"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

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    数学(的思考法)とは? – 数学者たちとの飲み会記録        (2019/6/27)

さる某日、ボストン留学時代の仲間の数学者たちと飲んだんですが、その時に出た数学者たちの名言をまとめておきます。僕のつたない頭で精一杯咀嚼したもので、誤解は十分ありえますが、これはやはりブログの形で世に問う価値があると思いました。

1. 数学的な意味で視野が狭い人はよく答えを一般化しようとするが、本当に数学が見えている人は問題を一般化しようとする。

なんでそういうふうに頭が動くんだろう。その発想がなかった。

  • しかし、言語学でも思い当たるフシはある。Chomskyが “Conditions on Transformations” (1973)でSubjacency(下接条件)を提示し、RossのCatalog of islandsのいくつかを統一する原理を打ち立てたのは、どちらかといえば「答えを一般化した」という方の作業にあたる気がするが(それだけでも超すごい)、Rizzi (1978)がイタリア語のデータに基づくsubjacencyのbounding nodesのparametrizationを試みたのを見て、Chomskyはそれを高く評価しただけでなく、いわば獲得の問題一般に対してこのRizziタイプの解法が有効なのではないかという着想のもと、ご存知の「原理・パラメーターモデル」を打ち立てたわけで、ここで起こったことは、(後天的に学習できない知識の獲得という)「問題の一般化」だったのではないか。

2. 数学者A:「世の中の数学的問題には「才能がなくても解ける解法」(総当たり的な力技)と「才能がなければ見えない解法」(ひらめき・直観要素がある)の両パターンがある。」
数学者B:「「才能がなくても解ける解法」を敢行する能力だって十分才能じゃないか」

なるほど…

3.数学とは何か。特に純粋数学などに見られる一つの考え方は、物理学などの自然科学はもうすでにそこにあるもの(物質、電気、etc.)を数学(なり実験なりの経験科学的手法)を使って理解しようとするのだが、数学はいわばその逆をやる。これこれこういう公理を立ててみると、それだけでいかに驚くべき定理の数々やそれらが織りなす構造的体系がfollowするか、それを理解しその美しさを愛でる学問である、と。

理解が間違っているかもしれませんが、今まで「数学とはなにか」をついぞ理解できないできた中、これが僕にとってもっとも腑に落ちる理解の仕方だった。特に3が一番知りたかったことで何度も聞き返して説明を求めたものですが、結局教えていただいたことがすべて理解できているのか自信がない。

かっこいいなあ。数学が分かるようになりたいなあ。



    ブログもう一度やってみようかと思います        (2019/6/25)

昔、大学院生ぐらいのときに、自前のブログをやっていました。飽きて随分前に更新をストップし閉鎖してしまったんですが、この頃言語学関係の学会等の機会に、昔そのブログを読んでくださっていたと告白してくださる方にお会いすることが多い。

手前味噌で大変おこがましいのだが、「ブログ楽しく読んでいました」と好意的に言ってくださる方が複数いらっしゃる。僕としては、あの何者でもなかった馬鹿者の自分の世迷言ブログが、何故そんな方々の目に止まったのかわからず、大変恐縮してしまう(若い方々だけではなく、かなり上の世代の教授先生方で読んでくださっていた方がいるというのだ。全く驚きだ)。

ブログを書くのが億劫になってしまったのは、まあ例によって、このSNS時代の不特定多数の匿名性のもとでの「全人口揚げ足取り時代」(あるいはそのような恐ろしいイメージ)の前に、余計なことはまあなるべくしないでおこうという、自己防衛の意味合いもあってのことだったが、基本的には僕が単に怠惰になったというだけのことなのだと思います。あと、僕なんて大した人間じゃないし、大したことも考えていないちゃらんぽらんな馬鹿者だという大前提の自己認識があったので、そんなやつの妄言をあえてウェブの海にゴミ捨てするのも世のため人のためにならないだろうという気持ちもあった。有り体に言えば恥ずかしい。古巣の上智に顔を出した際にその時の新修士1年生に目をキラキラさせて「ブログ見てます!!」と言われてしまい、「ああごめんなさい!」といってその日のうちに2年放置していたBloggerを閉じたのも今は昔。

でもちょっとやってみようかな。僕は相変わらず馬鹿者のちゃらんぽらんな人間ですが、ただ、僕の知り合いには、僕が心から尊敬する先生も先輩も同輩も後輩も友人も家族もいるので、彼らがふと言ってくれた目の覚めるような考え方や、思わず唸る鋭い疑問などを耳にする機会はあるのだ。自分にとってはとても価値があると感じられることがらを、そういう人たちに迷惑をかけない程度に必要に応じて匿名的にしつつ、文章の形で世に残しておくことには一定の意味があるのではないか、そんなふうに感じることがあった。

またすぐ飽きて更新をストップしてしまうかもしれませんが、とりあえずそんなわけで一応ブログを再開しますとだけご報告いたします。暇で暇でしょうがないときがあれば、時々見に来てやってください。



    黒田成幸、ゼータ関数、言語学と数学        (2012/1/17)

UCSD名誉教授でいらした故黒田成幸教授(2009年没。生成文法理論黎明期から日本語文法研究や形式言語理論研究において多大な功績を残した; http://ling.ucsd.edu/kuroda/obituary.html )は、彼の遺稿論文『数学と生成文法』(2009)において、文脈自由句構造言語と呼ばれる形式言語のある特定の部分言語を算術化し、その累和としてラマヌジャンのゼータ関数(ζ functions)を特徴づける、という一大構想をぶち上げています。少なくとも二次ゼータ関数までに関しては部分的な成功を収めたようです。数論や力学系の研究を始め数学や物理学の様々な分野で用いられているゼータ関数ですが、それがある抽象的なレベルで言語の形式構造にも関わりを持つことが示唆されているとしたらすごく面白いですよね。曰くこの研究の示唆するところは「ヒトの言語のありようも、数学的実在として、情報の構造とともに、奥深い数学的実在と本質的に全く無関係ではないかもしれない」ということだそうです。ヒト言語はヒトの生物学的所与であるという意味で文字通り自然物であるわけですが、その構造もやはり自然界の背後に抽象的に存在する数学的実在からの影響下にあるということが、とても奇妙な形で、そしてもしもその全貌が明らかにされたならば大変な知的好奇心を喚起するだろう形でさらなる証左を与えられていることになります。

僕は数学の知識が絶対的に不足しているため、目下この研究の意義を全く理解できておりません。言語学しかできない人間の限界をこうまざまざと見せつけられて悔しい限りなんですけど、でもいつかはしっかり黒田先生のお仕事を読み込めるようになりたいなあ。

※参考文献:
・黒田成幸(2009). “数学と生成文法—「説明的妥当性の彼方に」、そして言語の数学的実在論 福井直樹へ贈る一つのメルヘン.”  Sophia Linguistica 56:1-36.
・Kuroda, S.-Y. (1976). A topological study of phrase-structure languages. Information and Control 30.4: 307-379.



    成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売        (2011/11/1)

お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。

第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。

言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。

Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k

よろしければ!



    上野顕太郎『さよならもいわずに』を読んで        (2011/4/7)
以前凹レンズ 〜まとまりのない日記〜にて紹介されているのを読んでから気になっていたマンガ、上野顕太郎『さよならもいわずに』を帰国と同時に購入し、今日読了。
「マンガ表現の新しい可能性を見た」などと紹介されていただけあって確かにコマ割りの工夫や、リアリティと幻想と空白とランダムなインクの染みなどが一つのコマ内に同居するような描き方など独自の面白い手法がたくさんあった。上記ブログでも面白いレビューをされているので参考にしていただきたいですが、ともかく「これはマンガでしかできない」、というような工夫が随所に見られます。そしてそれらの工夫が愛する人を喪う一連の経験と連動して揺れ動く得も言われぬ心情をどこまでもリアルに表現するために機能している。
近年従来的なテレビ、ラジオ、映画、紙本の形態で読む雑誌、論文・論説・エッセイや小説、マンガなどの既存のメディアに加え、ホームページやYoutubeなどの動画投稿サイトのみならずブログ、SNS、Twitter、UStream、電子書籍…というふうにかつて無いスピードでメディアの形態が広がり、世界総表現者時代とでも呼ぶべき時期を我々は経験しています。そんな中僕は(そういう「ロングテール」に属する表現者の一人として)「どういう内容をどういうメディアに載せて発信するのがどういうメッセージを伝えるのに適しているのか」ということを考えるのが楽しいと思っているのですけど、このマンガはことマンガという視覚表現を考える上で参考になりました。
まあそういう「外枠・箱」への興味に比べ、「中身」への感心という意味では僕は個人的には誰にでもお薦めしたいという風には思いませんでしたが、ともあれ興味のある方はどうぞ。僕はやはりこういう近しい人の死にまつわる話をどうしても母を亡くした自分の経験に引き寄せて読んでしまいますんで、嗚咽しながら読んだ『ブラックジャックによろしく』のがん篇のどんぴしゃ感とかに比べたら…、というような、非常に個人的な経験に基づく相対的な評価です(僕の母は膵臓がんだったので黄疸が出て入院してやせ細っていって西洋医療に絶望して出口のないままもがきながら…ていう流れが『ブラよろ』(と訳すか?)のそれとまあ重なる重なる、という感じだったもので)。
でも、「そうそう」とか思う場面も少なからずあった。その中でも特筆すべきは以下のくだり。うつ病を患っている奥さん(キホさん)が心臓麻痺で死ぬ前日の描写、抗鬱剤の作用で集中力が持てず本などを読めないとこぼすキホさんが「ごめんね」と呟く。上野は「別に何も悪くないよ。薬が効くのが遅いのかもしれないね」と特段表情も変えずに言うのだが、心の声で彼はこう呟く:
私はいつもキホの病気を恐れていた 
日常が崩れてしまうのを恐れていた 
予定が狂ってしまうことを恐れていた 
一番つらいのはキホ自身だというのに 
この時私は思ってしまった…
こまったな やっかいだな めんどうだな …………と 
あやまるのは私のほうなんだ………
上野顕太郎はキホさんを心臓麻痺という突然の出来事で亡くすのだが、それは僕の母ががんを宣告されてそうだと認識をしながら段々と死に近づいていく感覚とは異なる。が、それにつけてもこれはとてもリアル。がんが発覚し入院している母を日常的に見舞いに行く日々や、残り少ない時間を家で過ごしたいという母の希望のために料理を覚えたり通院のために車を出したりという日常でも、この言葉で語られるような背徳感を僕だって抱いていた。表現者としてのプライドがなせる業なのか、ないし「この出来事をマンガで表現するんだ」という使命感に支えられたものなのか、そんな得も言われぬ後ろめたさをこういうリアルな言葉でこういう形で想起し告白する上野の気持ちはいかばかりのものであろうか。
ところで、僕は上の言葉で表現されるような背徳感のようなものを自分も抱いたことがあることを認めるが、そういう後ろめたい感情だけで母との闘病生活の時期を過ごしていたなんてことは全くないし、何の恥ずかしげもなく自分で自分に肯定できる愛だの慈しみだの献身だのの感情だって持っていたことを僕は自分で知っているから、今更そのとき背徳感を持った事実に背徳感を持って落ち込むなんていう不毛なことを僕はしない。
そして思うに、上野がその時期を「あやまるのは私のほうなんだ」と後ろめたい気持ち「のみ」で過ごしていたということはあるまい。上のように呟く彼の中にも同時的に愛があり、慈しみがあり、献身があったはずです。
さて、ヒト言語というのは、少なくともそれが音声化されて心/脳の外に出てくる限りではその音声形式は単線的な構造を持っており(音声形式の背後にある句構造はもっと豊かな構造を持っていますが、それは別の話)、後ろめたさを告白する文と「同時に」他の内容を伝える文を出すことができません。「2文以上を同時に表現することができない」というヒト言語に関する経験則は僕は人の口蓋器官が形成しうる音声の単線的特徴によって規定されているものなのかと思ってましたが(十分に調音された音を2音以上同時に口で発することはできない)、友人にきいた限りはおそらく手話の方でも(2本の手や表情筋など表現に参画する器官が複数個並列的に存在しうるにも関わらず)この経験則は適用されるようなので、モダリティを超えでたなにかもっと深い原理がそこに関わっているのかもしれません。ヒトは考えるときはもっと色々なことを同時多発的に思っているんだろうという個人的直感があるんですが、なぜ言語を通すとこうも単線的な表現ないし知覚しかできないんだろう。不思議。
で、マンガというメディアもやはり部分的にヒト言語の表現形式に依存したメディアであると思いますが、上野が上記の後ろめたさを告白するという言語行為をする際、コマ全体も暗い色調、人の描写にもどよーんと陰がかかり…、というふうにページ全体が言語的にも視覚的にも「あやまるのは私のほうなんだ」的雰囲気に満ちています。『もっとキホが生きているうちにできることがあったんじゃないか』と悔いる日々を描くマンガのストーリー進行上この告白のインパクトというのはかなり重要なので、上野が表現者としてここで視覚情報全体で「どよーん」感を演出することを選んだということに僕は当然何の文句もないんだが、じゃあ上野のこの表現に限らず、「「ヒトが複数個の相反する感情を同時的に有機的に連続的に多発的に抱きうること」を何らかの形で率直に表象するような表現というものは可能なのか」、という問いを問うてみるのは面白い、と思った。
言語文で意味内容を表現することが(なぜか)「2文以上を同時に表現することができない」とするなら、そういう同時性の表現は言語のみの描写ではないのかもしれない。いや、あるいは言語での表現にあくまでこだわり、時系列的には一瞬の出来事であってもそこで起こった感情を数十ページにわたって詳細に述べ連ねるというのもひとつの手なのかもしれない。
しかし、何かを言語で語るということは他のすべてを言語で語らないこととイコールであると思われるので、難しい。
それでは言葉で何かを表現しつつも視覚や聴覚情報などでは別のことを表現しようとするという形態はどうか。ないし、あえて言語を全く離れてしまってはどうか。ピカソの絵などの絵画なんかがもしかしたらそういう方向性、言語というメディアの構造的制約を離れた表現の可能性を追求する一つの試みなのかもしれません。僕には絵画はよく分かりませんが。
人の心・感覚のリアリティをどこまでも追求することがあえてビジュアルや言語そのものの単純なreproductionを離れることをもその可能性の一つとして内包する、というのは面白いですね。
しかし人が人の感情を表現するときの言語の持ち味とというのはなかなか他の感覚情報に置き換えづらい何かを持っているというのも事実かと思う。そしてヒトもそれぞれきっと言語を使って自分の中の得も言われぬ感情を理解しようと努めているわけで、特定の形式制約を持ちつつもかなり効率的な情報整理の方式が「言語化」であるとしたら、我々のエピソード記憶の多くも多かれ少なかれ言語を介してこそ保持可能になっているのやも知れぬ。いやはやとても難しいですね。
ま、何の結論もないですが、そんなでした。


    モデル理論的意味論を巡るTwitter談義記録(2011年1月9日〜10日)        (2011/1/15)

僕の「形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ」のその1その2の執筆の間に起こったTwitter上での@wataruuくん、@tossijpさん、そして@yuizumiさんとの間に起こったモデル理論的意味論(model-theoretic semantics)に関する談義をこちらに参考までにアップしておきたいと思います。@yuizumiさんがご指摘されているとおり、言語学・言語哲学において今後意味の問題に関してどのようにとりくむべきかという問題に関して面白いトピックが色々と見え隠れしていると思います。僕自身も決してここで触れられた話題全てを消化できているわけではありません。今後もしっかり考えていきたいと思います。少しでもご参考になれば幸いです。

重ね重ね上のお三方、大変参考になる意見交換をさせていただきましてどうもありがとうございました。ところで記録のためコピペにこだわったのですがどうもBloggerの表示とあまり相性の良くない美しくない出力になってしまいました。Togetterの別個のエントリを用意しましたのでよろしければそちらでもご覧いただければと思います。

Togetter: 「形式意味論、internalism、統語論、ミニマリズム、モデル意味論」 http://togetter.com/li/92089



    言語学と進化論:なぜ言語学者が最近進化の問題によく口を出すようになったのかについての私見        (2011/1/14)

前回のエントリーでもご出演いただいた生田敏一博士からの別の問い合わせがありました。

言語を記述する上で生物学的な人の進化を考慮しないといけない理由ってなんですか?まずは計測(=記述)するのが科学です。少なくとも生物学にお いては、進化の過程で起こり得るか起こり得ないかを考えた上で生命現象の記述(というよりかは計測)をすることは無いです。そもそも中枢神経の存 在なんて奇跡でしかないしなあ。脊椎動物の発生なんて事故だよ。(なんて生物学をやっていると、平気で口にしてしまいます。)

それに対しての僕なりの回答が以下の通り。

考えなきゃいけないということはないでしょうね。おっしゃるとおり言語学の目標は結局のところ言語能力の記述なんであってそれ以上ではないですから。ただ、理論である以上できるだけシンプルに、そして願わくば深い説明的洞察を与える理論を目指すというのは当然で、それがminimalismですよね。で、minimalismを標榜するようになってからChomskyらがなぜこんなに言語の進化の問題に首をつっこむようになったのか、という疑問があるわけですが、僕の理解では「進化の問題を問うという態度」そのものがミニマリズムを追究するひとつの根拠を与えてくれるということがあるからだと理解しています。ことヒト言語の理論に関していうと(i)「ヒト言語が5万年か10万年かそこいらの、生物進化のスケールでいえば「瞬き」みたいな一瞬で出てきた(それゆえ自然選択やadaptationなどが強く働く時間は与えられていなかった)もんなはずなのに他の生物に類を見ないような能力でありうるのはなぜか」、と問い、(ii)それにたいして「いやいや一見複雑に見えるけどちゃんと注意深くその構成を吟味するとその実こんだけシンプルなメカなんですよ」という答えを予見すること、(iii)それでもって「100の独立のモジュールが犇めき合う器官より1こだの2こだののelementaryなメカをもつだけのシンプルな器官だということになればそれだけ「それがなぜ進化上出てこれたか」という問題に対してアプローチするのが容易くなる」という儲け話を期待する、という三つ巴のconsiderationsが絡まってのことなんだと僕は理解しています。つまり進化の問題というのは、シンプルな理論的記述を求めるという態度=minimalismを擁護するための一つのplausibility argumentであって、それは重要な問題意識だがminimalismの全てではないし、原理的にはそれと独立にminimalismをやってってもなんの問題もない、そういったものだと思います。 

同じ質問をされたときに例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが、僕の進化論的議論に関する現行の態度はそのようなものです。

