直樹. 2011「言語を巡る「何」と「なぜ」」音読

今回は私成田が福井直樹先生との共著で言語学の面白さを論じた解説文の音読をお届けしたいと思います。第3回の配信ではこの解説文の内容に基づいた議論もお送り出来ればと思っています。 成田広樹・福井直樹 (2011). 言語を巡る「何」と「なぜ」ー生成文法の視点からー. 『日本語学』30(13): 24-33. [01:49] §1 無限性にまつわるヒト言語の固有性 [08:52] §2 併合理論の射程 [16:48] §3 言語獲得の問題と普遍文法 [25:20] §4 普遍文法と言語進化の問題 [30:45] §5 おわりに

[1] はじめに

こんにちは。成田広樹です。この度新しいPodcast「naturally mind/brain」の配信を開始しますのでお知らせします。私成田が授業や講演の準備をしている時、または学会などに参加して発表をしたり他の研究者の方の講演を聞いたりした時に考えたことなど、言語研究、そしてそれを取り巻く心の科学、脳の科学にまつわるアイディアを皆様と共有する場にしていけたらなと思っています。今回はこのPodcastingの趣旨説明が主たる内容ですので、言語・心・脳の研究を巡る議論は次回以降に配信していきたいと思います。2012年度内は主にノーム・チョムスキー(著)、福井直樹(編訳)『言語基礎論集』(岩波書店、2012年)の講読に基づくお話をさせていただきたいと思っていますので、ご興味のある方はどうぞお気軽にこちらのPodcastを登録していただけたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

Papers

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forthcoming Narita, Hiroki (submitted). *{XP, YP}, the Independence of the LCA and Antisymmetry, and the LCA-free Phase-based Account of the CED Effect. Submitted to Proceedings of the Conference on Minimalist Approaches to Syntactic Locality.   2012 Narita, Hiroki (2012). Phase cycles in service of projection-free syntax. In Angel J. Gallego, ed., Phases: developing the framework, […]

黒田成幸、ゼータ関数、言語学と数学

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UCSD名誉教授でいらした故黒田成幸教授(2009年没。生成文法理論黎明期から日本語文法研究や形式言語理論研究において多大な功績を残した; http://ling.ucsd.edu/kuroda/obituary.html )は、彼の遺稿論文『数学と生成文法』(2009)において、文脈自由句構造言語と呼ばれる形式言語のある特定の部分言語を算術化し、その累和としてラマヌジャンのゼータ関数(ζ functions)を特徴づける、という一大構想をぶち上げています。少なくとも二次ゼータ関数までに関しては部分的な成功を収めたようです。数論や力学系の研究を始め数学や物理学の様々な分野で用いられているゼータ関数ですが、それがある抽象的なレベルで言語の形式構造にも関わりを持つことが示唆されているとしたらすごく面白いですよね。曰くこの研究の示唆するところは「ヒトの言語のありようも、数学的実在として、情報の構造とともに、奥深い数学的実在と本質的に全く無関係ではないかもしれない」ということだそうです。ヒト言語はヒトの生物学的所与であるという意味で文字通り自然物であるわけですが、その構造もやはり自然界の背後に抽象的に存在する数学的実在からの影響下にあるということが、とても奇妙な形で、そしてもしもその全貌が明らかにされたならば大変な知的好奇心を喚起するだろう形でさらなる証左を与えられていることになります。 僕は数学の知識が絶対的に不足しているため、目下この研究の意義を全く理解できておりません。言語学しかできない人間の限界をこうまざまざと見せつけられて悔しい限りなんですけど、でもいつかはしっかり黒田先生のお仕事を読み込めるようになりたいなあ。 ※参考文献:・黒田成幸(2009). “数学と生成文法—「説明的妥当性の彼方に」、そして言語の数学的実在論 福井直樹へ贈る一つのメルヘン.”  Sophia Linguistica 56:1-36.・Kuroda, S.-Y. (1976). A topological study of phrase-structure languages. Information and Control 30.4: 307-379.

成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売

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お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。 第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。 言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。 Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k よろしければ!

上野顕太郎『さよならもいわずに』を読んで

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以前凹レンズ 〜まとまりのない日記〜にて紹介されているのを読んでから気になっていたマンガ、上野顕太郎『さよならもいわずに』を帰国と同時に購入し、今日読了。 「マンガ表現の新しい可能性を見た」などと紹介されていただけあって確かにコマ割りの工夫や、リアリティと幻想と空白とランダムなインクの染みなどが一つのコマ内に同居するような描き方など独自の面白い手法がたくさんあった。上記ブログでも面白いレビューをされているので参考にしていただきたいですが、ともかく「これはマンガでしかできない」、というような工夫が随所に見られます。そしてそれらの工夫が愛する人を喪う一連の経験と連動して揺れ動く得も言われぬ心情をどこまでもリアルに表現するために機能している。 近年従来的なテレビ、ラジオ、映画、紙本の形態で読む雑誌、論文・論説・エッセイや小説、マンガなどの既存のメディアに加え、ホームページやYoutubeなどの動画投稿サイトのみならずブログ、SNS、Twitter、UStream、電子書籍…というふうにかつて無いスピードでメディアの形態が広がり、世界総表現者時代とでも呼ぶべき時期を我々は経験しています。そんな中僕は(そういう「ロングテール」に属する表現者の一人として)「どういう内容をどういうメディアに載せて発信するのがどういうメッセージを伝えるのに適しているのか」ということを考えるのが楽しいと思っているのですけど、このマンガはことマンガという視覚表現を考える上で参考になりました。 まあそういう「外枠・箱」への興味に比べ、「中身」への感心という意味では僕は個人的には誰にでもお薦めしたいという風には思いませんでしたが、ともあれ興味のある方はどうぞ。僕はやはりこういう近しい人の死にまつわる話をどうしても母を亡くした自分の経験に引き寄せて読んでしまいますんで、嗚咽しながら読んだ『ブラックジャックによろしく』のがん篇のどんぴしゃ感とかに比べたら…、というような、非常に個人的な経験に基づく相対的な評価です(僕の母は膵臓がんだったので黄疸が出て入院してやせ細っていって西洋医療に絶望して出口のないままもがきながら…ていう流れが『ブラよろ』(と訳すか?)のそれとまあ重なる重なる、という感じだったもので)。 でも、「そうそう」とか思う場面も少なからずあった。その中でも特筆すべきは以下のくだり。うつ病を患っている奥さん(キホさん)が心臓麻痺で死ぬ前日の描写、抗鬱剤の作用で集中力が持てず本などを読めないとこぼすキホさんが「ごめんね」と呟く。上野は「別に何も悪くないよ。薬が効くのが遅いのかもしれないね」と特段表情も変えずに言うのだが、心の声で彼はこう呟く: 私はいつもキホの病気を恐れていた  日常が崩れてしまうのを恐れていた  予定が狂ってしまうことを恐れていた  一番つらいのはキホ自身だというのに  この時私は思ってしまった… こまったな やっかいだな めんどうだな …………と  あやまるのは私のほうなんだ……… 上野顕太郎はキホさんを心臓麻痺という突然の出来事で亡くすのだが、それは僕の母ががんを宣告されてそうだと認識をしながら段々と死に近づいていく感覚とは異なる。が、それにつけてもこれはとてもリアル。がんが発覚し入院している母を日常的に見舞いに行く日々や、残り少ない時間を家で過ごしたいという母の希望のために料理を覚えたり通院のために車を出したりという日常でも、この言葉で語られるような背徳感を僕だって抱いていた。表現者としてのプライドがなせる業なのか、ないし「この出来事をマンガで表現するんだ」という使命感に支えられたものなのか、そんな得も言われぬ後ろめたさをこういうリアルな言葉でこういう形で想起し告白する上野の気持ちはいかばかりのものであろうか。 ところで、僕は上の言葉で表現されるような背徳感のようなものを自分も抱いたことがあることを認めるが、そういう後ろめたい感情だけで母との闘病生活の時期を過ごしていたなんてことは全くないし、何の恥ずかしげもなく自分で自分に肯定できる愛だの慈しみだの献身だのの感情だって持っていたことを僕は自分で知っているから、今更そのとき背徳感を持った事実に背徳感を持って落ち込むなんていう不毛なことを僕はしない。 