生田さんのそれに対するコメントは以下。

なるほどなあ。でも、別に上記の理由無くても科学だったらSimplestな記述をするわけだしね。つまりこれはGenerative Grammarのではなく、(GBの歴史の上に立つ)Minimalistの企てを行っていく上での話だな。ここまで壮大な哲学的論争を繰り広げなくては ならないというのはやはりGBからMinimalismっていうのは相当なパラダイムシフトだったってことだな。そもそも記述的な必要性があってシフトしたわけじゃないんだから(ってChomskyも書いてたし)、論争が起こるのは当然かもだけど、パラダイムシフトの時に哲学的論争が起こ るのは必死だね。アインシュタインVSボーア論争もしかり。 

ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね。いや、もちろん、記述が完了し たらそれは進化の結果を記述したことになるのは間違いないし、よく考えてみると確かに言語学は(機能的な「退化」を含めた)進化を記述してるんだ しね。認知機能の記述でもあることを60年代からチョムスキーは主張してきたけど、その時も「言語学は認知そのものを記述しているのではないので 認知科学ではない」と一見筋の通ったデタラメが流行したらしいし。言語学の対象はStateだってちゃんと言ってたのにねえ。

ここで生田さんがおっしゃっている、「ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね」という意見に僕は個人的に賛成です。そして頻繁に一人歩きしているという現状認識も僕は共有しますね。うん十年前から言われていたとおり、言語進化の問題について我々が実際上経験的な仮説を述べる余地は元々ほとんどないわけで、いくら最近チョムスキーがそういう関連のことを語り始めたからと言って、流行りに乗っかってフォロワーの連中がspeculation(机上の空論)の応酬のようなことで言語学の文献を埋め尽くすような事にはなってほしくないと僕は個人的には思っています。

ところで、僕の回答部分で「例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが」という但し書きを付けましたが、きっと彼は僕みたいな進化論のほぼ素人がちゃちゃっと考えるよりもずっと長く言語学と進化論のかかわりのあり方について思いを巡らせてこられているわけで、だから例えば彼が”evolutionary adequacy”だの「ダーウィンの問題(Darwin’s problem)」などという用語を用いて言語進化の問題設定の重要性を言語学者に語っているのには彼なりの哲学が背後にあるからなんだと思います。実際藤田耕司先生とは去年一本共著論文を書かせていただく機会がありまして、その上で色々と個人的に意見交換させていただいたのですが、その時彼がe-mailで言っていたのは以下のとおり:

僕が進化、進化といってるのは、たとえば進化心理学や進化倫理学などが、単に心理学や倫理学の下位部門を意図しているのではなく、進化を統合のキーワードにして諸分野をまとめあげようとしているのと同じように、言語学についても進化言語学がそういう役割を果たすべきである、と思っているからなんだけど、ね。

僕は不勉強にして藤田先生のこの方法論的な、ないしヒューリスティック(heuristic)な目標設定について主体的にコメントできる知識はありません。しかしやはりこう言った問題設定の可能性も頭の片隅に置きつつ研究を続けていきたいと思っています。



    形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ:その2        (2011/1/10)

前回前々回のエントリーに関して@wataruuくんからまた別のフォローアップの質問をTwitter上でもらいました。

成田さんはある種理論の”packaging”をしているように思われるのですが、internalistでありつつモデル論的意味論を採用することは可能ではないでしょうか。…(続く)

あと、internalistになった途端に、意味論はsyntaxになる、というのがよく分からないのですが、教えていただけますか?

今回はこれに応えるエントリーを書きます。

まず、「形式意味論ってのは結局syntaxとして解釈されるべきもんですんで」っていうのはチョムスキーが最近いろんなところで口を酸っぱくして言ってることですんで、別に僕が最初に言い出したなんてことは全然ないですからね。その前提での僕なりの私見(つまりチョムスキーの意図とは違うかもしれない僕個人の意見)を以下に述べることにします。

「”packaging”してるだけじゃん?」と@wataruuくんが言う意図はわかるような気がして、つまり「なんでsyntax/統語論と別の理論であるべきsemantics/意味論をまで”packaging”してsyntaxとよばなきゃいけないんかい?」っていう質問なのでしょう。これはまあ基本的には用語の問題で、LSLT以来の術語を使って「The theory of linguistic/mental form and its formal manipulation (with no explicit reference to the way in which it is put to use)」としてsyntaxを定義するなら、現行のmodel-theoryの計算というのはその広い意味でのsyntaxと捉えるのが一番妥当だ、というのがまず基本的な点です。

さて、ここでまず有りうる反論1:
「いやいやいや、「linguistic formがどう使用されるか」に関するある特定の形式的手続きによる記述がmodel-theoretic semanticsなんであって、そうであるならそれは上の()部分の条件を満たしていない以上syntaxではない」 

⇐この立場について最近のエントリで僕がいっているのは、そういう形式的意味記述が面白いデータを提供しているらしいってことについて僕は文句ないってことです。そういうデータに関してはやはり来るべき説明理論を求める、ということで、説明を目指すということはイコールsimplest possibleな理論を求めること、そして願わくば(おそらく自然法則が導きだしてくるところの)simplicityという概念そのものを説明項として利用する可能性を追究することで、まあそれはつまり意味の問題に関してもminimalist programで研究をすることでしょうね(Goodmanの路線:Goodmanのsimplicityの概念がChomskyによってどう言語理論に応用されてきたについての簡明なoverviewに関してはTomalin 2003, Linguaがとても詳しい)。
そこでnarrow syntaxがどれだけ主要な役割をはたすことになるかは経験的な問題ですが、すでにLSLT, Syntactic Structuresで示されているようにnarrow syntaxの意味の問題に関する強い説明力は疑い得ないでしょうから、じゃあこのnarrow syntaxをどこまで強い説明項として利用できるかを問うというのは意義のあることでしょうな。それがChomsky-Hinzen-Uriagerekaの問いでしょう。

でま、この反論1によると意味論が記述しているのはlinguistic formでは「なく」「それの使用の仕方だ」ということになるんで、この方向で意味論の射程を解釈する限りにおいては@wataruuくんの「packagingしてるだけじゃん?」っていう批判はあたってるってことになるのかな。

しかしここで注意すべきは、この路線を求めるということは本来的に「言語の使用に関する理論は作りえない」という後期ウィトゲンシュタインの強い批判と対峙しなくてはならなくなるということなんです。言語使用というのは「暑いね」と言われたらそれが「クーラーつけて」とか「アイスクリーム頂戴」というリクエストの意味にも「お前の部屋換気もしてねーのかよくそったれが」という非難の意味にもとれたりとか、そういう徹頭徹尾形式的記述を拒む複雑な人間行動の全体を指すわけで、その全てをformal semanticsが記述しおおせる(ましてや説明しおおせる)可能性はないでしょう。デカルト以来”creative aspect of language use”というのが徹頭徹尾理論的説明を拒み続けていることを言語学者・言語哲学者は無視できません(Cartesian Linguistics (またその3rd editionのイントロby McGilvray)、New Horizons in the Study of Language and Mind)。

さて、ただ現代の職業的意味論者はまさか「あついね」→「クーラーつけて」の問題を真剣に取り扱おうとは誰も主張しないわけですが、それは彼らが「言語使用」の全部ではなく「一部」を取り扱おうとしているのであり、その「一部」に関してであればformalな(ことによるとmodel-theoreticな)記述が可能だという仮定をしているからなんだと思います。

で、その「一部」って何? 

生成文法に与する意味論者は、その言語行動の「一部」というのは特にある統語構造の表示のレベル(”LF”)から形式的に定義された手続きによってメカニカルに一意的に写像される意味解釈の表示と捉えています。そういう表示があるはずだという研究者としての直観があればこその計算意味論です。

この「一部」をヒト個体の外に仮定するなら、それはsemantic externalismになります。Fodorのcausal theory of referenceだったりspeech community内の慣習との一致をその実とするDummettとかPutnamとかの路線だったり、色々な方向性が言語哲学文献内で提案されてきたことでしょうが、ま、その限りにおいてこの統語と心の外の対応関係を問う研究は心のメカニズムの研究ではなく人の行動の研究で、それに関してはチョムスキーの『New Horizons in the Study of Language and Mind』などが強力な批判を挙げていますし、また職業的言語学者はみんなそれには同意した(風を装っている)ようなので、ここに関してはそれ以上言わないことにします。

では、その「一部」をやはり心の中の出来事として捉えると「仮定」したらどうでしょうか。これを仮定Aと呼びましょう。formal semanticsをinternalist theory of human languageとしてとらえようとすればきっとこの仮定Aが必要になります。仮定Aをもってすれば、ヒトのmind/brain内の回帰的計算メカニズムである統語と、および上で述べた意味の「一部」をも引っ括めたモノとしてFaculty of Language(言語機能; FL)が再定式化される事になります。さらに、その意味の「一部」とはLFから一意的に機械的に写像される一心的表示と再定式化されることになりますが、その心的表示をここではD(enotation)-markerと呼ぶことにしましょう。そのLFからD-markerへの写像に関する計算手続はFLの研究の一部となり、またその計算はD-markerがその後でどう使われるかという問題を問わずに行えるということになるはずです。すると言語使用の噛んでくる前の心的表示としてのD-markerおよびその計算に関する研究は上のLSLT的な定義に従っていえばまさしく「syntax」であり、その限りにおいてこれは心のメカニズムの研究=認知科学です。そう言わざるをえない。

これで僕の中では大体@wataruuくんの質問に答えたつもりです。

でま、この路線を取るなら、それを統語論と呼ぼうと呼ぶまいと、Lexicon-to-LFという一方のnarrow syntaxとLF-to-D-markerという他方のpost-LF-syntaxの二つを同時に心的計算メカニズムとして仮定することになりますんで、その二つを仮定する限りはなぜこの二つのsyntaxがかくも異なる様相を呈していなければならないのかということが経験的問題として浮上します。認知科学者としては願わくばそこにbest possible answerを求めたいところですし、それが単純な意味でのminimalismでしょう。可能であればこの2つの異なる計算サイクルを一元化したいと願えばそこに例のphase theoryが噛んでくることになるでしょうし、またそこに一元化を期待することが不可能だということが何らかの独立の証拠によって示されたりした場合は(今は全くそんなモノは示されていない)、じゃあなんでそんな不恰好な姿をしてなければいけないのか、そんな不恰好なものがどうやってヒトの言語能力として獲得されるのか・進化してきたのか、という問題が重くのしかかります。

でま、兎にも角にもformal semanticsという分野では上に述べたような2重のsyntaxを仮定する路線をあゆみ、結果として一部面白いデータを洗い出しているわけですから、そこに文句はない。GBが5つの異なる統語サイクルを仮定する理論でもって面白いデータを出してきてたってことを僕が疑わないのと同じです。そのデータに関しては上の段落に述べたような問題意識の上に如何にしてそこに説明が可能かというのを問い続ける以外にない。

さて、ここでこの2重のsyntaxを仮定する路線を追究する上での問題:

問い①:D-markerとは何か。

問い②:仮定Aを取る根拠は何か。

さて、問①に関しては以下の回答Eを出すわけにはいかない:

回答E:D-markerとはexternalismが仮定するところのdenotation(truth-conditions, reference)と同等である。

こう言ってしまうと、結局のところdenotationというinternalistな認知科学が取り扱う範囲を超えでた(そしてNew Horizonsが語る限り取り扱い得ない)「word-world relation」、externalistのstipulationsを認知科学にそのまま持ち込む、ということになる。これは看過しがたい。

それでは、denotationとは違うD-markerの定式化がありうるのか。その問いをきちんと正面きってdenotationist semanticistsは問うているのか、という点については、僕は正直疑問を抱かざるをえない。以前引用したUriagerekaの以下の一文がその点を如実に指摘していると思う。

“[W]hen it comes to … `reference’-bearing elements, or more generally elements with a denotation (John, book, sing, and the like) not a single theory exists that clarifies what sort of relation takes place between such words and what they denote. This may seem too harsh a comment to make, but the truth is all familiar theories—all of them, really—presuppose the relation, in statements of the sort of `snow’ refers to snow. Indeed, contemporary semantics prides itself in being able to operate without detailed knowledge of that intentional dependency, solely on the basis of the algebraic combinations that work above those relations, which are deemed either irrelevant—where the theory bottoms out—or something that psychologists ought to work out the details of. But the details themselves are not forthcoming.” (Uriagereka 2008, Syntactic Anchors: p.9)

そして、ここで補足すべきは、言語使用の中にreferenceだのtruth-conditionだのという抽象的な概念が埋めこまれているという想定はfactual observationsではない、ということ。むしろ言語哲学の慣習にしたがってそういうstipulationsを立てる人がいるというだけで、それはstipulationsである限りにおいて言語使用をする個々人がfactualなintuitionsを持てるような対象ではない。それがdenotationであれD-markerであれ、それはそういう表示の存在を想定している科学者・哲学者がどういう表示であるかを自由にstipulateできる対象であってそれ以上ではない。僕達人間はもちろん望むなら「”the dog” refers to the dog」といったり「”it snows” is true iff it snows」といったりというゲームを行えるが、それと同じゲームを認知科学が説明項として想定する心的表示そのものが行っているとさらに想定するというのはどうなのだろうか。”Reference is what people do, not what linguistic computations and representations do”というのを確かMcGilvrayがCartesian Linguisticsの3rd editionのイントロで言っていたけど、そのとおりだと思う。

さて、D-markerがdenotationでないんだったら、何なんでしょう。これは上の問い②とも関係しますが、仮定Aを想定しまたLexicon-to-SEMという一元的統語論ではなくLexicon-to-LFとLF-to-D-markerという二種類の全く異なる統語論・心的計算メカニズムを想定するということをすることの理論的根拠は何なんでしょう。たまたま今一部でそういう研究路線が流行っているという歴史的偶然はその問いに関してなんら実質的な回答を与えない。structuralist linguisticsの不備について「いや、それが流行ってるんだからそれでいいじゃん」という回答が意味をなさなかっただろうことと同様に。その理論的根拠というのは、それがあるとしたら、externalistが仮定したdenotationという想定を超え出たところにあるべきでしょう。あるなら教えてください。僕は不勉強にして知りませんので。

もし「そう研究して面白い研究成果が出てるんだから」というのであれば、それはstructuralist linguisticsが行い得たものよりもずっとまともな根拠付けでしょうね。で、もしもLexicon-to-LF, LF-to-D-markerという統語論二元論が例えばデータの記述に関して面白い洞察を載せ「やすい」フレームワークであるとしたら、それはFLの性質に関して何らかの真実をついていることになるのかもしれない。そしてさらにそういう路線がGBの頃のような統語論五元論とは質的に異なるような洞察を与えていて、それが真実を付いていると思われることがあるとしたら、その限りにおいてそれもやはり面白い問題です。

ここで個人的には、ですが、僕はGBの統語論五元論が言語記述の上で一定の成果をあげたと思われることに関して、言語研究っていうのはやっぱりフレームワークそのものが与える記述のある程度の「ゆるさ」、「自由さ」みたいなものがfruitfulな研究を量産する上でうまく働く傾向があるってことなんじゃないだろうか、と思っています。ミニマリズムが統語論一元論(的な路線)を追究することで、一部bare phrase structure (Merge)のような本質的説明に迫る重要な概念の発見を促したというのは大変喜ばしいことだと思いますが、一方で道具立てのMerge-Agreeによる一元化が一部の統語論者によってCartographyのようなかくも醜い結果を出さしめ、ことによるとこういうふうにしか統語研究は進みえないという諦めのようなものを分野の力のある若手に抱かしめるのだとしたら、それはresearch programとしては(少なくとも現時点では)不成功なものだと言わざるをえないでしょう。

ただ、そういう状況を打開すべく研究を進めようともがく統語論者・意味論者が少数ながらも何人かいるということに関しては見過ごすべきではなくて、自分もそういう人たちに力添えをしたいなと願いつつ、当面はそういう仕事の次なる成果を待ちつつ、自分は自分で粛々と自分に出来る仕事をしなければな、と思う次第です。

そんなところでしょうか。



    形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ        (2011/1/8)

前回のブログで僕が現行の「formal semantics」と呼ばれているある種の統語論について持っている疑念を簡単に紹介しましたが、それに関して早速ICUの先輩である生田敏一博士(漢字が分かんなくて試しにぐぐってみたらWikipediaのICU人物一覧の言語学の欄に載ってた!)にフォローアップをいただきましたんで、ご参考までにそちらもご本人の許可を得てこちらにアップしておきます。

ブログで形式意味論に関して成田くんが議論したいのは、形式意味論そのものについてではなく、形式意味論者の態度とかあり方についてだよね?