そして思うに、上野がその時期を「あやまるのは私のほうなんだ」と後ろめたい気持ち「のみ」で過ごしていたということはあるまい。上のように呟く彼の中にも同時的に愛があり、慈しみがあり、献身があったはずです。 さて、ヒト言語というのは、少なくともそれが音声化されて心/脳の外に出てくる限りではその音声形式は単線的な構造を持っており(音声形式の背後にある句構造はもっと豊かな構造を持っていますが、それは別の話)、後ろめたさを告白する文と「同時に」他の内容を伝える文を出すことができません。「2文以上を同時に表現することができない」というヒト言語に関する経験則は僕は人の口蓋器官が形成しうる音声の単線的特徴によって規定されているものなのかと思ってましたが(十分に調音された音を2音以上同時に口で発することはできない)、友人にきいた限りはおそらく手話の方でも(2本の手や表情筋など表現に参画する器官が複数個並列的に存在しうるにも関わらず)この経験則は適用されるようなので、モダリティを超えでたなにかもっと深い原理がそこに関わっているのかもしれません。ヒトは考えるときはもっと色々なことを同時多発的に思っているんだろうという個人的直感があるんですが、なぜ言語を通すとこうも単線的な表現ないし知覚しかできないんだろう。不思議。 で、マンガというメディアもやはり部分的にヒト言語の表現形式に依存したメディアであると思いますが、上野が上記の後ろめたさを告白するという言語行為をする際、コマ全体も暗い色調、人の描写にもどよーんと陰がかかり…、というふうにページ全体が言語的にも視覚的にも「あやまるのは私のほうなんだ」的雰囲気に満ちています。『もっとキホが生きているうちにできることがあったんじゃないか』と悔いる日々を描くマンガのストーリー進行上この告白のインパクトというのはかなり重要なので、上野が表現者としてここで視覚情報全体で「どよーん」感を演出することを選んだということに僕は当然何の文句もないんだが、じゃあ上野のこの表現に限らず、「「ヒトが複数個の相反する感情を同時的に有機的に連続的に多発的に抱きうること」を何らかの形で率直に表象するような表現というものは可能なのか」、という問いを問うてみるのは面白い、と思った。 言語文で意味内容を表現することが(なぜか)「2文以上を同時に表現することができない」とするなら、そういう同時性の表現は言語のみの描写ではないのかもしれない。いや、あるいは言語での表現にあくまでこだわり、時系列的には一瞬の出来事であってもそこで起こった感情を数十ページにわたって詳細に述べ連ねるというのもひとつの手なのかもしれない。 しかし、何かを言語で語るということは他のすべてを言語で語らないこととイコールであると思われるので、難しい。 それでは言葉で何かを表現しつつも視覚や聴覚情報などでは別のことを表現しようとするという形態はどうか。ないし、あえて言語を全く離れてしまってはどうか。ピカソの絵などの絵画なんかがもしかしたらそういう方向性、言語というメディアの構造的制約を離れた表現の可能性を追求する一つの試みなのかもしれません。僕には絵画はよく分かりませんが。 人の心・感覚のリアリティをどこまでも追求することがあえてビジュアルや言語そのものの単純なreproductionを離れることをもその可能性の一つとして内包する、というのは面白いですね。 しかし人が人の感情を表現するときの言語の持ち味とというのはなかなか他の感覚情報に置き換えづらい何かを持っているというのも事実かと思う。そしてヒトもそれぞれきっと言語を使って自分の中の得も言われぬ感情を理解しようと努めているわけで、特定の形式制約を持ちつつもかなり効率的な情報整理の方式が「言語化」であるとしたら、我々のエピソード記憶の多くも多かれ少なかれ言語を介してこそ保持可能になっているのやも知れぬ。いやはやとても難しいですね。 ま、何の結論もないですが、そんなでした。

モデル理論的意味論を巡るTwitter談義記録(2011年1月9日〜10日)

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01 15

僕の「形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ」のその1、その2の執筆の間に起こったTwitter上での@wataruuくん、@tossijpさん、そして@yuizumiさんとの間に起こったモデル理論的意味論(model-theoretic semantics)に関する談義をこちらに参考までにアップしておきたいと思います。@yuizumiさんがご指摘されているとおり、言語学・言語哲学において今後意味の問題に関してどのようにとりくむべきかという問題に関して面白いトピックが色々と見え隠れしていると思います。僕自身も決してここで触れられた話題全てを消化できているわけではありません。今後もしっかり考えていきたいと思います。少しでもご参考になれば幸いです。 重ね重ね上のお三方、大変参考になる意見交換をさせていただきましてどうもありがとうございました。ところで記録のためコピペにこだわったのですがどうもBloggerの表示とあまり相性の良くない美しくない出力になってしまいました。Togetterの別個のエントリを用意しましたのでよろしければそちらでもご覧いただければと思います。 Togetter: 「形式意味論、internalism、統語論、ミニマリズム、モデル意味論」 http://togetter.com/li/92089

言語学と進化論:なぜ言語学者が最近進化の問題によく口を出すようになったのかについての私見

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01 14

前回のエントリーでもご出演いただいた生田敏一博士からの別の問い合わせがありました。 言語を記述する上で生物学的な人の進化を考慮しないといけない理由ってなんですか?まずは計測(=記述)するのが科学です。少なくとも生物学にお いては、進化の過程で起こり得るか起こり得ないかを考えた上で生命現象の記述(というよりかは計測)をすることは無いです。そもそも中枢神経の存 在なんて奇跡でしかないしなあ。脊椎動物の発生なんて事故だよ。(なんて生物学をやっていると、平気で口にしてしまいます。) それに対しての僕なりの回答が以下の通り。 考えなきゃいけないということはないでしょうね。おっしゃるとおり言語学の目標は結局のところ言語能力の記述なんであってそれ以上ではないですから。ただ、理論である以上できるだけシンプルに、そして願わくば深い説明的洞察を与える理論を目指すというのは当然で、それがminimalismですよね。で、minimalismを標榜するようになってからChomskyらがなぜこんなに言語の進化の問題に首をつっこむようになったのか、という疑問があるわけですが、僕の理解では「進化の問題を問うという態度」そのものがミニマリズムを追究するひとつの根拠を与えてくれるということがあるからだと理解しています。ことヒト言語の理論に関していうと(i)「ヒト言語が5万年か10万年かそこいらの、生物進化のスケールでいえば「瞬き」みたいな一瞬で出てきた(それゆえ自然選択やadaptationなどが強く働く時間は与えられていなかった)もんなはずなのに他の生物に類を見ないような能力でありうるのはなぜか」、と問い、(ii)それにたいして「いやいや一見複雑に見えるけどちゃんと注意深くその構成を吟味するとその実こんだけシンプルなメカなんですよ」という答えを予見すること、(iii)それでもって「100の独立のモジュールが犇めき合う器官より1こだの2こだののelementaryなメカをもつだけのシンプルな器官だということになればそれだけ「それがなぜ進化上出てこれたか」という問題に対してアプローチするのが容易くなる」という儲け話を期待する、という三つ巴のconsiderationsが絡まってのことなんだと僕は理解しています。つまり進化の問題というのは、シンプルな理論的記述を求めるという態度=minimalismを擁護するための一つのplausibility argumentであって、それは重要な問題意識だがminimalismの全てではないし、原理的にはそれと独立にminimalismをやってってもなんの問題もない、そういったものだと思います。  同じ質問をされたときに例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが、僕の進化論的議論に関する現行の態度はそのようなものです。 生田さんのそれに対するコメントは以下。 なるほどなあ。でも、別に上記の理由無くても科学だったらSimplestな記述をするわけだしね。つまりこれはGenerative Grammarのではなく、(GBの歴史の上に立つ)Minimalistの企てを行っていく上での話だな。ここまで壮大な哲学的論争を繰り広げなくては ならないというのはやはりGBからMinimalismっていうのは相当なパラダイムシフトだったってことだな。そもそも記述的な必要性があってシフトしたわけじゃないんだから(ってChomskyも書いてたし)、論争が起こるのは当然かもだけど、パラダイムシフトの時に哲学的論争が起こ るのは必死だね。アインシュタインVSボーア論争もしかり。  ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね。いや、もちろん、記述が完了し たらそれは進化の結果を記述したことになるのは間違いないし、よく考えてみると確かに言語学は(機能的な「退化」を含めた)進化を記述してるんだ しね。認知機能の記述でもあることを60年代からチョムスキーは主張してきたけど、その時も「言語学は認知そのものを記述しているのではないので 認知科学ではない」と一見筋の通ったデタラメが流行したらしいし。言語学の対象はStateだってちゃんと言ってたのにねえ。 ここで生田さんがおっしゃっている、「ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね」という意見に僕は個人的に賛成です。そして頻繁に一人歩きしているという現状認識も僕は共有しますね。うん十年前から言われていたとおり、言語進化の問題について我々が実際上経験的な仮説を述べる余地は元々ほとんどないわけで、いくら最近チョムスキーがそういう関連のことを語り始めたからと言って、流行りに乗っかってフォロワーの連中がspeculation(机上の空論)の応酬のようなことで言語学の文献を埋め尽くすような事にはなってほしくないと僕は個人的には思っています。 ところで、僕の回答部分で「例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが」という但し書きを付けましたが、きっと彼は僕みたいな進化論のほぼ素人がちゃちゃっと考えるよりもずっと長く言語学と進化論のかかわりのあり方について思いを巡らせてこられているわけで、だから例えば彼が”evolutionary adequacy”だの「ダーウィンの問題(Darwin’s problem)」などという用語を用いて言語進化の問題設定の重要性を言語学者に語っているのには彼なりの哲学が背後にあるからなんだと思います。実際藤田耕司先生とは去年一本共著論文を書かせていただく機会がありまして、その上で色々と個人的に意見交換させていただいたのですが、その時彼がe-mailで言っていたのは以下のとおり: 僕が進化、進化といってるのは、たとえば進化心理学や進化倫理学などが、単に心理学や倫理学の下位部門を意図しているのではなく、進化を統合のキーワードにして諸分野をまとめあげようとしているのと同じように、言語学についても進化言語学がそういう役割を果たすべきである、と思っているからなんだけど、ね。 僕は不勉強にして藤田先生のこの方法論的な、ないしヒューリスティック(heuristic)な目標設定について主体的にコメントできる知識はありません。しかしやはりこう言った問題設定の可能性も頭の片隅に置きつつ研究を続けていきたいと思っています。