Strictな意味で、形式意味論は、「意味」(whatever it is)を形式的/数学的に「記述」するものであるのだとし たら、syntaxが意味あるかないかなんて、そもそも関係ないわけ。

これはまさに相対性理論で速度が質量と関係しないと同じくらい無関係だな。

だから、形式意味論その物に対する問題提起ではなく、形式意味論絶対主義に対する問題提起だよね。

それには大賛成だな。

ってか、「意味」では解決できないSyntaxの必要性なんて、Syntactic StructuresのChapter2を読めば小学生でも分かるような問題だよね。

こちらで生田さんにご指摘いただいているとおり、形式意味論と呼ばれる枠組みで行われている言語の意味の形式的記述に関して僕は何の文句もありません。downward/upward entailing environmentsだのquantifierだのfocusだのの振る舞いなど色々と面白いデータが記述されてますし、僕自身興味深いと思うこともしばしばです。

こちらのメールへの僕の返信を以下に一部抜粋して掲載します。基本的には生田さんにご指摘いただいた通りである旨を確認した上で、僕なりの「形式意味論者の態度とかあり方について」の問題提起を具体的に列挙しています(僕の方でのあきらかな文法ミスやタイポなどは気づいた範囲で直してあります)。

そうです、形式意味論者のよくある態度のあり方についての僕なりの問題提起をしているつもりです。

その問題の態度の在り方については大まかに三種類あって、まずひとつはformal semanticsが仮定しているようなFunction ApplicationだのPredicate Abstractionだののメカが真理条件なりなんなりの「denotation」とやらを計算して出してくるっていうあのメカは、結局のところsyntaxであるということを認識していないこと。もう少し正確に言うなら、formal semanticsとは、LFという表示をinputとしてとり、(narrow syntaxと全く違う手順でもってinclusivenessを破りまくって)”D(enotation)-marker”なるものをoutputとして出すというsyntaxの別個のcomponentを仮定しその理論を作るという試みというふうにしか捉えざるを得ない(それを単なる言語行動の記述ではなく心/脳の実在として主張する限り)。それなのに例えばnarrow syntaxの研究に関してまるで傍観者の立場から「ミニマリズムとかなんとか言って結局いくらでもstipulationを加えて記述用にメカを複雑にしてるだけじゃん」とか言ってきたりするんですが、同様の批判はそっくりそのままD-markerの計算機構にも当てはまるということを認識していないことが往々にしてあるんです。

この問題を複雑にしているのが、Chomskyがミニマリズムの目標を定式化するときによく使う「syntaxはCI(“thought system”)の要請に対してoptimalに応えるefficientな計算機構だ」みたいな言説なんですが、これを上に述べたような誤解をしているsemanticistsが曲解すると「じゃー俺の意味の理論はこれとこれとこれっていうinterpretive rulesを仮定しておくから、syntaxの方はそれに見合うようなphrase-markersを単に出してきてくれればいいんじゃね?」っていう謎の想定につながるんですわ。この路線ですとsyntaxとはformal semanticistsが勝手にnarrow syntaxの外にstipulateしたものどもにへへえと迎合してそいつらのために妙ちくりんな表示をかえすっていう奴隷のようなメカのように捉えられることになりますが、これは僕はやはり不当な仮説だと思います。この類のextra-syntacticなstipulationsというのは二重にたちが悪くて、まずこんなものがヒトの進化(ないし初期の言語獲得)でどうやって出くんだっていう出自の問題をまったく未解決のままに放っておくしかないということ。それにくわえて、結局「thought system」というのは言語=syntaxを使ったときの表れを通してしか研究できないですから、それをもとにして意味の問題を研究するべきsyntaxをstipulationによってsemanticsにsubserveするものと見ようというのはなんとも滑稽なものなんです。

その上さらにsemanticistsの態度として問題なのが、これが3つ目ですが、「externalismは言語のような認知機構の研究においては徹頭徹尾排除されるべきだ」というChomskyの大元の批判にはさも同意するような顔をしておきながら、その実D-markerという概念を全くexternalismのdenotationという概念と同等の価値を無反省に付与したままふんぞり返っているということに気づいていない、という点。これも自分たちがやっているのがその実syntaxの研究だっていうことを認識出来ていないところから起因することなんでしょうね。「What is denotation?」という問題設定をしているsemanticistsの少なさったらホントに異常ですよ。この点Uriagerekaの以下のコメントが非常にto the pointだと思います。

“[W]hen it comes to … `reference’-bearing elements, or more generally elements with a denotation (John, book, sing, and the like) not a single theory exists that clarifies what sort of relation takes place between such words and what they denote. This may seem too harsh a comment to make, but the truth is all familiar theories—all of them, really—presuppose the relation, in statements of the sort of `snow’ refers to snow. Indeed, contemporary semantics prides itself in being able to operate without detailed knowledge of that intentional dependency, solely on the basis of the algebraic combinations that work above those relations, which are deemed either irrelevant—where the theory bottoms out—or something that psychologists ought to work out the details of. But the details themselves are not forthcoming.” (Uriagereka 2008, Syntactic Anchors: p.9)

ま、そんなところでしょうか。こういう認識のもとにあえて意味のmodel-theoreticな記述を本分としたい(ないしその記述の上でこそみえてくるinsightがあるはずだ)という言語学者がいれば僕はその態度は尊重しますよ。それは「GBの枠組みをあえて使って統語現象の記述を続けることのほうが有意義だろう」という方法論的な決断・予測をするsyntacticiansがいてもおかしくないというのと同じことです。

「Syntactic Structuresを読めばそんなことぐらいわかるだろ」というご意見ももっともだと思います。しかしなんでしょうね、Cambridgeで学生をやっているものとして、現在どうやらformal semanticsとかいうのが流行っているらしく、その上で上に述べたような誤解の多くを目のあたりにすることがあんまり多いので、一応ああいう形で書いておこうかなと思ったっていうことなんです。

ま、その上で言えば、minimalismを標榜して書かれる昨今の統語論の論文のつまらなさは全く目に余るものがありますし、そういう意味で「統語論ツマンネー」っていう感覚を持つ人達がいることは実感として実によくわかるという気がしますわな。で、そういう時に力のある若い学生が目指すべきは、Cartographyだのなんだのいうsyntaxで提案されている恐ろしくみっともないメカをなんとか超え出ようという努力にこそ注がれるべきであり、結局Cartographyと同等の記述力をformal semanticsという形でpost-LF syntaxに焼き直そうっていうような方にいってほしくないな、と僕個人は思うのだ、ということなんです。

ところで、僕はNorbert Hornsteinの仕事の中でダントツで一番素晴らしいと思っているのは彼の1984年の Logic as Grammar という本で、これはおそらくチョムスキーを除く生成文法理論家が初めて正面きってdenotational semanticsの枠組みがその根本に抱える問題を批判した本です。彼がかつてJim McGilvrayなどの手ほどきを受けた哲学者だったというそのバックグラウンドを十二分に発揮している良著。僕の記憶している限りではHornsteinの批判は全然古くなってないし、むしろ当時のformal semanticistsが「文脈に依存しないformalなsemanticsの記述が可能なはず」と楽観していた部分はぼろぼろに崩れて現行のsemanticsがcontextual variablesいれまくりのメカに肥大している昨今ではむしろその批判の意義は増しているのではないでしょうかね。

加えて、Chomskyの本っていうとたいていそのGBだのAgreeだのphaseだのlabelingだのの技術的な詳細を追うときにばかり読まれている感じですが、彼の2000年出版の New Horizons of the Study of Language and Mind なんて本当に言語学者全員が読むべき良著ですよ。Semantic externalismに関するシリアスな批判がものすごい迫力で論じられているんですが、externalismへの批判というのはたいていはそっくりそのまま普通の意味でのdenotational semanticsにも当てはまるし、またもしdenotational semanticsはmind-internalだと捉え直す=つまりLF-to-D-markerの写像システム・syntaxとして捉え直す路線なら上に述べた問題が出てくるわけです。こういう仕事をしっかり読まんといかんぜよ、と思うこと多々。とはいえ、僕自身きちんとあの本の詳細を把握しきれているわけではないんで、これは本当に地道に勉強してかなきゃいけない。みんなで頑張りましょう。

最後に、自著で申し訳ないんですが、僕が昔UriagerekaのSyntactic Anchorsのreview (Lingua, 119 (2009) 1767–1775)で書いたのは以下の通りで、今でもこういう「先にsyntaxありきの研究態度で意味の問題に望むべきだ」という僕の研究方針は変わっておりません。

It is [an] obvious fact that syntactic forms (sometimes associated with overt sounds or signs, though not necessarily) can be used by an individual, ‘appropriately’ and ‘meaningfully’ with regard to whatever purposes s/he might use them for. Such an observation leads the participants of the above-mentioned naturalistic inquiry to more or less passively postulate the ‘thought’/C–I system as a sum of performance mechanisms that syntax can interface with. In doing so, naturalists may expect that this enterprise, when developed, can eventually clarify something about the nature of this interfacing hypothetical construct. But such an expectation is in principle secondary to the naturalistic study of the forms and workings of syntax, since syntax can anyway generate forms regardless of whether and how ‘meaningful’ they are at such interface(s). Whether the theory can eventually meet such expectation will only depend on empirical progress and prospects that the study of syntax will yield in due course.  (pp. 1769-1770)

ま、そんなところでしょうか。以上、成田でした。



    Cartographyとか形式意味論とかが流行ってる言語学の現状についての僕の私見        (2011/1/4)

言語学の先輩に質問というか問題提起のメールを受けて、ちょっと考えて返信したので一応こちらに返信した内容の抜粋をアップしておきます。

まず一点目:Cartographyのようなものが日本も含めてやたら取り沙汰される言語学の現状をどう思うか、ということをご質問いただきまして、それに対する僕の簡単な回答が以下:

さてさて、おっしゃるとおりで、なんであんなにCartographyみたいなのに惹かれてしまう連中がいるのかというのが全く分からないです。まあしかし、福井先生がおっしゃるとおりで、いわゆる機能範疇だったり素性だったりの道具立てが多ければ多いほど記述が楽になるっていうところに甘んじてああいうのを利用して論文書いちゃう無責任者共が後を絶たないからって居う部分が大きいんじゃないですかね。僕は全く評価できませんが、しかし傾向としてこういう流れがあるとしたら残念ですよね。

この辺のことについての僕の自分の意見についてはNarita(2010) “The tension between explanatory and biological adequacy”(Review of Fukui (2006))の方で提示しましたので、興味のある方はそちらもご参照ください。結局のところ、生成文法理論の勃興当初から常にシンプルな説明を追究する方向と目に見えるデータを記述したいというdescriptive pressureがせめぎ合ってきていたわけで、Cartographyなんかに逃げてノリでイタリア語のleft peripheryだったり日本語の文末助詞だったりを記述してふんぞり返っているだけでは、結局のところ説明的妥当性(explanatory adequacy)の問題も生物的妥当性(biological adequacy; ないしbeyond explanatory adequacy)の問題も全く解決できない、というかむしろそれらのより重要な問題を看過しがたい形で複雑化するだけのことです。

まあそういう当たり前のことに気づいてる人達も実は多いと思うんですけど、しかし時間の制約の中で論文を量産しなきゃいけないプレッシャーに常に追われている言語学者の皆々様方はこういう「使いやすい」「便利な」道具があるとついつい使ってしまうのが人情ですよね。壁にあいてしまった穴を埋めなければならないというとき、板から漆喰から何から買い揃えて抜本的なケアを時間と手間をかけてやるという辛抱強さが必要なところを、手元にたまたまあったペンキでとりあえずはその穴の部分を塗って隠しただけでめんどくさい仕事に取り組むのを怠る、そういう感じ。やめましょう。難しいことですが、ヒト言語の形式・出自に関する真の説明を求める態度を失ったら言語学は廃業ですよ(ま、真の説明を求めるための一番効果的なアプローチがCartographyだとホントの本気で信じこんでしまっている人がいるのかどうかは僕は不勉強にして知りませんが、どうなんでしょうね)。

この「目先の使いやすい(しかし説明力の薄い)小手先術」をつかうという態度についてなんですが、これはCartographyにかぎらずかなり言語学全般を通して陥りやすい罠で、例えばuninterpretable featuresをだらだらstipulateしまくってふんぞり返ってるタイプの仕事も同じようなことがいえます。それから以下に述べる形式意味論もおんなじ問題を抱えています。

というわけでその先輩からの第二の質問:(成田くんはあまりsemanticsを信用していなかったはずだけど)、意味論上の問題にミニマリズムと同じ種類の疑問をぶつけること(具体的には獲得の問題を考えることとか、意味計算がどれだけ他の物理法則や生物法則に従っていて,より一般性の高い原理から導かれるのかということを問う試み)をどう思うか、という問題提起を頂きました。それに対する僕の回答:

僕は当然そういう疑問があるべきで、その疑問をしっかり持って取り組もうとする以上は絶対にやすやすとはやりのtruth-conditional denotational (externalistic) type-theoretic Fregean semanticsだのなんだのに与するわけにはいかないと(あくまで僕個人は)思ってます。ChomskyがGenerative Enterprise Revisitedのインタビューなんかでも指摘していますが、記述意味論の現状はまるで音韻論のようで、考えうるありとあらゆる計算制約を破っています(inclusiveness, minimality, non-tampering, etc.)。一方で形式意味論で仮定されているモジュールというのは結局のところsymbol-manipulationのシステムであり、故に広い意味でのsyntaxですから(McGilvray 1998の用語を使うなら”broad syntax”)、もし仮にあれをFLの内容として仮定し、つまりpost-LF syntaxとして定式化するとしたら(そうしなきゃいけないという強い根拠は示されていない;(formally approachable) semanticsと(unexplainable) pragmaticsの区別というのはアプリオリな仮定として慣習として持ち込まれているだけでその区別を経験的に正当化するデータは上がっていない)、なぜ「そのsyntax」がnarrow syntaxとかくも異なるimperfectionを示さなきゃいけないのかというのが経験的な問題になります。そこ Minimalismと同様の疑問をぶつけるなら、まずは絶対に疑い得ないもの(“virtual conceptual necessity”)から話を始めてみたり、ないし計算効率原理などのthird factorの効果を探すところから始めたりという取り組むべき課題が自ずと見えてきますし、それゆえにこそFregean semanticsとuse-theoretic pragmaticsの区別をstipulateするところから始めたりexternalistの概念である真理条件なんかを意味の議論に持ち込むところから始めたりというステップは取るべきでないと(個人的には)思いますね。

ま、もちろん意味論をやる上でminimalist programに従った研究方策のみが正当だ、なんていうような乱暴な議論はできませんし、もし記述意味論が記述の部分でなんかの成果をあげるっていうのであればそれはデータとして意味のあることとは思います。それはGBのころにECPとかgovernmentだとかの「古い概念」でもって記述されたデータがデータとして未だ興味深いのと同じで、いずれ同じようにtruth-conditionだのFregean senseだのtype-theoryだのFunction-applicationだのの「古い概念」が乗り越えられるべきなんだろうと僕は思っています。Cartographyとも同様ですね。

そしてそんな現状で意味の問題にどう取り組むべきかということを考えた場合には、僕としては(discrete infinityなどの基本的な事実から存在が確実な)narrow syntaxの方をむしろ第一義の説明項として意味の問題に取り組もうというUriagereka-Hinzenの研究プログラムに共感するところが大きいですね。ま、これはあくまで僕の決断なので、他の人がそうしなきゃいけないとは言わないですが。

ま、形式意味論に取り組む方々が往々にしてsyntaxの説明力を疑問視するということが続いていて久しいですが、おそらくその手の反感はcartographyとかuninterpretable featuresをふりつづけるとかそういう無責任な仕事をする連中の仕事を「つまらない」「説明的でない」と思うという至極当然の認識からきているというパターンが多い。それらの仕事に対して正しく低評価をできる人達にむしろ僕は強い共感を覚えますが、しかしそういう仕事をまるでsyntaxの代表のように取ってしまい、その上で「syntaxなんて結局古く説明力のない分野に成り下がった」という結論へジャンプする人たちがいたらそれは大間違いだと思いますね。

ChomskyがLSLTをもって生成文法理論を立ち上げた当初から、syntaxというのは言語学の中心的な分野で在り続けてきましたし、そしてその当初から「いかに言語学は「意味」(=自由意志による言語使用)なんて掴みどころのない物に言及しない形で文法理論を作ることができるか」という問題設定のもとにsyntaxの研究が進んできました。そして言語学の主要なachievementsはその多くがsyntaxに関するものです。それはある意味で当然のことで、他のヒト以外の生物のコミュニケーションシステムとヒト言語を区別する最も根本的な特徴はその生成力の離散無限性(discrete infinity)にありますが、それをとらえようとする限りにおいてヒトの認知能力に特有の生得的でかつ回帰的な(recursiveな)計算システムを仮定せざるを得ず、それがつまりsyntaxです。(そこで起こる計算手順のおそらく最もシンプルな定式化は併合(Merge)という操作によって与えられるものと思われ、それゆえ我々はbare phrase structureを追究するのですが、まあその辺は今回は置いておいて。)言語学をbiologyとして捉え、それに取り組もうとする限り、その研究の主対象はこのヒトに生得的な計算能力の研究となるでしょう。それは徹頭徹尾syntaxです。

上のメールの返信部分にも書きましたが、現行の”formal semantics”と呼ばれる分野は結局のところそれはsyntaxの一分野にしか過ぎないわけです。その上で疑問をもつべくは、どうしてこの部分のsyntaxがいわゆるnarrow syntaxと比べてかくも異なる様相のあり方を呈しなければならないのかという問題です。この問題に取り組む限りは、願わくばnarrow syntaxの研究が進んだやり方と同じようにこのbroad syntaxの研究も真の説明を求めていくべきであり、その上ではやはりminimalismのような研究方策をとることが一番正当だと思うんですよね。そしてその場合stipulationsから研究を始めるという形式意味論の文献内でintensifyされてしまった態度に関しては徹底的な反省の余地があると思います。真の説明を求めてnarrow syntaxの研究がGB理論の不備を徹底的に反省していき、結果としてGB理論を解体していったのと同様に、我々はいずれ現行の形式意味論の文献に散在するあらゆる無反省なstipulationsの数々を徹底的に吟味するという作業が必要です。

ところで上のメール部分でHinzen-Uriagerekaの路線に言及したのですが、こういう時に不便なのが、HinzenやUriagereka自身がnarrow syntaxに持っている考え方自体がかなりかたよっている(し多くの部分で間違っていると僕は思う)ということでして、彼らの打ち出している研究方策には非常に共感すれど彼らが出しているnarrow syntaxの理論には決して魅力を感じないというか、そういうところが難しいんですよね。僕は一時期はかなりPaul Pietroskiの仕事の方にむしろHinzen-Uriagerekaプログラムを進める上での魅力を感じていたのですが、まあPaulはPaulでね(笑)。ま、この研究方策について簡単に知りたい人は僕のUriagereka(2008)のReviewか”The naturalist program for neo-Cartesian biolinguistics”あたりでも読んでください。その先のことは僕らで頑張りましょう。

といった感じでした。



    徒然なるままにツイッター        (2010/12/13)

今日のツイッターの書き込みはまあ保存しておいてもいいかと思ったので別途ブログに書き残しておく。雑文もいいとこだが、まあこういうあっちこっちに思考が飛ぶのを自由に許すのもツイッターのいいところだということでご了承。

Wikileaksは「「組織が金をかけてまで情報を隠そうとしているというのは、その情報を世に出せば社会的利益がある」という信念に基づいている」/「無関心との戦い」/日本への飛び火もそろそろか、などなど。いい記事です: http://ow.ly/3o17W

チョムスキー「アメリカ合衆国は宇宙の軍事基地化を計画していて、それは極めて危険なことです」。宇宙開発のアメリカ独占の裏に潜む危険についての彼の率直な意見。なるほど…。 雑木帖「ノーム・チョムスキー」: http://ow.ly/3o1uM

MITの友達の何人かは本気でNASAで働きたいという夢に向かって全力疾走していて、僕はいち友人として素朴に彼らを尊敬し応援するのですが、彼らの宇宙へのロマンなども軍事目的や経済利益で国家に利用される恐れと常に背中合わせなんだな、ということに凹んだ。みんな知ってることなのかねえ。