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ:その2

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01 10

前回、前々回のエントリーに関して@wataruuくんからまた別のフォローアップの質問をTwitter上でもらいました。 成田さんはある種理論の”packaging”をしているように思われるのですが、internalistでありつつモデル論的意味論を採用することは可能ではないでしょうか。…(続く) あと、internalistになった途端に、意味論はsyntaxになる、というのがよく分からないのですが、教えていただけますか? 今回はこれに応えるエントリーを書きます。 まず、「形式意味論ってのは結局syntaxとして解釈されるべきもんですんで」っていうのはチョムスキーが最近いろんなところで口を酸っぱくして言ってることですんで、別に僕が最初に言い出したなんてことは全然ないですからね。その前提での僕なりの私見(つまりチョムスキーの意図とは違うかもしれない僕個人の意見)を以下に述べることにします。 「”packaging”してるだけじゃん?」と@wataruuくんが言う意図はわかるような気がして、つまり「なんでsyntax/統語論と別の理論であるべきsemantics/意味論をまで”packaging”してsyntaxとよばなきゃいけないんかい?」っていう質問なのでしょう。これはまあ基本的には用語の問題で、LSLT以来の術語を使って「The theory of linguistic/mental form and its formal manipulation (with no explicit reference to the way in which it is put to use)」としてsyntaxを定義するなら、現行のmodel-theoryの計算というのはその広い意味でのsyntaxと捉えるのが一番妥当だ、というのがまず基本的な点です。 さて、ここでまず有りうる反論1:「いやいやいや、「linguistic formがどう使用されるか」に関するある特定の形式的手続きによる記述がmodel-theoretic semanticsなんであって、そうであるならそれは上の()部分の条件を満たしていない以上syntaxではない」  ⇐この立場について最近のエントリで僕がいっているのは、そういう形式的意味記述が面白いデータを提供しているらしいってことについて僕は文句ないってことです。そういうデータに関してはやはり来るべき説明理論を求める、ということで、説明を目指すということはイコールsimplest possibleな理論を求めること、そして願わくば(おそらく自然法則が導きだしてくるところの)simplicityという概念そのものを説明項として利用する可能性を追究することで、まあそれはつまり意味の問題に関してもminimalist programで研究をすることでしょうね(Goodmanの路線:Goodmanのsimplicityの概念がChomskyによってどう言語理論に応用されてきたについての簡明なoverviewに関してはTomalin 2003, Linguaがとても詳しい)。そこでnarrow syntaxがどれだけ主要な役割をはたすことになるかは経験的な問題ですが、すでにLSLT, Syntactic Structuresで示されているようにnarrow syntaxの意味の問題に関する強い説明力は疑い得ないでしょうから、じゃあこのnarrow syntaxをどこまで強い説明項として利用できるかを問うというのは意義のあることでしょうな。それがChomsky-Hinzen-Uriagerekaの問いでしょう。 でま、この反論1によると意味論が記述しているのはlinguistic formでは「なく」「それの使用の仕方だ」ということになるんで、この方向で意味論の射程を解釈する限りにおいては@wataruuくんの「packagingしてるだけじゃん?」っていう批判はあたってるってことになるのかな。 しかしここで注意すべきは、この路線を求めるということは本来的に「言語の使用に関する理論は作りえない」という後期ウィトゲンシュタインの強い批判と対峙しなくてはならなくなるということなんです。言語使用というのは「暑いね」と言われたらそれが「クーラーつけて」とか「アイスクリーム頂戴」というリクエストの意味にも「お前の部屋換気もしてねーのかよくそったれが」という非難の意味にもとれたりとか、そういう徹頭徹尾形式的記述を拒む複雑な人間行動の全体を指すわけで、その全てをformal semanticsが記述しおおせる(ましてや説明しおおせる)可能性はないでしょう。デカルト以来”creative aspect of language use”というのが徹頭徹尾理論的説明を拒み続けていることを言語学者・言語哲学者は無視できません(Cartesian Linguistics (またその3rd editionのイントロby McGilvray)、New Horizons in […]