チョムスキーのアナーキズムは国家の暴力性と不正に関する彼の根気強い警鐘に裏打ちされていると言えるだろうが、ウィキリークスによる一連の暴露を目の当たりにするにつけ、いよいよ彼の勇気ある活動の意義が明らかになってきたのではないだろうか、と思っている。

これもその関連でそう思うし。RT @kenichiromogi: 今年の最重要ニュースは、間違いなくウィキリークスだと思う。国家とは何か、情報とは何か、報道とは何か、根源的な問いかけをする画期的な出来事。そして、変化はもう逆戻りできない。

日本はそれほど豊かでも安全でもない社会に移行しつつある…「[そんな社会]でも生き延びられるように自分なりの備えをしておく方が合理的だろう…私自身はそのための「備え」をだいぶ前から始めている。血縁地縁ベースの相互扶助共同体の構築である」内田樹 http://ow.ly/3o2og

「国」ってなんでしょね。 茂木健一郎がちょっと前のブログで「一人ひとりの人間は、弱々しく、欠点だらけで、だからこそ愛すべき存在なのに、なぜ「国」になったとたんにモンスターになるのか」と問うていたのが目についたが、実際実に正しい問いだと思う。

うーむ、孤独。寂しい。と、思う。

ところで爆笑問題のカーボーイで「太田はこれを読んだ」というPodcastが流れた時があったが、そこで宮沢賢治の銀河鉄道の夜を太田が紹介していて、誰かが主人公にこういうシーンがあるのですって。「別の神様を信じている人をだって愛せるだろ。その人がいうことにも感動できるだろお前」と。

僕はあまり小説を読まないので知りませんでしたが、いやあ本当にいいセリフ。海外で生活して人種や宗教や価値観の違う人たちと話す日常を過ごす上でかなり励みになったし、というかついつい勝手に「同族意識」のフィルターを通して見がちな日本人への接し方だってだいぶ考えなおさせられた。

どこの国の人だとか、どの政党、宗教や学説にコミットしてるかとか、どういう連中と利害関係を持ってるかとか、そういうことは常に気になっちゃうけど、ある程度そういう事とは別のこととして、単純に自分の前で人が笑ったり楽しく喋ったりしているっていうローカルなことを大切にしたいよね。

という、徒然なるままのツイート。いやーTwitterってこういう書き物の敷居が低くて助かる。



    とある理論言語学大学院生のEvernote活用法(2010年8月現在)        (2010/8/19)

@rashita2 さんのブログ『R-style』で今朝「Evernote企画4th:第0回:「あなたのEvernote術教えて下さい!」企画」というエントリを目にしました。8月16日 ~ 8月22日 23:59:59というエントリー期間を設け、R-style読者から寄せられたEvernote活用術を共有することで情報交換の場としてくださるそうで、どんなアッと驚く使い方が寄せられてくるのか今から楽しみです。

思えばひょんなことから@goryugo さんのブログ『goryugo, addicted to Evernote』を拝読する機会に恵まれ、Evernoteに興味を持ち使い始めたのが今年の6月1日、以来主にこのお二方のブログやそこで紹介されている人々のEvernote活用法を聞きかじり見かじりしつつ自分なりに試行錯誤を重ねてきました。僕は2ヶ月強ということで全然使い始めてからの日が浅いんですけど、とはいえ上記ブログなどの力を借りてかなり好スタートを切れたつもりでいます。また、学生言語学者である僕は基本的に人と会っている以外の時間では一日中パソコンに向かいっぱなしで研究しているので、朝起きてから夜寝るまで常にEvernoteとともに生活をしていますから、短いながらも濃いお付き合いを通してそれなりにEvernote活用に関して自分なりの工夫もできてきたところでした。

さて、@rashita2 さんの仰る通りで、「自分が当たり前だと思っているやり方は案外他の人からみると意外な使い方だったりする」ということがEvernoteではよくあると思います。このことを僕は自分の過去の経験から知っていましたので、先達への恩返し、というわけではありませんが、前々から一度ブログを通して自分のEvernote使用法を公開し、他の皆々様(別に言語学研究者に限らず)に参考にしていただきたいと思っていました。今回@rashita2 さんブログからまさに渡りに船の企画をいただいたので、これを機会に一度現時点での僕のEvernote活用法をいくつかのポイントに分けて紹介したいと思います。書いてみたらかなりガッツリ長くなってしまったんですが、まあ部分部分でご参考になれば幸いです。

(「Evernoteってどういうソフト?」という疑問を持たれた方は、上記の『R-style』や『goryugo, addicted to Evernote』などのブログの初期のEvernoteエントリをたどるなどしてみてください。お手軽に使えてすごく便利なソフトですよ。ビジネスマンのみならず大学院生にもすごくおすすめなソフトです。以下は基本的なEvernoteの操作方法を理解されている方を対象に書きます。)

1: Evernoteを英単語や専門用語の単語帳として活用する

まずは僕のEvernoteの一番上5個のノートブックを紹介。以下のようになってます。

初めに、すでに他の方のブログなどでも盛んに紹介されていることなのですが一応確認を。Evernoteは基本的にノートブックを名前順に並べてしまうので、自分の好みのノートブック順を実現するためにはノートブックそれぞれの名前の先頭に数字をふるなどの工夫を施す必要があります。以下僕のノートブックそれぞれが「03.」などの数字をふられているのはこのためです。

まず「00.Inbox」は言わずもがなですが、Evernoteでクリップを取り込むデフォルトの保存先としてのみ機能しています。これも先達のお知恵を拝借した結果です。

さて、ここからまず一点目なんですが、僕はEvernoteを自分なりの「単語帳」として活用することを最近始めました。僕はアメリカに留学している大学院生として生活している以上、基本的に毎日授業に出たり先生や同僚とかとメールのやり取りをしたり論文を読み漁ったりして知識の増大を目指すわけですが、そうするといつだって知らないことがいっぱい出てくるんですね。まず英単語。論文特有の難しい言い回しに始まり、言語学や哲学など調べてる分野の専門用語およびその分野ごとの特異な意味・含意も知らなければいけないですし、またしゃべる準備をするためにはアクセントや発音のことも気にしなければいけない。またそりゃいっぱしの成人としてそれなり新聞やニュースも読みますし、言語学以外のことも時間をとって勉強しますが、そうするともう次から次へといろんなカテゴリーのいろんな用語が入力として頭に入ってきます。全部を一つ一つ覚えようと思ってもそうそうできるもんではありません。きっと半分以上次の日には忘れてたりするんでしょう。

さて、記憶補助装置としてのEvernoteの便利さの一つに、およそウェブ上のものなら、ないしクリップボードに取り込めるものなら、なんでもノートとして切り貼りしてスクラップ保存できるというのがありますよね。僕が上のように雑多な調べ物をする際には論文PDFのみならずオンライン辞書やWikipediaやGoogleやニュースヘッドラインや個々のブログ記事など、あらゆるソースにアクセスするわけなんですけど、用語を調べるたびにとりあえずそれぞれのソースをちゃちゃっとEvernoteに取り込んで保存しておく。僕の場合保存先はこの「01.単語帳」です。とりあえず今日の僕の「01.単語帳」ノートブックを開くと以下のようになりました。

表示されているノート例は”extricate”という単語をMac付属の英和辞書で引いた情報をそのままコピペしたものです。この他、例えばIvy League8校がちゃんと覚えきれてない、と思ったらそのWikipediaの項目を取り込み、また株のことを調べてたときにふとぐぐって見つけた「PER(株価収益率)」に関するどこぞのブログのわかりやすい説明を取り込み、また親族構造に関する系統的な知識をかなり正確に記憶できるらしい猿baboon(=ヒヒ)のことを認知科学の機関誌で読めばその該当箇所のテキストをコピペしてかつGoogle imageでbaboonの画像を取り込み、などなどをしておきます。各ノートのタイトルにはその用語のみを記しておきますと、後で見返すときにこれがそのまままるで単語帳のように使えます。要するにこのノートブックを開いたら各ノートの見出しタイトルを見て、「どういう意味だったかな」とか「どういう関連で調べたんだっけかな」ということを思い出すよう試みる。そしてノートを開いて答え合わせをする、という要領です。

ちなみに上の画像の二個目のノート「’     reconcile」ですが、これは前々から知ってたつもりだった”reconcile”(和解させる)の特にアクセント位置の把握をあやふやなままにしていたことに気づいたというときに、特にアクセント位置を確認する単語帳エントリーにするために置いたものです(アクセント関係の確認ノートも結構あります)。

何度か繰り返し確認するうちに「あ、この用語・単語はだいたい頭に入ったな」と思ったら、そのノートを「02.単語帳(覚えたかな?)」に移します。そしてまたしばらく後にこの「覚えたかな」リストも見返してみて、「もう大丈夫だろう」と記憶に自信が出てきた用語・単語に関してはもう「03.単語帳(覚えた!)」に移す、と。これは紙の単語帳で言えばそのページを破り捨てるのに当たるわけですな。とはいえまあ人間の記憶なんてあやふやなものですから、自信を持って「記憶完了」の太鼓判を押したものでも1ヶ月後・一年後には忘れてるかもしれません。だから02や03に入ってるノートも必要によってはやっぱりまた01.の現役の単語帳として再利用することもある、という感じでしょうか。また、時間がなくて・ないしオフライン作業中につき調べるのをとりあえず後回しにしたいものに関しては「05.知らない/いずれ調査」に一時保管しておく、というユルさも残しておくといいと思います。

ところで単語帳用途のEvernoteに関して一つ注意点が。Evernoteはノートブックを開くたびにその一番上のノートを自動的に開いてしまいます。僕はデフォルトの表示を「作成日時順」にしているので、この場合一番新しいノートが常にノートブックを開くたびに自動的に表示されてしまい、結果意図せずして答えを“カンニング”する形になっちゃうわけですね。まあそんな細かいことをあまり気にする必要もないのかもしれませんが、僕は「_______」というブランクのノートを常にこのノートブックの先頭に置くようにしています。Evernoteは各ノートの作成日時や更新日時も後々修正できるんですけど、この「_______」の作成日時を3010年辺りに設定しておけばとりあえずどんな新しいノートにも追い越されることはありません(笑)。

ちなみにこの作成日時修正による順番管理は色々なところで活躍します(たしか@goryugoさんのブログで読み知った方法だったかと思います)。この単語帳に限って言えば、何度も間違える用語・単語のノートは作成日時をいじって常にノートブックの上位に表示するようにしておく、などの用途が考えられます。というか僕はそうしてます。

このご時世ですから、英単語帳やビジネス用語確認なんてのはiPhoneの辞書アプリの付録機能だったりでこんなマニュアルなやり方よりも効率のいいやり方があるのかもしれません。しかし言語学の専門用語や和製英語や日常会話やスラングなど、ありとあらゆる英語や日本語のレジスターを一緒くたにサポートできる辞書なんていうのは端からありえないし、だからこそEvernoteの可塑性が活きてくると僕は思います。

こういう利用法でEvernoteから恩恵を受けるにつけ、もし例えば10年前、自分が大学受験をしているときとかにすでにEvernoteがあったらだいぶ勉強の効率が上がっただろうにと、思ってしまいます。「1931」→「満州事変」みたい歴史などの暗記物にも応用できるし、数学の公式を登録することもできた。便利そう! まあでもその頃は今よりずっとパソコンに向かう時間も少なかったわけですから、なんともいえないかもしれませんが。

ともあれ、人間一生学び続けるわけですし、その一助としてEvernoteを使ってみてはいかがでしょうか。

以上が僕の単語帳としてのEvernote利用法の説明になります。

2: 長期・短期・当日タスクリスト兼日記としてEvernoteを利用する

2なんつって仰々しく書きましたが、これはもう先達の皆々様がやっていらっしゃることとあまり代わり映えはしないと思います。大体タイトル見て内容はお分かりになるでしょう。3以降で言語学者としてのEvernoteの僕なりの用途についてご説明しますので、必要ない方はどうぞこの「2」は読み飛ばしてください。

僕の10番代のノートブック(の一部)は以下の通りです。

「12.近々やりたい」と「13.いつかやるかも」がいつも「あ、これをやりたいな」という思いつきを徒然なるままに書き留めておくノートブックです。優先順位や緊急度などでどちらに書き留めるかをその都度判断します。これで短期、長期のTo Do リストの完成ですな。その上で僕は「12.近々やりたい」を夜な夜な眺めながら、だいたい就寝前くらいに、翌日に成し遂げたいこと、「博論の2節の3パラグラフ目を書き足す」とか「Bittner and Hale 1996を半分読む」とか「☓☓大学准教授職への応募書類の3節を書く」とか「買い物する」とかいう実現可能な範囲で細かく区切った仕事リストを「10.今日やる!」に書き込んでおきます(場合によっては10−11時でこれをやる、と時間指定もする)。

当日はその「今日やる!」リストの仕事をなるべく組んだ予定通りにこなしていきます。仕事が終わるたびに「14.やった」ノートブックに完成したタスクのノートを移していきます。晴れて「今日やる!」ノートブックのノート数が0になったら今日のお仕事修了、ご苦労様、というわけです。「やった」ノートブックはこういうわけでどんどんノートの数が増えていきますけど、ここに表示される数字が大きくなると自分が(一つ一つは細かろうが)なんかいっぱい仕事してきたんだなあというのを数字の大きさで見れて「ムフフ」となります(笑)。

僕はちなみに「今日やる!」リストを作るときに既に”100817=”とか”100816.10-11=”というような自分なりの年月日の接頭辞を各ノートに付しておくようにしています。こうしておけば終了したタスクを「やった」ノートブックに移していくだけでその「やった」ノートブックが後で読み返せる簡便な日記にもなり一石二鳥。基本的に僕はこのタスクリスト用途では各ノートはタイトルしか書き込みませんが、とくに日記としての利用を充実させたければ、各ノート毎に必要なときにコメントを残しておけばいいでしょうね。

3: (言語学)研究活動の補助としてEvernoteを活用する

いよいよ僕が実際の研究活動のお供としてEvernoteを使っている場面について説明させていただきます。以下僕の20番代、本業の言語学関係のノートブック一覧です。

とりあえずノートブックごとの説明を。25番のついたノートブックの活用が結構肝なんで、とりあえずそれ以外のノートブックの説明から:

  • 「20.Diss To Do」は上記「12.近々やりたい」の言語学バージョンというか、とくに博士論文執筆に特化したタスクリストです。
  • 「20.問い」は研究を進めていく上で思いついた疑問点、研究課題等を書き留めていくノートブックです。日進月歩の生成文法理論ですが、そこではいつなんどきどういう部分にアイディアが出てくるか分かりません。自分が疑問に思ったことをメモの形で書き留めておくだけでも思わぬところで複数の問題間に連関を見出したりとかいうことが起こると思います。
  • 「21.分からない」は上記「05.知らない/いずれ調査」の言語学バージョンですな。
  • 「22.仮説」は先行研究で提案された仮説をメモしておくノートブック。PDFで論文を読んでいるときに分析や仮説を出てきたらとりあえずここにコピペしておく。
  • 「23.データ・経験則」は言語学上有意義なデータや経験則・一般化の類をとりあえず書き留めておくところです。下で多少詳しく説明しますが、例えば日本語では「誰が(太郎に)書いた手紙が見つかりましたか?」という疑問文には「田中さんが(太郎に)書いた手紙です」と答えてもいいし既知部分を省略して「田中さんです」と短く答えてもいいんですが、「誰が誰に書いた手紙が見つかりましたか?」という質問をされた場合「田中さんが中曽根さんに書いた手紙です」と全文回答は出来るんですが省略回答「*田中さんが中曽根さんにです」は出来ない、というデータをNishigauchi (1986)を読んでて見つけたら ((80), p.53)、とりあえずそれをコピペし、出典も含めてノートを作っておく、といったふうに(ちなみにこの西河内の経験則もなんかちょっと考えれば反例見つかりそうですけどね。だからそういう疑問点もノート内にメモしておく)。
  • 「29.言語学メモ」はまあ「その他」みたいな使い方ですな。上記カテゴリーに収まらないような言語学や認知科学関係のウェブ記事、LinguistListの学会情報などを取り込んでおきます。

さて、以上の基礎的ノートブックを踏まえた上で、以下僕なりの研究上のEvernote活用法です。

3.1: 現在進行中のプロジェクトごとにサブノートブックを作成、データやメモを管理する。

上に箇条書きにあげたノートブックは僕が言語学の研究を続けている限り存続し増えていくものですが、僕はこれに加えて目下取り組んでいる研究プロジェクトごとにサブのノートブックを作っています。それが25番台ですね。まあ企業秘密なんであまり中身は見せられませんが、今はadjunction(付加)の問題、coordination(等位接続、andとかorの問題ですね)、名詞句構造(nP, KP)の問題、WH疑問文の問題などにとりくんでいますんでそれぞれノートブックを用意しています(ハイフンなどで字下げをすることでノートブックに視覚的な階層性を持たせるというのもどなたかのブログで拝見した方法です)。そしてプロジェクトごとに上の「データ・経験則」や「仮説」などに蓄積しておいたデータのうち関連あるものをピックアップしてこちらのノートブックに割り振ります(というか実際これらの関心をもって論文とかを読み進めるわけですから、最初にノート作る時点で上記基盤カテゴリーを経由せずこれらのサブノートブックに直接割り振ることも多い)。そして自分のアイディアなんかもこのプロジェクトごとにどんどんメモの形で書き留めておく。するとノートブックワンクリックでプロジェクトそれぞれの進み具合が自分で概観できていい感じです。

僕は日が浅いのでそういう嬉しい事態には到達していないんですが、プロジェクトが完成したらもう独立のサブノートブックでノートを管理する必要がなくなるので、そうなったら晴れて中身をもとの20.-23.のノートブックに戻してやって(まあ戻す前に「WH-Q, finished」くらいのタグでも振ってやった後で)、ポチっとサブノートブックを削除するつもりです。そういうことが出来る日がくるのが楽しみです(笑)。そうしてまた新しいプロジェクトが出てきたらまたそのための新しいサブノートブックにノートを移していけばいいわけですからね。

ここで提案しているのは固定的な基盤ノートブックと比較的短期のプロジェクトごとのサブノートブックの二段構えの管理です。まあこんな「プロジェクトごとにサブノートブックを作る」というアイディアは当然先達の多くの方々が論じかつ実践されていることなので、大して新しいこともありませんね。しかしこのサブノートブックごとの整理に関してもっと言いたいことがあります。

3.2: △や◯などの大きめの見やすい記号文字をノートの接頭辞にしてノートを簡便にカテゴライズする。

「データ・経験則」や「仮説」などからプロジェクトごとに関連するノートをサブノートブックに移し替える、といいましたが、当然の帰結としてブック内にはそれら「データ」や「仮説」や「自分のアイディア」や「メモ」などの本来別物のカテゴリーに属するノートが乱立する状態になります。これは見やすくない。そこで僕が提案したいのが、△や◯などの大きめの見やすい記号文字をノートの接頭辞にしておく、という方法です。論より証拠、例えば僕のWH-Q(WH疑問文)のサブノートブック内の一部をご紹介すると:

という感じ。接頭辞なしのものは「データ・経験則」のカテゴリーに属するもので、例えば図の下から二番目に上で紹介した西河内のデータがありますな。で、他にある「△」の接頭辞が付いているのが僕が「仮説」のカテゴリーから引っ張ってきたノートです。この「△」のようにぱっと見て分かるような記号文字を一個ふるだけで、ざっとノート全体を見渡したときの見つけやすさが全然違ってくるんです。

この「△」の他にも、僕は自分のアイディアには「◯」を、そしてその中でも特に重要と思われるアイディアには「◎」を付けておく、などなど、結構いろんな記号接頭辞を駆使してデータ整理を図ってます。実際のアイディアは企業秘密なんで見せられないんですが、それにしてもこれらが付いているだけでかなり参照しやすくなりますよ。皆様も試してみてはいかがでしょう。

以下、僕がノート整理の上で使っている接頭辞一覧です:

  • 先行研究で提案された仮説につけるもの。接頭記号を微妙に変えて自分なりの三段階評価も実装しています。
    • 「△」:僕が割と肯定的に評価している仮説(場合によっては自分の分析で拝借するかもしれない仮説)。今はまだやってませんけど、特に実際に論文で拝借した仮説については「♤」や「▲」あたりの似て非なる記号で差異化を図るというようなことをいずれするかもしれません。
    • 「▽」:僕があまり気に入らない、疑わしいと思っている提案。メモってはおくけど自分の分析では使いたくないし、また機会があれば批判したいと思っている仮説。
    • 「▼」:僕が「こんなの絶対間違ってる」とかなり強い確信をいだいている仮説。それがあるせいで言語学が10年遅れてしまっているKayne1994のくそっくらえLinear Correspondence Axiom (LCA)なんかはもろこれですな。「▽」や「▼」のものに関してはそれぞれに批判するポイントをメモしておくと参照の便がいいですね。
  • 自分のアイディアメモにつけるもの:
    • 「◯」:自分のアイディアメモ。
    • 「◎」:自分のアイディアメモの中で特に重要なもの
    • 「①」、「②」、…など:同じノートブック内のアイディアメモのうち特に関連付けておさえておきたいメモに数字入りの◯をつかっておく。
    • 「※」:ボツにしたアイディア。
  • 「データ・経験則」につけるもの:
    • 無標:普通に先行研究から抜粋・コピペしたデータ・経験則
    • 「☆」:自分で発見したデータや観察。言語学では(というか言語学を含んだ自然科学研究一般では)先行研究で論じられていないデータや経験則・一般化を新しく報告するのも重要な仕事です。オリジナルのデータはそれ自身として価値がある。ということで特に自分発信の未発表のデータは差異化を図りましょう。発表したデータは「★」あたりに書き換えてもいいかもしれませんね。
  • 「問い」につけるもの:
    • 「♧」:プロジェクトに関連する問いに。
    • 「♣」:「♧」のうち特に重要なものに。
@goryugoさんがご自身の最近のブログで、自分自身が書いたメモとAmazon請求書スクラップなどを同列に同じノートブックに入れておくなんて「オレ様のナマの思い」ノートに失礼だ!というような趣旨のことをおっしゃっており、自分のメモと他所からの借り物や自動転送のノートを別々のノートブックで管理するという提案をされていました。僕は基本的にこれと同じ問題に直面していたわけなんですが、僕のプロジェクトごとのサブノートブック管理ではそういうわけにも行かない部分があり、結果編み出した方法が僕はこの接頭記号による管理でした。

3.3: 作成日時修正を駆使してノート間に優先順位をつける。

上の2:でも述べたとおりなんですが、作成日時順にノートを表示するよう設定した上で作成日時を修正することを通してノートの表示順を自分の好みの順番で固定することができます。例えば僕はなにはともあれ自分のアイディアをふくらませていくことが目下一番重要なので、ノートブックを開くとまず最初に「◯」とか「◎」のついたアイディアの一覧を先頭に表示するようにしています。例えば作成日時を「◯」は今より2年プラスの2012年にし、また「◎」は5年先の2017年にする、というように自分の中で一定のルールを作っておけば、それだけで

…(アイディアは企業秘密なんで割愛)

    

のような形で好みの表示に整理できます。

3.4: LaTeXのスクリプトもEvernoteで一括管理

僕は論文作成にLaTeXと呼ばれる組版エディタを愛用しています。LaTeXがMicrosoft Wordなどの糞ワープロソフトなんかに比べて如何に使い勝手がいいかという話はもういろんなところで議論され尽くされて久しいのでここでの説明は省きますが(文系のマカーにも使えるLaTeXなど参照。特に言語学者むけのパッケージ紹介などはThe LaTeX for linguistsなど参照)、さて、LaTeXでモノを書く以上はテキストはPDFなどからコピペするだけでは済まず、自分なりにTeXスクリプトの形で書き下ろす必要が出てきます。そこで提案したいのがTeXスクリプトとその出力のEvernoteによる一元管理です。例えば下の図の「(22)」以下樹形図が(a)-(c)と続きますが、これらは「—————」以下に示されているTeXスクリプト(もうあと20行くらい続く)で実現されます。このように完成形の画像をコピペした下にスクリプトをコピペしておけば、後々スクリプトを呼び出す際に非常に便利ですよ。

樹形図のみならず、「データ・経験則」の例文とかもLaTeXスクリプトを対応付けて保存しています。例えば僕の最近書いた論文“Phase cycles in service of projection-free syntax” (2010)から一個例文を紹介しますが、

のように、linguexパッケージやgb4eパッケージを使ったスクリプトもやはり書き次第コピペでちゃちゃっとEvernoteに取り込んでおいちゃう。それだけで後々かなり再掲が楽になります。樹形図や英語以外のデータ例文のTeXスクリプト作成はかなり骨の折れる作業なので、一度スクリプト書いたものは後々はなるべくコピペで済ませたいというのが人情。どうぞEvernoteで楽々管理をしてってください。

おわりに:考察・まとめ

以上、博士論文執筆中のいちアメリカ大学院生のEvernote術をまとめてみました。こうしてみると@rashita2さんや@goryugoさんのようなビジネスマンの用途とはだいぶ毛色が異なっているなと感じましたが、かといってEvernoteがサラリーマンのみのためのツールであるはずもないですし、また仕事が違っても応用できるアイディアもあるかもしれないので、参考になるかどうかは分からないんですがとりあえずエントリーしてみました。目に触れた方々のご参考になれば幸いです。

こうまとめてて気づいたことのひとつに、僕はなんだかノートブックの数がかなり多い、ということ。先達の皆々様が薦めていらっしゃるのはせいぜい10個とかそういう数なんですが、僕は上で言語学についてやったようなノートブック管理に加え、「ブログネタ調査中」や「社会・経済」、「科学哲学」、「文学」などのカテゴリーにもそれ用のノートブックを作って管理しているので、全部でノートブックは20個以上ありますね。まあ多いのかもしれないんですけど、しかし前回のEvernoteのバージョンアップでノートを取り込むたびにプルダウンメニューでノートブックを選択できるようになったのがかなり便利で、おかげさまで数が多くてもあまり煩雑な思いをしたことはありません。

それから僕はどうもタグを使うのが苦手で。@goryugoさんもたしかタグ付けめんどくさいということをブログでおっしゃっていたと思いますがホントそうで、ノートごとにいちいちちまちまとテキストを打ち込んでいく作業はかなりめんどくさいです。加えて、これはMacユーザー特有の事情でしょうが、少なくともOS X ver.10.5.8上で動かしている限りではタグ付けをするときのSpacesが一つに限られてしまうようで、例えばSpace 1でタグ付けしたあとでSpace 4で取り込んだ別のノートに新たにタグ付けを施そうとするとSpace 1に強制的に移動させられてしまいます。これが「イラッ!」とくるんですよねー。もしかしてSnow LeopardではもうこのへんのSpaces/Exposeの問題は解決しているのか? まあそれはともかく、Spaces横断してノート取り込みしまくる用途でEvernote使っているとどうもタグ付けはメンド臭くて、今はなるべくノートブックごとの管理だけで済ませています。しつこいようですがノートブック選択はノートごとのプルダウンメニューで楽々設定・変更可能で楽なんですよ。次のバージョンアップでタグ付けもプルダウンメニューつけるとかでもっと簡素化されないかなあと願ってやみません。

まあEvernoteの用途に正解はないというのはみなさんおっしゃっていることですし僕もそう思いますが、しかし僕個人の用途の利便性という観点で照らし合わせてみてもやはりところどころまだまだ改良の余地があるでしょう。この辺はぜひ『R-style』の「Evernote企画4th:第0回:「あなたのEvernote術教えて下さい!」企画」に投稿された皆々様の用途を参考にして詰めていきたいと思います。

それでは、読んでいただきましてありがとうございました。



 もう母を亡くして七年です。4年前くらいの文章ですが、最近法事づいており思い出す機会があるもので昔のブログより再掲:


   *   *   *   *   *   *   *


 さて、久々に気が向いたので余談の始まりです。


 僕は死を想って生きたいと想うのです。自殺願望とかじゃないですよ、念のため(皆様のお蔭でまったく楽しい人生ですから自殺したいなんて一度足りとて思ったことはないはずですよ)。そういうことではなく、自分の生が有限であること、その先にいつか訪れる死のことをもっとしっかり意識的に積極的に考えながら生きたいと思います。そういう大事なことを最近ちょっと忘れ気味でしたが、『ブラックジャックによろしく』のがん編読んで大分触発されました。だってあの話あんまりに僕の体験とかぶる部分が大きいのですもの。いろいろ思い出します。


 私は大学三年のときに若くして母を亡くしましたが、その経験が僕のそういう考えを強く裏打ちしていると思います。


 いちいちブログなんぞでぐちぐちそのころのことを振り返るつもりはありませんから、僕や父の苦労とかのことは抜きにして一言で言ってしまえば、僕の母の死に方、悪くないと思うんです。がんは苦しい病気だが、交通事故とかの突発死と違って、患者がしっかり自分が病気であることを理解し、自分の死や残される家族と向き合う時間を十分に与えてくれる、そういう死に方です。


 母はがんになってから家族と食いたいもの色々食べた。僕に料理のごく初歩の手ほどきをした。父は洗濯とアイロンがけとごみの回収日を覚えた。父と二人で旅行も行った。僕と言語学の期末試験に打ち込んで三日連続徹夜でガストにこもった話とか、グリークラブでパーマスがどうのとか、それはそれはいろいろな話をした。父に毎晩お灸を手伝ってもらった。面と向かって言えないことをノートで会話したりとかもした。


 最高じゃないか? 僕も死ぬならああいう風に死にたい。そして友人や家族が死ぬときは、ああいう風にして見送りたい。


 まあ闘病生活を渡り歩いた一人息子が遺族として残された後に自己満足で自分に都合のいい記憶にすり替えてるだけかもしれませんがね、構わんさ、それで。
僕はああいう、母のような、言葉に満ちた死、人と人とのかかわりの中にある死を、羨み、肯定し、誇る。そのことに関して誰にも、自分にも、母にも、言い訳も罪悪感もない。たとえ僕が死の痛みを分かってあげられてなくても、つまり結局は一方的なエゴであっても、やはり僕は僕と母の別れ方の是非を僕自身に肯定する。


 死とは別れだ。別れは突然降りかかることも不幸にしてあるが、しかし時間を掛けて、意識的に、これでもかと考えながらやる別れもある。母と僕ら家族は後者をやり遂げたし、だから僕は、たとえそれがどんなにつらかろうと、選べるなら常に後者の、能動的な死に方、別れ方を選びたい。


 僕の意図する、「死を想う」とは、そういうことだ。半分もうまくいえないが、そういうことだ。


 自分が死んだり相手が死んだりして、僕たちは結局自分の全ての大切な人たちと別れる。いずれ。「今を楽しめ」とかいう容易い言葉で片付けてしまうには、このことはあまりに重過ぎる事実ではないだろうか。


 自分が死ぬときは、大切な人たちには、手紙を書いたり会って話したり、泣いたり、抱きしめてもらったり、握手をしたり、もしくは会っても少しも暗いそぶりも見せず冗談言って歌うたって過ごそう。きっとそのときどき、僕のやり方、死に方、別れ方は違うに違いない。


 大切な人が死ぬときは、もしもその人にとって僕が「別れ」に足る人間だと僕自身が信じられるなら、そばにいよう。彼または彼女が僕に対してしようとする、長かったり短かったりな、思い思いの「別れ」に参加しよう(それはときに「別れない」と誓い合う別れだったりもするだろう)。


 大して僕がその人にとって重要じゃないだろうと思うなら、彼または彼女が元気だったころの記憶を思い出したり忘れたり僕の側で勝手にしながら、でもとりあえず彼または彼女のやせ細った体やつやを失った顔などを勝手に見に行くのは、やめにしよう。


 僕は生きる。死にたくない。だって人生楽しいもの、これでもかと生に固執して生きてやるともさ。


 ただし死を想いながら。僕は別れのことを忘れないでいたい。



    早稲田で講演: 言語学、認知革命、自然主義        (2010/7/6)

先日早稲田大学の久野正和准教授にゲストスピーカーとして彼の授業に呼んでいただき、「言語学、認知革命、自然主義」というタイトルで講演させていただだいた(2010/7/2)。久野先生とは上智・ハーバードの先輩後輩の間柄でよくお世話になっているのだが、そのご縁で50人以上の学部生の前で話をさせてもらえる機会を今夏は2回も与えていただけて恐縮至極である。今回は2回目で、1回目よりは時間配分等改善が見られたが、まだまだ平易な言葉でリズムよく話を進めるのがまだまだ不得手で、また説明ベタのせいでところどころ話の無駄な重複もあり、反省点の多く残る講演となった。


前回は特に学生に配るものは何も用意せず講演メモのみで臨んだせいで時間配分を失敗した経緯があるので、今回はある程度話の流れをつかんだシノプシスを載せた両面一枚のハンドアウトを配らせていただいた。まあこのままではこれ以降誰も読み返していただく機会も与えられないままお蔵入りになってしまいもったいないので、誰かの参考になるかもしれないということで一応そのハンドアウトを以下に一部加筆修正を加えた上で転載する。ご参考まで。


なお、僕はもともと哲学をやろうとして大学に入り、言語哲学→言語そのものというふうに興味の対象がシフトしていったという経緯があるので、言語学も好きながらこういう言語学が与える科学や哲学への示唆のような話もすごく好きでして、そのため普通の職業言語学者よりも多少は多くその類の論文を読んでいると思う(まあ言語学者をやる以上ある程度このたぐいの勉強はマストだと思うが)。この方面でもノーム・チョムスキーの思想の深みは絶大なんですね。こういう事に興味がある人はこの投稿の一番下にあげた参考文献等に手を伸ばしていただくといいと思います。僕自身がこのたぐいの問題について述べたものということなら、最近書いたブログ(「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について)、および拙著The naturalist program for neo-Cartesian biolinguisticsをとりあえずは挙げておきます(後者は英語ですが)。


*  *  *  *  *  *  *  *  *

言語学、認知革命、自然主義
成田広樹
2010年 7月 2日 (金)
早稲田大学
  1. 生成文法成立以前の「こころ(mind)=白紙(tabula rasa)」という経験主義的精神観(要するに経験のみによる言語習得説)
    1. その背後には行動主義(behaviorism)や論理実証主義(logical positivism)などからの強い影響があった
    2. 「自然科学の対象は「観察されたもの」(observables、典型的にbehavior)に限る」というドグマ
    3.  それを特に言語に当てはめれば、「 観察しうる言語表現(=E-language)が言語の全て」という想定に繋がる
  2. チョムスキーは自らの生成文法研究を通してE-language から I-language へ言語研究の対象をシフトすることを提唱した
    1. E-language: 外置された言語表現の集合、
    2. I-language: (原理的に無限個の)言語表現を生成する脳内の計算システム
  3. 20世紀中葉の「認知革命」(cognitive revolution)
    1. ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)らによる変換生成文法(transformational generative grammar)の理論
    2. デービッド・マー(David Marr)らの視覚の研究
    3. オカルトの領域と思われていた心の領域においてもその内的メカニズムの数理的研究が可能だということを彼らが説得力をもって示した 
  4. 刺激の貧困(poverty of the stimulus)という存在証明の論法の力強さ
    1. 教えられてもないのに出てくる言語の普遍性が数多く存在する
      1.  構造依存性、
      2.  回帰性、
      3.  移動規則の遍在性、
      4.  普遍的な島制約の数々、等々
    2. 習っていない、後天的な経験を通しての学習からではどうしても説明がつかないこれらの特性は生得的にヒトに与えられている、と考えるよりほかない
  5. ただし、ヒト言語特有の生得的知識の内容が豊かになればなるほど、どうしてそんなメカニズムがヒトの進化の過程で現れたのかという進化論の問題への回答が難しくなるというジレンマがある
  6. 言語のデザインに関する三つの因子(three factors of language design)の概念による論点の整理
    1. ヒト(言語)特有の遺伝的特性 genetic endowment specific to human language
    2. 後天的経験・環境 experience, environment
    3. ヒト(言語)に固有でない認知法則や自然法則 natural laws and constraints not specific to human language
  7. 刺激の貧困問題の説明の比重を第一因子から第三因子へ移していくことで言語進化の謎を少しでも減じていく方向性を現代言語学は探り始めている
  8. 今後の研究課題としての第三因子
    1. 言語の計算を制限する計算最適化原理
    2. 統語的牽引操作(Attract)の最小性と物理の最小作用原理の関連を探る研究(Fukui 1996, Uriagereka 1998など)
    3. ゼータ関数(ζ-function)と句構造文法との連関を探る黒田成幸の研究(Kuroda 2009)
    4. フィボナッチ数列とXバー理論の連関 (Uriagereka 1998, Medeiros 2009)
    5. Charles Yangの仕事が第二因子の部分的復権を目指すことも第一因子の理論的負荷を軽減する意味がある
  9. 第三因子を言語研究において求めることの哲学的な意味:
    1. 言語学は(少なくとも方法論上は、願わくばゆくゆくは実質的に)物理学の一分野となる
    2. 精神の研究・心理学の一分野であるはずの言語学が同時に物理学でもあるというのはどういうことか
    3. デカルト的心身二元論以来、未だ多くの哲学者によって形而上学的に断絶したものと考えられている物の世界と心の世界の統一的原理を追求するということになる
      1. 哲学におけるphysicalism(唯物論)—これは「物」という概念が定まっていない限り内容を伴わない
      2. むしろ言語研究が勝ち得た知見こそが我々の精神観・物質観に再考を迫りうる
    4. その意味で、哲学的自然主義(philosophical naturalism)が新たな意味を持ちうるということ
  10. 言語学の「学際性」
    1. 言語の実地的な研究を通してあらゆる周辺分野に重要な知見を与えうること。
    2. 物理学等の自然科学で発見された自然法則の類いが言語のデザインの第三因子として言語の本質を形成する一端を担っているかもしれない。また逆に言語の研究を通して発見された認知法則の類いの対応物がモノの世界において発見されるかもしれない。

(参考文献)

  • 福井直樹 2001. 『自然科学としての言語学』大修館書店
  • 黒田成幸 1999. 「文法理論と哲学的自然主義」『言語と思考』(松柏社叢書 言語科学の冒険 3), ノーム・チョムスキー, 黒田成幸 著, 大石正幸 訳(黒田成幸 2005. 『日本語からみた生成文法』に再録)
  • 黒田成幸 2009. 「数学と生成文法:「説明的妥当性を超えて」そして言語の数学的実在論」Sophia Linguistica 56, 1-36.
  • Boeckx, Cedric 2010. Language in Cognition. Wiley. 
  • Chomsky, Noam 2000. New Horizons in the Study of Language and Mind. Cambridge University Press.
  • Narita, Hiroki. 2009. The naturalist program for neo-Cartesian biolinguistics. In Proceedings of Sophia University Linguistic Society 24, ed. Takahito Shinya and Ako Imaoka, 55–91. 
  • Uriagereka, Juan 1998. Rhyme and Reason. MIT Press. 


    「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について        (2010/6/19)

心身二元論という哲学的・形而上学的言説があります。自然界には物質の世界と心・精神の世界のふたつがあり、このふたつの世界はかなりな程度断絶されていて、それぞれまったく異なる法則や実体によって支配されている、というような考え方ですね。それ以前にもそれ以後にもそれに似た自然観は存在していたものと思われますが、デカルトのそれが最も有名でしょうしまたこれから続ける何回かの投稿に最も関わりが深いと思いますので、とりあえずはその定式化を紹介します。

デカルト的心身二元論によると、物質の世界はいわゆる有限の体積および質量を持つモノどものがひしめく世界である。この物質の世界における運動は、単純にモノとモノがぶつかり合って運動エネルギーが伝わるというような「接触による伝導」という形で、そのような形のみによって実現される機械的な世界です。一方こころの世界は、なんだかよく分からない思推実体や霊魂などの世界である。どういうわけだか脳の下垂体あたりの位置にこの精神世界のベンチのようなものがあるというふうにデカルトは言っていたんですが、まあそれ以上はよくわかりませんね、という、なんというか不明な世界だった。

ノーム・チョムスキーが著書”Language and nature” (1995, Mind収録)やNew Horizons in the Study of Language and Mind (2000)などで指摘しているように、デカルトの形而上学的二元論(metaphysical dualism)というのはその実「自然はこういうふうにできている」という経験的な仮説(hypothesis)ないし予想(conjecture)だったと考えられます。この予想を提出するデカルト側の動機は(他にもあるかもしれませんが)とりあえず大きく分けて2つありました。まず第一に、後に物理学と呼ばれていくような一大研究プロジェクトをデカルトが立ち上げようとしていたとき、人間の思惟の問題はどうも物質およびその接触による運動がどうのという方向性ではとても説明し尽くしようがないなにかがあるということに彼は気づいていました(デカルトのこの辺の思想史的事情はもっとずっと複雑ですが)。そこで、数学的に明晰に物事を把握するという探究の仕方を、とりあえず心の問題はカッコに入れて進めてみよう、というふうに決めました。ですから、二元論的にモノの世界を心の世界と独立のものとしてとりあげるというのが、彼にとっての数学的明晰性をモットーとする物理学の構築にとって必要なガイドライン・working hypothesisでした。また、より重要なことに、この形而上学は「接触力学を極めることで(少なくとも物質的な)世界の理を極めることができるはずだ」というデカルトの壮大な楽観を裏付けるバックボーンでもありました。実際、モノの世界なんて結局のところそれくらい単純なものなんじゃないか。それくらい単純なモノの世界に関してなら、接触による運動っていうこれまた単純な概念のみを通して究極の説明理論を作ることができるんじゃないか。とそういう楽観的な野望がデカルトにはありました。

いってみれば、デカルトの形而上学的二元論とは、接触力学としての物理学が到達しうる世界把握に関して、彼がもつ期待の最大値をあらかじめ表明したものだったんです。心のことは(この方向だけでは)分からんだろうけど、モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち!!っていうね。

接触力学でそこの法則すべてを看過しうる(と期待される)世界としての物質の世界と、その探究においてはとりあえずカッコに入れられてしまった別次元のものとしての心の世界。このモノと心の二元論的断絶は、デカルトの提示する機械的物理観が経験的に正しい仮説である限りにおいてその信憑性が高まります。しかし、これは口を酸っぱくして言っておかなきゃいけないんですが、デカルトの機械的物理観はニュートンの万有引力の発見によって完膚なきまでにぶっ潰された。ご存知のとおり、万有引力は、質量を持つ2つの物質が互いに接触を介さず引き合う引力である。「接触を介さず」というのが味噌で、これは接触力学を唯一の原理とすべきデカルト的物質世界においてはあり得ない力であったわけです。こういう接触を介さない力が重力加速という根本的な運動現象を生み出すということが知れた以上、デカルト的なモノの概念、接触力学のみをもって把握しきりうる「閉じた」物質の世界というのは実際のところ間違っていた、ということにならざるを得ない。この結論は当時のデカルト的自然観に慣れ親しんでいた哲学者たちにはおよそ受け入れがたいものであったし、それゆえニュートンの仮説は「せっかくデカルトが純粋化した物質世界にまた幽霊みたいな”オカルト”力を持ち込んできやがるトンデモ仮説」としてさんざっぱら批判されたそうです。面白いことに万有引力を発見した当人のニュートンすらもそう思っていたらしくて、ニュートンは晩年にいたるまで自分の発見した万有引力の接触力学的根拠を明らかにすること、デカルトの機械的物理観と万有引力の間の矛盾を何とか解消する糸口を見つけることに専心したといいます。ニュートンのその努力は結局のところ報われることはなく、結局彼は諦観をもって”I frame no hypothesis”とつぶやきましたとさ(この”I frame no hypotheses”はまるで反理論主義、実験・データ・観察至上主義を支える言明として権威主義的によく引用されるようですが、少なくともニュートンの意図を汲む限りそれは曲解だと考えるべきでしょう)。

と、いうわけで、デカルトが物質世界の究極理解を夢見た接触力学原理主義的研究プログラム、およびそれを支える経験的仮説・予想だった心身二元論はニュートンによってものの見事にぶっ壊されてしまった。まあ経験的仮説が後日新たなデータ・発見によって覆されるなんてのはよくあることなんで、それ自体はむしろ理解が深まったということで歓迎されるべき発見なんですけど、しかしそれにしても、デカルトの形而上学的心身二元論が既に経験的反証によって瓦解してしまったことの意義は十分に現代人たちに認識されているとは言い難い。

ひとつ大きな結論としては、ニュートン後、我々はもはやそれによって立つべき明晰なモノの概念、モノだけの「閉じた」世界という世界像を描くことができなくなった、ということがあります。モノの存在や運動の背後にある原理は接触力学なんていう偏狭な理論じゃ全く語りつくせないような、人智を超えた神秘的な力に満ち満ちている。事実その後の物理学には、万有引力を皮切りとして、電磁波、一般相対性、量子、などなど、なんというか「手で触れられる」みたいな常識的なモノ観なんかの遥か外にあるような概念がどんどん入ってくるということが科学史的事実として起こってきた。結果として、我々は今、そういう物理法則の類が実際に力を及ぼしている範囲についての原理的な理解を有していない。デカルトの機械的物理観亡き後、モノの世界は接触原理のみに「閉じて」いなくなった。そして僕たちは「モノ」や「物理法則」の範囲をどう「閉じ(なおし)て」いいのか分からない。

もうひとつの結論は、「(心のことは分からんだろうけど)モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち」っていうデカルトの楽観的予想がもろくも崩れ去った今、心の世界とモノの世界を二元論的に峻別する経験的・理論的根拠はもはやないのだ、ということです。モノが物理学(などの自然科学)が扱える範囲であり、心はその蚊帳の外のオカルトなんだろう、というのがデカルト時代の「科学者たち」の一般的な想定であったが(ちなみに自然哲学が自然科学と哲学に分離させられていく方向性をこの二元論的想定が助長していったのは間違いない)、先の段落に見たように、いまやもう「モノ」の世界・物理学の世界は閉じていないのである。閉じ方を知られていないのである。だから心とモノの境界線だってどうやって引かれるべきかも分からない。というかそもそもデカルトの研究プログラム亡き後、そんな境界線を引く科学的根拠すらも今のところ与えられていない、という状態なのである。

よって次のようなことが起こりうる。ひょっとしたら、今まで心の領域と呼ばれていたもののどこかに、モノの世界で観察されるような物理法則の影響を見出すことがありうるかもしれない。逆も然りで、もしかして心の領域に関わるとされる何らかの法則の影響を実はモノの世界の方にも見出しうるのかもしれない。物理法則がモノだけでなく心の現象の一端をも説明する統一的原理として再認識されることがありうるかもしれない。逆もまた然りかもしれない。モノと心の世界は結局のところ閉じていないのかもしれない。互いに素ではないかもしれない。形容矛盾でもなんでもない「心の物理学」(mental physics)というものが(例えば「化学現象に関する物理学」(chemical physics)と同じように)将来的に可能なのかもしれない

ある程度僕の解釈が入るかもしれませんが、現代言語学を牽引する研究プログラムである極小主義プログラムミニマリスト・プログラムthe minimalist program)は、結局のところ「心の物理学として言語学をやっていこう」という呼びかけなんだとも解釈しうると僕は考えています。現在、言語現象の中に作用最小性原理や計算最適化原理などの物理法則の影響を探すという、それこそちょっと前だったら考えられなかったようなことが、極小主義プログラムを追究する一部のbiolinguistたちによって真剣に試みられています(ちなみにminimalistを無反省に権威主義的に、ないし意識的に政治的に名乗っている連中の大半はその実真剣なminimalistではないので言語学の文献にあたる際には注意が必要)。

やっぱり未だにノーム・チョムスキーがこの極小主義プログラムを牽引する急先鋒なんですが、しかし残念ながら彼には一流の物理学者・数学者としての素養はないのでなかなか彼だけではどうにもならず、その意味では未だ研究プログラムとしては実に刺激的なものが立ち上がったとはいえ、他所の分野の人達に誇って示せる、それをもとに言語学のキャンペーンを張っていけるような美しい研究成果というものを我々はまだ出せてないでいます。でも心の物理学を真剣に目指して研究を続けることで、将来的に心の科学に関するガリレオやニュートンの到来を期待できるかもしれないんです。

ともかく、デカルト二元論亡き後、真に有意義な形で「心の物理学」を目指すことを阻む哲学的原理はもはや何もなく、言語学を初めとする認知科学が物理などの自然科学との将来的な統合に向けて歩みを始めているということそれ自体は、ぜひ言語学の分野の外にいる人達にも知っていってもらいたいことです。

ちょっと長くなりましたので、またこの記事の続きは日を改めて書かせていただくことにします。



ヒトの幼児は健常児ならだれでも、それが日本語であれ英語であれアラビア語であれ、何らかの自然言語を生後かなり早い段階で母語として獲得します。この言語獲得のプロセスはなかなか驚異的なもので、たとえば語彙の数を見てみても1日10語とか20語とかいうペースで覚えていくらしいし、また数量化しにくいながらも文法的知識の獲得もかなりハンパないスピードで進みます。しかもこのすごい言語獲得能力というのはどうやら人類に共通・普遍のものであるらしく、どういう人種の両親から生まれた赤ん坊をどういう言語を話すコミュニティーに連れて行っても、およそそこで話されている言語が自然言語の体をなしていさえすればきちんとその力を発揮するものらしい(ピジン語とクレオール語の問題なんかが示すように、実は刺激として与えられる言語が自然言語である必要すらない)。言語以外の認知能力に関してはまだまだ発達していない生まれたての段階でも、この言語獲得能力だけはもう最初の最初っからフルスロットル・アクセル全開で動き始める。というか、もっと言えば、ヒトの幼児は、どういうわけか生得的に、遺伝子のレベルで決定されているくらいのあがらいがたい本能、アクセル全開で言語を獲得し始めるようなプログラムを与えられている。彼らは言語を獲得するよう生得的に運命づけられている。

ただしこれはヒトにのみ与えられた運命・本能・プログラムですよね。たとえばどっかの花子ちゃんがいてその子が周りで話されてる東京弁を母語として獲得しているとして、仮にその花子ちゃんが猫のタマちゃんや犬のポチくんやオウムのソボロくんみたいなペットと生まれてこの方ずーーっと一緒にいたとして、そういうペットたちがたとえ花子ちゃんと一字一句にいたるまで全く同じな言語刺激を花子ちゃんの周りの大人たちから与えられていたとしても、結果花子ちゃんは東京弁をしゃべれるようになるけど、タマちゃんもポチくんもソボロくんもそんなことは絶対にできるようにならない。その事情は花子ちゃんを他のどんな子供におきかえても変わりませんし、またタマやポチなんかを他のどの生き物に置き換えても変わりません。ヒトは誰でも少なくとも1つの言語を話せるようになるけど、ヒトでない生き物は誰もヒト言語を操れるようにならない。

でまあ、そうだとすると、どういうわけだかはしらないが、言語獲得を可能たらしめる何らかの特別な能力、いわば「言語の種」のようなものが、どうやら生得的にヒトという生物種のみに与えられているらしい(そしてそれは他のどのような生物種にも与えられていないらしい)ということが簡単に結論づけられるわけですね。仮にこれを慣例にならって「言語生得説」と呼ぶことにしましょうか。

言語生得説に基づき、「言語の種」の内実、およびそれが適切な言語刺激を通して成人の文法知識に発達していく過程を研究する分野がbiolinguisticsです。ヒト言語に関する生物学的研究(biological study of (human) language)ということですね。この呼称の前は生成文法(generative grammar)なんていう呼ばれ方もしてましたが、基本的には同義語と観て差し支えないと思います。ちなみにbiolinguisticsって用語ですが、上智大学の福井直樹先生が正しく指摘するように、これ結構日本語に訳すのが難しいんですよね。生物言語学とやるとまるで「生物の(生物を対象とする、生き物である、etc.)言語学」のようになってしまって正確ではありませんし、「言語生物学」とやってもなかなかしっくり来ないわけです(やっぱり生物学というよりは(生物学的観点を持ち込んでいるような)言語学ですし)。福井先生が悩んでいるとおっしゃるので、一回

「ヒト言語学」というのはいかがでしょうか。カタカナ表記で「ヒト」とすることでhumanの生物種としての側面を強調し、かつその種に属する生物学的自然科学的対象であるところの言語を対象とする点をも強調し、また「生物言語学」に見られるような「生物の/生物を対象とする言語の学」という類の無駄なconnotationもなんとなく省けているような気がします

というようなことを個人的にメールで提案させていただいたことがあったんですけど、

うーん、言っていることは分かるし悪くはないと思うけど、ちょっとあまりに 原語と離れてしまうような気がする。訳語というのは、日本語の表現として自然で意味を成すと同時に、(原語=英語が出来る人にとっては)原語が自然に 思い浮かぶようなものが理想だと思うんだけど、「ヒト言語学」と聞いて– human linguisticsでなく–「biolinguistics」という英語表現を思い浮かべ る人は何人いるだろうか・・・

ということでしたね。なんかいい訳語ないですかね、皆様。

さて、言語生得説。普通に考えたら、はっきりいってこんなの説と名付けるのもおこがましい。ヒトのみが言語を操り人以外のどの生物もそう出来ない以上、ほとんど自明の理である。しかし、ノーム・チョムスキーが1950年代に現代言語学を立ち上げて言語に関する生得説を正しく指摘し、言語研究は本質的に生物学であり、この言語の種をその中心的な研究対象として扱う学問(=biolinguistics)であるべきだ、というこれまた今聞けば当たり前のようなことを言ったとき、言語生得説は多くの心理学者や哲学者によってなにやらものすごく胡散臭い仮説のように受け止められたらしい。結果大々的に「生得説論争」なるものを巻き起こしたという歴史的事実がその辺の事情を物語っています。しかし、繰り返して言いますが、言語を操るというのがヒトのみに与えられた能力である以上、言語の生得説自体は自明の理です。


 なにが自明ではないかと言うと、実際にその生得的なメカニズムが存在することそのものではなくて、その生得的に存在するメカニズムがどの程度ヒト言語に特化した豊かな内容を持っているのか、ということです。たしかに、チョムスキーが言語生得説という当たり前のことを当たり前のこととして提示したとき、チョムスキーや彼の同僚たちが実際に行っていた具体的な言語の文法知識のモデル(変換文法/transformational grammarといいます)はそれはそれは複雑なものでした。従ってその知識の獲得を可能たらしめる「言語の種」の理論(UG, universal grammarと言います)もかなり奇妙で複雑なものにならざるを得ず、当時の多くの心理学者とか哲学者の目にはそんな変なものが「生得的に」ヒトの脳に備わっているなんて仮説は実に滑稽であり、当然破棄されるべきなものとして映ったと、そういうことなんです。(とはいえこれは5,60年前の話ですから、その間に言語理論はものすごい転換を遂げましたし、今はその限りではありませんが。)

ところで、ヒトはいろいろな観点から見て実に「頭がイイ」。ヒトしかしゃべれないっていうだけじゃなく、ヒトしか船を操縦できないし、ヒトしか寿司を握れないし、ヒトしか買い物ができないし、ヒトしか人工的にモノを発明したりもしない。ヒトが自らの経験を通して「人間的に」学び、考え、行動するということ、そういうことが一切ヒト以外の生物には不可能だということ、どちらも実にあからさまな事実ですね。よってヒトは何らかの学習能力、経験を通して人間的な知識を発達させる能力を、ヒト特有のそしてヒト共通の生得的な能力として与えられていると考えるより他ない。一応そんなような能力をとりあえず一般学習能力とでも呼んでおきましょうか。それは確実にある。

ここで問題です。「言語生得説が仮定すべき「言語の種」/UGは、その実一般学習能力そのもであり、そこになんらヒト言語に特化した内容を仮定する必要はない」といえるでしょうか。答えは間違いなくノーです。

考えてみれば、確かにヒトしか船を操縦できないし、ヒトしか寿司を握れないし、ヒトしか買い物をできないし、ヒトしか人工的にモノを発明したりもしないですが、しかしヒトがヒトである限り全員すべからく船に乗ったり寿司を握ったり買い物をしたりモノを発明したりするようになるわけじゃありません。ヒトは一般学習能力を駆使して色々なことがやれる、しかしどうやらそのどれもやってもやらなくてもいいくらいの自由は与えられている。

しかし、ヒトは言語を獲得してもしなくてもいいくらいの自由を与えられているでしょうか。そうは問屋がおろさない。言語を獲得するというのは、どうやらヒトがヒトとして生を受け生きることその中のもはや生物学的必然であるらしい。重度の言語障害は別として、およそヒトは言語を学ばないわけにいかない。ヒトの遺伝子プログラムが不可避的にそれを要求するのである。言語のみに関して。だとすると、言語の獲得のみを強制し制御するような生得的メカニズム、「言語の種」がやはりなければいけない。

その上で、それじゃあどの程度「言語の種」の負担を一般学習能力のようなものが助けているかということに関しては勿論いろいろな可能性がある。一般学習能力が船出をする上での船くらい言語獲得にとって欠くべからざるものであるかもしれないし、ないし(少なくとも僕にとっての)牛丼の紅生姜やカレーの福神漬くらいあってもなくてもいいものかもしれない。

そこら辺の実際の事情を調べるのがbiolinguisticsのひとつの目標であるわけです。であるからして言語学者=biolinguistは、実際の言語獲得の事実や成人の文法知識の内実を実験的に調査することを通して、「言語の種」の内容にあれやこれやと思いをめぐらしているわけです。

まあいずれブログで紹介していける部分については紹介していきたいですが、biolinguistics、生成文法が過去60年を通して積み重ねてきた研究成果というものはそれはそれはなかなか目をみはるものがありまして(くだらない研究も(ものすごく)多いんですけど)、この「言語の種」は、少なくとも言語学の素人さんが思い描くよりも相当程度豊かな内容を持っていなければいけないってことがわかってきてます。もちろんこれは不思議なことで、なんでヒト(の脳)にのみこんなに面白い内容を持ったモノが出現するんだろう、その出現を支える遺伝子的な情報は何なんだろう、そんな遺伝的特性がどのようにしてヒトの進化の過程で生まれたんだろう. . . 、と、いろんな疑問は尽きません。

だから言語学は面白いんですね。



久しぶりにブログの外観を更新し、そして思い切ってブログのタイトルを”A Singing Biolinguist”から”Biolinguistic Naturalism”に変えてみた。このBiolinguistic Naturalismというのは言語学的には単にNoam Chomskyがこれまでに提唱してきたmethodological naturalismだとかminimalismだとかいう名前でも呼ばれるような立場のことで、僕も最近の一連の著作で再強調している言語研究の方法論です(しかしその用語を実際に提示する論文を書けてない。一番近いのは”The naturalist program for neo-Cartesian biolinguistics“で言及した立場だろうか。この論文は早いとこリバイズしてどっかに投稿したいんだけど仕事がいつも後回しになる)。要するにヒト言語の研究を他の自然界のどの対象を扱う科学とも同じように研究しましょうってそういうことですな。その意味では単に方法論的自然主義(methodological naturalism)なんですが、言語の研究を通してこそ見えてくるような形而上学的な自然観への再考・洞察をきちんと推し進めていこうという意味でそれを特に言語学的自然主義(biolinguistic naturalism)と呼びました。

いやでもそんな言語学的な固っ苦しいことは抜きにして、このブログでは単に言語学者(biolinguist)として生きる日々で言語学者的に僕が考えたことを時々肩肘はらずに自然に(naturalに)発信出来る場になればいいな、という程度のゆるい意味でこのタイトルを選びました。よろしくお願いします。

僕はいつもブログって三日坊主で更新が疎かになります。それは忙しいということもあるし、また比較的時間が作れる余裕がある時にでも、なんというかブログを書くということを本来やる研究を脇においての「お遊び」というか「趣味」というか、なんというか生産的でない活動のようなものとしてなんとなく思ってしまっていたというのがあって、そのせいでやっぱりあえて筆をとるということに関して腰が重かったんですね。

ただ、最近知った数々の秀逸なブログを見て(「内田樹の研究室」、「My Life in MIT Sloan」、英語では「Talking Brains」なんか)、ブログを書くということを通して考えるということに改めて興味が湧いた。やっぱり考えって書いてなんぼなんだよね。

最近TwitterとFacebookでおおよそいかのようなつぶやきをしました:

Believe me or not, I sometimes get so impressed by my own past writings. Stupid as it sounds, some of them seems to me to be really well-written, and I can’t help keeping learning from them! lol Whether generated by my internal language or not, external(ized) languages are just out there and start their own life acting on my (and others’) mind. 

 (信じてもらえないかもしれないが、僕は時々自分の論文を読んで感心することがある。馬鹿馬鹿しいとお思いになるだろうが、その中の幾つかの論文は本当に良く書けていて、それを読んで学ばされるということが多いのであるw いかに僕の内的言語(I-language)を介して発話されたものとはいえ、外置された言語(E-language)はもう本当に外にあって、僕とは独立の生を与えられてそれが僕や他人に新たな影響を与えるってことを始めるんです))

もちろん後で読み返して破り捨てたくなるような下手くそな文章もいくらでも書いてきてしまっていますが(苦笑)、いや、僕の論文、なかなかよく書けてますよ(笑)。

ここに書いたようなことは、I-languageとE-languageを区別する常識を持つbiolinguistたちには当然のことかもしれないんだけど、でもやっぱり僕の言葉たちは外置されE-languageとなった時点でもう僕の手を離れた別個の存在になるんだな、というのは面白いことだと思うんですよね。詩人が紡ぎ出した詩、俳人が書した句、作家が書いた小説、歌い手が歌った歌、研究者が発表した論文、それらがその著者自身の心を再三惹きつけてやまない、ということはありうるんです。Chomskyがあんなに自分の過去の著作からの引用をしまくるのも、当時考えぬいて書き留めた力強いロジックや提言が今なお彼を説得し続けてるってことなんじゃないのかな。

願わくばそんな文章を書いていきたいですよね。



    有神論的無宗教、とか?        (2010/5/9)
 久しぶりの投稿。文章を書くというのは難しい行為だけど、それを通してしか気付けないことというのが確実にあるから、書くことで何かが学べそうだと思われるときには忙しくてもTwitterをやめて筆をとるべきですね。なかなか難しいことですが。

    *  *  *  *  *

 僕はごく普通の日本人で、よくある通り普通に仏教の一派を家の宗教として持ち、祖先やおじいちゃん、亡き母をその下に埋めるお墓も地元の寺にあり、まあそういった活動に真剣味はないにせよ、別段反対する理由もないので盆には墓参りもするし、法事にも参加する。しかし自分は仏教徒なのかと問われるとちょっとよく分からない。中高は仏教校に通ったけど、理事長が坊主だった、時々ホームルームの代わりに坐禅があった、部活のランニングでは寺の階段や裏山をよく走った、という程度のこと以外は普通の学生と変わらなかったと思う。学部と修士課程はキリスト教の大学に行ったが(しかも前者はプロテスタントで後者はカトリック)、それは単にそこにあるカリキュラムに惹かれたから行ったまでで、入学式などの強制的なもの以外は一度も教会で説教を聞いたこともないし、聞こうとも特に思わない。本当に僕はそういうのはどっちでもいいんである。無宗教、ないし無信仰というのが実にまっとうな形容だと思われる人間である。


 無宗教・無信仰であることを僕はそれなりに自分のこだわりとして持っていて、大学時代に歌好きだったことから合唱団に入ったわけだが、その時もコンサートでミサだの黒人霊歌だの宗教曲という類のものを歌うことには抵抗があった。積極的にキリスト教を支持するつもりがない(が否定するつもりもない)自分がそんなの歌っちゃうのは無責任だろうと思ったからだ。先輩にコンサートのそれらの宗教曲のステージに関しては歌わない方向でお願いしたいと相談したこともあったように思うが、たしか「新入生が全ステージ乗るのは当たり前でしょ」的な論理で説き伏せられた気がする。あーまあじゃあ伝統だってんならそれを曲げてまで頑固に歌わないというほど「無宗教」が強いバックボーンとして自分にあるわけでもないしなーと思い、結局流れで歌ってしまったものだが(しかし合唱やるなら宗教曲やらなきゃいけないっていうのはぶっちゃけちょっとした部の傲慢ですな)、まあともかく、そういうふうに色んな意味で僕は宗教にこだわりが無いんです。

 ところでアメリカ留学なんぞをしていると当然周りはキリスト教信者が大半を占める環境にいるわけで、その中には毎週末教会に通うとか、教会主催の活動に積極的に参加するとかいう敬虔なキリスト教徒の人だっているわけですね。先日そういう敬虔な人のひとりが「私が今までにした一番素晴らしいことはキリスト教者になったことだと思う」「私はこういう活動(彼女のやってる教会の活動)を通して願わくば全ての人がキリスト教の素晴らしさを知って、そして願わくば全ての人にキリスト教徒になって欲しい」というようなことを言っていたのを聞いて、なんだか違和感を覚えずにはいられなかったので、「宗教と政治の話はご法度」というのは知りつつも色々と訊いてみた。まあopen-mindedな子だったので色々答えてくれた。

 要するに、キリスト教の教えでは、神に救われるためには神にしっかりと自らが罪深き者であるという宣言、及びその上で神に向きあって真摯に赦しを求めるというジェスチャーが必要であり、そしてその罪を認め赦しを求めるという行為こそが所謂「洗礼」という儀式であるということらしい(まー一時はキリスト教の学校に行っておきながら僕はそんなことも知らなかったわけだが、まあこと宗教に関しての無知を僕は特に恥じるつもりはないので(これは僕にしてみれば単にトリビアの一つ)それはそれでいい)。①神は積極的に洗礼を通して自らの罪を認め赦しを求めた者のみをお赦しになってくださるわけであって、②全ての人類が等しく幸せになって欲しいし、そして人の幸せの最高の形とはつまり神に赦されることであるからこそ、③全ての人にキリスト教者になっ(て神に救われ)て欲しいと、まあそういったことらしい。僕はここでいう①で想定される神様ってのはずいぶんと気前の悪い人だなあ、全知全能ってんならケチケチしないで誰でも彼でも救ってくれりゃいいのに、と思ったが、まあ①を強く信じることに決めた人たちに対して特にその個人的な決断を積極的に支持するつもりもなければ反対する理由もないんで、ははあそうですか、とそういった感じでした。

 ただ、①や②の想定をした上で、キリスト教徒となり、神に救われたと信じ、神からの愛・赦しを心から感じて感謝することができ、赦されたという安心感を常に持ち続けることが出来るというのは、もしそれがやれたなら実に精神衛生上好ましいだろうな、というのは客観的に考えても分かるような気がする。そういう一連の精神形成が好みにあうような人は積極的にキリスト教徒になっていけばいいんじゃないでしょうか。それは僕とは違う人生だろうと思うけど、いや、応援しますよ、そういう人がいたら。

 ただ、それを言った上で、やはり「すべての人類にキリスト教徒になって欲しい」というのはそのままでは納得できないなあ。どうしても傲慢なように思えてしまう。①、②の仮定を受け入れるってのは個人の自由でしょうから、それを根拠に③と結論づけられてもこっちは知らんよ、というね。だから「①、②は非合理的な想定だし、それを受け入れる入れないもこっちの自由でしょ」、とその友人にはいっておいた。彼女は自分の言いたいことを100%僕に伝えられなかったと感じて悔しかったようですが、それでも①,②が非合理的な想定だということは認めていた。

 しかし彼女が言うには、「キリスト教徒になるということは私が人生の中でした最も非合理的な、しかし最も素晴らしい決断だった」ということらしい。なるほどねえ。

 ところで、言語の神秘に魅せられ、その謎の解明に幾許かでも貢献をしたいと願って言語の自然科学(biolinguistics)を追究している者として、僕はこの宇宙に内在する大いなる神秘的な力が存在することをこれでもかというくらい信じている。宇宙がある特定の統一をもって厳然としてそこにあ(りえ)るという事実、地球が形成されえた偶然、そこに生命が誕生しえた奇跡、それが遺伝子というblueprintの微細な変異を通してかくも多種多様な生態を創り出しうるという謎、その中にヒトが現れ地球46億年の歴史からしてみればまばたきひとつにも満たないこの短期間でこれほどの文明社会を築き上げたという驚き、そしてこのヒトという生物種の経験世界を色濃く決定づけている心的世界というものがこの物理的世界に現れえたという神秘、そのヒト特有の心的世界をまた色濃く特徴付けているこのヒト言語というメカニズムが現れ(え)たという不思議——数え上げればきりがないほどの神秘に我々は囲まれている。それら数えきれない神秘が可能であったという事実は、即ち我々人間が現在の文明では決して解明できていない(そしてもしかすると人間がその文明で解明し尽くすことが原理的に不可能であるかもしれない)ような、この世界を統一的に支配する大いなる神秘的な力の存在を仮定するだけの十分な根拠を与えてくれる。それは自然法則というカバータームで呼んでもいいだろうし、好みでそれを「神」と呼んでもいいのだろうと思う。人知の及ばない力の存在に深く驚き、そしてそのまだ見ぬ相手を狂おしく知りたいと願う好奇心をある特定の対象の研究という営為に落としこんで実践する者、それが科学者であろうと思う(なぜヒトが好奇心を持つのかはところで人性を決定づけるまた別の大いなる謎だ)。神秘を認めることと科学者であることとはその意味で矛盾しないばかりか、むしろある意味で神秘への驚き・憧れは科学者であることの本質的な必要条件ですらあるのだろうと思う。

 よって僕は「神の存在を信じる」という言い方で自分の人智を超えた神秘への憧れを語ることができるし、そうすることが嫌いではない。よって僕は有神論者(theist)である、と宣言することができる。無宗教でありながらも。

 というわけで、無宗教であることと有神論者であることもまた矛盾しない。僕はこの人智の及ばない神秘への単純な憧れを何教とも呼びたくないし、またなになに教が語る特定の「神」とこの神秘の源泉をby assumptionで同一視してしまうという非論理的なステップを個人的に踏みたいと思えないんです。だからしない。

 かつ、宗教というのは、少なくとも僕の知っている範囲では大抵がこのステップだけに留まらず、プラスアルファで神の神性を100%実現した特定の個人(イエスなりムハンマドなり)というのを想定しその個人を崇めるというextraな部分を持つことが多いように思われるから、それもなんだか自分としては受け入れたくないものです。

 もちろんそういう想定の数々を信じる人、そうすることに決めた人がいてもそれはそれでその人の個人的な決断ですから尊重しますよ。単になんというか、そういうのが僕の好みに合わないから個人的に僕はそういうことはしない、という、それだけのことです。

 しかしまあ、その上で、ヒトが宗教を作りだしたということ、というかヒトという種を規定する遺伝的特性と環境的要因の相互作用が宗教を創りだすことをヒトに可能たらしめているという事実は、それ自体として非常に面白いし興味深い。なぜヒトに言語が可能であったのか、とか、なぜヒトに数学が可能であったのか、なぜヒトに道徳があるのか、というようなことを問うのと同じレベルで人類学的・ヒト生物学的に面白い気がする。上でいうキリスト教なんてのも実に巧妙なそれ自体として面白い構造をもった作品・芸術ですね。すごいよなあ。

 ともあれ、そんなわけでですね、僕は積極的な有神論的無宗教です。当面はこれで行きます。これを他人に勧めるつもりも全くないが、まあ自分の信念としてね。こうあることで例えばキリスト教の想定するような永遠に赦される喜びなどの精神衛生上好ましい類の心理を自分の中に形成する機会を失っているかもしれないというのは重々承知しつつも、とはいえだって僕は、非合理的な一群の想定をとりあえず信じきるところから始める、という精神行為がどうしても自分にあっていると思えないんだもの。だからキリスト教徒にはならないだろうし、仏教徒にも特にならないんじゃないかなあ。別に自分ちの墓に入ることにさしたる抵抗はないけど。

 そんなでした。


 最近Twitterでもいちいちぼやいているんですけど、最近論文を書くのがどうもつまらないくていかん。


 いや、自分でわかっていると思い込んでいることを言語化する段になって手こずるというのを知ることは自分の自分のアイディアに対する理解を促進するという効果があるのでいいのですよ。それはやはりストレスの貯まらないではない行程だが、ある程度有益にして必要なコストとも言えるので割り切れる。が、しかし昔それに加えて修士の頃くらいまでは結構しばしば経験していたのは、いわば書いているプロセスの中から新しいアイディアが出てくるっていうタイプの大なり小なりのエウレカ経験でして、それが最近どうも乏しくなってきているように思われるのが残念でならない。

 これは僕が歳をとって頭が固くなってきているのが原因か、それともminimalist programという研究方策が我々研究者に課する独特の難しさによるものなのか。おそらくどちらもがあるのだろう。困ったものだ。  しかしなんだろうな、どうしてもっとこう、「言語学が楽しくて仕方がない」というふうに研究ができないものか(それともまさか今そう感じられてないのは僕だけ?)。そういう感覚というか雰囲気を今syntax研究者が作り出せてないということが多くの若い有能な人達をこの分野から遠ざけていると思う。

 このままではいけないと思う。僕も可能なら微力ながらそういう明るい雰囲気を作ることに貢献したいけれど、そのためにはまず自分が心から研究を楽しめてないといけないし、また同じ分野でそういう楽しそうに研究している奴らとどんどん楽しみを語り合って共鳴しあって増幅してかなきゃいかんよな。人はひとりではなにもできないからね。

 そもそもこういう「楽しいもんはともかくとことん楽しんでやっちゃえばいいんじゃね?」的なイケイケ感覚こそが我らがICUの吉田智之先生の最大の教えだったのかも。そう思えば、こういうおちゃらけた観点が僕の過去2年くらいの研究生活では必ずしも足りていなかったのではないかとも思う。まあでも、ああいうタイミングで一度真剣に「いつまでもふわふわと無責任に言語学で遊ぶだけのクソガキじゃいけねえ」と思いとどまって暗めに悩んだことで得たこともあるし、そのバックボーンを十二分に活かしつつ、今からどんどん取り返して言語学を楽しんで行けばよい。ということにしよう。

(ところで最近会ったところではPeter Svenoniusってなんだか研究楽しそうな感じ出してていい感じだ。まあ色々と提案に不満はあるけど、でも時々彼の研究普通に面白いしな。)


    東京03/教えるの楽しい        (2009/9/28)

 Mixiのニュースで今年のキングオブコント優勝したっていうのを呼んで始めて知ったけど、いやあ東京03ってすごい面白いじゃないですか。YouTubeで上がってるネタどれ見てもものすごくクオリティー高いし、しかもどれひとつとしてネタやパターンの使い回しもほとんどなく全く独立のオリジナル作品ばかり(まあ唯一「言わなきゃいいのに」というネタの型は複数回見たがそれでもその後の展開もいろいろ変化があるし)。コントってたいてい面白くないと思っていたのですが、東京03のは別だわ。  こりゃ優勝って言われても全く納得ですな。ここからどんどん売れていってくれるといいですが、しかしそれでもせっかくの才能だしコント作りはこのペースでproductiveかつcreativeなまま突き進んでほしいところです。


 * * * * *  

今年度から僕は博士課程三年生で、生活費を支給してもらうためにTAをしなきゃいけない学年になりました。うちの学科は一学期に2コマ授業を担当しなきゃいけないんですが、生徒は4人と少なめながら自分が好きなことを学部生に教えられるtutorialも自分の統語論にかける熱い想いを語れて楽しいし、Maria Polinsky教授のオーストロネジア語族統語論の授業のTAも意外と新鮮なことも多ければ生徒も素直でよい。教えるなんてのはすごく心配していたんですが、始まってみればいいスタートです。このまま何も起こらず穏便無事に楽しく終われたらいいなあ。  しかし自分の仕事をする時間が取りづらくなってるのは確実で、こないだの上智言語学会の発表を論文にしたためるのが〆切1週間前にしてまだ折り返し地点にも差し掛かってない! これはやばいぜ。  YouTubeには魔物が棲んでいますね。まあ誰でも知ってることですが。


    On the notion "phase": is it virtually conceptually necessary?        (2009/9/12)

Currently, everybody in the minimalist camp talks about phases, but it seems fair to say that this notion itself is still up in the air, and we don’t know what it is, or what minimalism should assume it is.

Phases seem to give us a lot, but I am really worried about the independent justification people present in favor
of, say, CP and vP as phases. Chomsky’s two arguments — reducing computational complexity and the semantic definition (essentially being a proposition) — are very vague. First, we do not know what it means to reduce computational complexity, beyond common intuitions (but that’s hardly an argument!), and second, it’s not at all clear
how the proposition argument is supposed to work. It’s also difficult to come up with other tests for phase-hood.


Reconstruction effects? Maybe, but the data are not clear to my knowledge. Islands? Maybe, but one really has to be careful not to enter into circular argumentation, like: CP is a phase because it’s often an island; since CP is often an island, it’s a phase. It would have been so much better if we had independent motivation for phases, but it’s not clear what that evidence would be.

One other relevant consideration is that we want to somehow ensure the good old intuition of successive cyclicity of syntactic derivations. But, successive cyclicity itself should have no place in virtual conceptual necessity, so we are trying to derive it from a more fundamental elegance of language, which would be phase cycle, as the story goes. Another would be Chomsky’s worry about the Epstein-Seely criticism on the unvaluedness conception of viruses (if valued then they should become indistinguishable from interpretable ones in syntax), which presumably constitutes one of the pressures toward this weird technicalities of phase-level derivational simultaneity (the worry disappears as long as valuation and Transfer occurs at the same time), maybe. But I don’t see them as decisive, either.

Well, what I can wildly guess for now is that at least some kind of “interfacing operation” is virtually conceptually necessary (since CI/SM linking is the whole function of Syntax to begin with). As far as I can see there is no a priori reason for us to believe that the PF-interfacing and the LF-interfacing should exactly correspond in timing (as the Transfer theory assumes), that they are designed to occur more than once in a given derivation (as the multiple Transfer theory assumes), that they are designed to target a particular domain indicated by a designated lexical item called a phase head (as the Chomskyan phase theory assumes; compare it with Uriagereka’s multiple S-O story), or that the domain subjected to interfacing becomes invisible for later operations (as the PIC says, but see Boskovic), so all of them are intriguing open empirical questions, but at least I could have convinced myself that we might be able to learn a great more about human language by studying how the interfacing works.

Thus, my present position for phases is this: once we allow ourselves to assume that interfacing is virtually conceptually necessary, we would be immediately interested in how far we can go only with Merge and Interfacing, and Interfacing as a multiply applicable phase-head-driven `sound’-`meaning’-uniform computational load-reducing PIC-obeying operation (as people nowadays assume) is just one possible hypothesis on how Interfacing works, quite possibly subject to revision. The absence of strong empirical evidence might be already suggesting that this particular hypothesis may be wrong, but all of these plausibility arguments might be valuable, since we
are anyway availing ourselves of Interfacing and SMT, we want to have the most conceptually prefererable hypothesis of Interfacing, thus there may be some reasons for us to bet our money on it (but always with saving some reservation).



 20日の15:05成田発の飛行機でJFKへ飛び、1時間強遅れての到着とその他電車の乗り継ぎなどがうまく行かなかったりした(それだけではないが)関係で予約していたのよりも2時間遅いバスに乗り、4時間半かけてボストンへ移動。こっちの21日深夜0:30にようやくSouth Stationについた。まだ家が8月末まで別の人にサブレットしている関係で今回は寮生の友人宅にお邪魔するが着いたのが既に深夜1時。のっけから迷惑をかけてしまって非常に申し訳ない。。。

 まあそれはそれ、とりあえずなんとか無事に学校に戻って来れました。ここで3日滞在し、またハンガリーに学会に発ちます。てかまだハンドアウトできてないよー。やべー。
 とりあえず時差ぼけのせいで深夜3:30にして眠くなりません。こまったものだ。


    How syntax naturalizes semantics: A review of Uriagereka (2008)        (2009/8/20)

My review of Juan Uriagereka’s Syntactic Anchors finally came out in Lingua recently. The bibliographical detail is:

Narita, Hiroki (2009b). How Syntax Naturalizes Semantics. 
A review of Juan Uriagereka’s (2008) Syntactic Anchors: 
On Semantic Structuring. Lingua 119(11):1767-1775.

You can download a pre-final version of this paper at my website:
– Hiroki


    利根川進の言葉、言語学        (2009/8/19)

「何をやるかより、何をやらないかが大切だ」とよく言っている。(中略)一人の科学者の一生の研究時間なんてごく限られている。研究テーマなんてごまんとある。ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終わってしまうんですよ。だから、自分がこれが本当に重要なことだと思う、これなら一生続けても悔いはないと思うことが見つかるまで研究をはじめるなといってるんです。(利根川進、立花隆 (1993). 『精神と物質』 文集文庫)


 いつ見ても非常にいい言葉だと思う。曲がりなりにも言語の科学者を目指す人間としては実に身につまされる話だ。

 人生長く見積もっても80年。ついこの間27歳になったから、もう人生の3分の1は過ぎてしまったってことになりますね。早いものだ。幸いなことにbiolinguisticsという自分の一生の仕事は見つかったのだが(見つかったことが不幸かもしれない恵まれない分野ではあるが、苦笑)、しかし自分が五体満足に研究を続けられる時間はそれこそ人生のもう3分の1とかしか残ってないだろうな。僕は仲間と遊ぶのにも十分に時間を充てたい人間なのでさらに時間は減り。困ったものだ。

 で、そんな限られた時間でなにをやるか、と自分自身に問いかけたとき、僕はどうも日本語のうんたら構文とかの詳細記述などの仕事に第一義の興味を持てないんだよな。それらがヒトのbiologyに関しての何らかのnontrivialな洞察を与えるという予感がしない限り。

 この間大学の先輩に「お金があったから買い物にいった」と「お金があったので買い物に行った」のようなときの「から」と「ので」って微妙に違うけどそれってどういう違い?なんて質問を受けた。生成文法研究者がまさか自分の母語のこういう言語学的に面白そうな問いを専門家でない人から興味を持って質問されるなんていうのは自分の専門の知識というか力を示す千載一遇の一期一会のそしておそらく唯一無二の機会だったというのに、僕は残念ながら「昔そんなこと扱ってた論文読んだことあったけどなんだったっけなー」と言いながらお茶を濁すに終わってしまった。

 なんてしょっっっっっぼい言語学者! この先輩に対して自分が言語学者なんだぞと見せつける場面はもう一生ないかもしれないというのに!!

 しかし僕はきっとこういった類いの才能は今後もあまり伸びないんじゃないかと思う。齢を重ねてもそういうことをやり続けるタイプの言語学者もいらっしゃるしそういった方々の仕事を決して否定するつもりはない。むしろ僕にはないその才能にひれ伏すばかりである。そして才能ある人がそのふたつの語彙の比較研究から何か本当に深い洞察を導きだす可能性もまったく否定しないが、残念ながら僕にその才能はない。少なくとも僕がそう思っていない、そしてそれで十分である。

 僕は日本語の扱いがうまくなりたいのでも衒学をひけらかすのでもなく、ヒトのbiologyを知りたくて言語学をやっているんである。日本語にしかないしかも2つの語彙でしかない「から」と「ので」の違いについて論文を読みあさったりしてたら本当に普遍文法の解明という本業に時間が全く足りなくなるに違いないのである。だから読めません!!

 という言い訳。ちゃんちゃん。


    誰が、何が目的で、何をすべきか (その1:日本の医者に関して)        (2009/1/9)

 僕の中学からの同級生に今年度から研修医として勤務を始めた医者の卵がいる。仮にKとしよう。つまりドクターKである。親の代から医者というサラブレッドで、実際中学のときから優秀なやつだったし、よい医者になってくれればと思う。自分が将来手術なりなんなりするときはあいつにファーストなりセカンドなりのオピニオンをもらいに行こうと思うし、入院するならやつを主治医にしたらなにかと面白そうである。
 さて、新年明けた1/3、Kの家に泊まって夜通し彼や友人たちと話をする機会に恵まれた。誰が結婚するの別れたのいう話で盛り上がったり、また友人が俺たちファミリーに対して一年以上彼女ができたことを隠し続けていたという不義理を働いていたことを激しく糾弾したり、などなど、話題は多岐にわたったが、その中でも特になるほどと思ったのがKの医者としての立場からのマスコミ批判であったのでここに記する。
 医師不足とそれに伴う医療労働者たちの非人間的な労働環境がいろいろと取りざたされて久しい。特に産科医や小児科医などは本当に壊滅的にやばいらしい。Kによればマスコミの報道などがそういう流れに相当な拍車をかけているという。
 お産というのは、本来的に母子ともに非常に危険な状態であり、いってみれば子宮内に大量出血をしているようなものだという(医者がつかった表現なので多分間違いあるまい)。それが胎児なり母親なりの身体・生命を時として脅かし、時には死に至ってしまうということも当然十分にありうることなのだが、しかしとかくお産ということのめでたさ・ないしめでたいものであるというデフォルトの期待が、そういう部分を見えなくさせる。だから人は一般にお産というおめでたい行為によって母親や生まれてくる子、ないし両方の生命を失うということが許せない。そんなことが起こると、まるで産科医をあだ討ちのごとく責めつらい、訴訟なんかを起こして徹底した追及をする、ということがしばしば起こる。あまりにもそういうのが当たり前なので、むしろこの間「担当の産科医を訴えることはしません」という発言をした遺族のほうがさも珍しいこと・例外的なことであるかのようにマスコミに取りざたされた、とのことだ。日本のこういった医療訴訟の場合、ほとんど常に患者側が勝訴するらしく、なので医者の側は医師免許剥奪だの賠償金だのいろいろな苦しみにあう。
 同じようなことが生まれたての、自ら自分の生命を守り抜く力などまだないような赤ん坊にも言えるし、だから小児科の先生方も同じような苦労に常に直面する。
 こういうお医者さんが自分の仕事を割に合わないと感じるのは当然だろうとKは言う。日本の医師に対する診療報酬というのは基本的に一律と設定されており、言ってみれば風邪の検診や眼科の検診と労働対価としては全く差がないということになる。すると当然ながら、風当たりの強くないような眼科なんかに若い医者が流れていく。若い医師を獲得できない産科や小児科はさらに人材不足によって労働環境が悪化していく。
 たとえばある女性が急に産気づいて救急車で運ばれるとする。救急車は近くの病院に電話をかけ受け入れを請うがどこもいっぱいといって取り合ってくれない。結局そうやってもたもたとしているうちに胎児が死んだり女性が死んだりするとする。新聞が「またたらい回し!」などのセンセーショナルな見出しを書くことになるだろう。事情を知らない僕のような人間はこういう記事を見てそれらの病院の対応を「無責任」とあげつらい憤りを覚えるだろう。
 しかしKの意見は異なる。きちんと妊婦検診などを定期的に行っている女性とその担当の産科医は、あらかじめ出産予定日や胎児の成長などのいろいろな情報を正しく共有することができるため、たいていの場合は実際の出産に際して予測に基づいた適切な対応をすることができる場合がほとんどだという。むしろいきなり予測もなく産気づき、担当医もくそもないままどっかの病院に搬送されるような女性の場合、そのほとんどが適切な時期に適切な妊婦検診を受けていないのだという。すると胎児の先天的な異常や妊娠の状態などについてあらかじめ病院側に全く知らされていない状態になるため、対応ももちろん遅れるし、その妊娠が非常に危険を伴うものであったりすることが「手遅れ」の状態で露見することもしばしばであるらしい。しかも出産予定日などにあわせて分娩室が予約されたりということもないから、実際問題として分娩室いっぱいで対応できないという病院があってもとりわけ不思議なことでもないのである。
 しかしそんな事情を外側の人間は知らないし、だから新聞だって「たらい回し」と書くし、僕らはそれを読んで憤りを覚えるし、あおりを食って医療裁判は雨のように降りかかり続ける。そりゃ産科医もやめてくわ、という話である。そして、辞めてった人の穴を埋めるようにして現場の産科医たちは睡眠時間を削って医療労働に従事し、あくることない疲労と戦い続ける(疲労によるミスなどまたマスコミの格好のネタになるのだ)。
 どっかの地方の大学病院かなんかで、一年間病院に「住んで」(=休みなしで)医療を行い続ければ5000万円の年収を出す、という産科医の公募があったそうだ。その額に僕たちは驚愕するが、さらに驚くべきはそれでもそこに応募しようとする医師がいなかったということだろう。産科医がおかれる未曾有の悪質な労働環境を示唆するできごとであり、きっとそれは氷山の一角でしかないのだろう。
 産科が陥るこうした悪循環が改善されていくような兆しはどこにも見えず、またこのような問題を多かれ少なかれいろいろな科が抱えている、というのが日本の医療の現状である。
  *  *  *
 さて、こういった話を聞いたとき、僕はすごくマスコミの在り方について疑問を持った。なぜ「たらい回し」などのセンセーショナルな見出しをこの期に及んで書き続けるというのか。その目的は何なのか。
 マスコミが組織や制度の不備や不正を指摘することは、それらの是正への道を探り、また再発防止のための監視的な役割を担うなどの「改善」へ向けてのポジティブな働きかけであるべきではないだろうか。しかし、ことKが語った上のような事例では、むしろ世論を煽るような記事を書き続けることで、直接間接産科医などに対する風当たりをいたずらに強くしていき、その医療行為に従事するものたちの気力を著しく挫いていく。そしてそうやってこの産科という医療現場は悪化していく一方なのである。
 いったい、マスコミは何をしているというのか。その悪循環などただただ気づかずに、ということではあるまい。「一介の研修医」Kはむしろ彼のこういった指摘を医療に従事する者の間ではもはや「当たり前」の域に達しているような多数派の意見であるかのように語っていた。記者が取材を続ける限りこういった医師たちの意見が全く彼らの耳に入ってこないというのも考えにくい。
 むしろ、近年のマスコミ側の人間が陥ってしまう方向性のひとつとして、マスコミが本来持つ監視機能の充足という健全な目的を忘れ、自身のメディアの増長(新聞や雑誌なら部数増刷、テレビなら視聴率、etc)などの狭い商業的な独善的な利潤追求にとかく走ってしまいがちになる、というようなことが考えられないだろうか。Kが意図していた指摘も、大まかに言ってこういうことだったのではないかと僕は思った。
 僕は試しにKに、「そういう現状があることはわかった。じゃあKはKの立場でどうしたらそういう現状を改善していく方向に働きかけることができると思う?」と訊いてみた。Kは肩をすくめ、「さあ、本でも書こうか? それともマスコミの取材でも受けようか?」と言った。そこにどの程度の皮肉が込められているのか、僕にはわからなかった。付け加えて、彼は言った。「とりあえず俺がまず人を治せるようにならなきゃ話にならん」と。実に研修医然とした答えである。
   *  *  *
 医者の間で囁かれるこんな格言があるらしい。
「三流の医者は病気を治す。二流の医者は人を治す。そして一流の医者は国を治す」
 Kは問題を知っている。しかし自分が個人としてこの問題に対して何ができるかと自分に問うたとき(ないし僕のような門外漢にビールグラス片手に無責任に問われたとき)、彼は彼自身が諸々の状況を悪化させるばかりと指摘したばかりのマスコミを神頼み的に名指すくらいしかできなかった。
 しかし、それが皮肉であったか如何にかかわらず、たぶんKはある程度正しい。おそらく上のような医者を取り巻く状況を悪化させるように働いているのもマスコミだし、またそれの改善へ向けての効力を発揮できるのもマスコミなのだろう。馬鹿と鋏は使いよう、ということか。
 僕はどうも気持ちが無責任なまでに若い。一般に、問題の所在を知りながら、それに対して自らが無力だと諦めることを自分に許したくはないし、また友達に許したくもないのだ。
 そんな無責任なことを言っていられるのは、おそらくは僕が真の意味での挫折を経験したことがないからだろうなあ。おそらく自分自身で設定した人生の目標が「ヒト言語の計算特性の解明」なんていう(社会で生きることの複雑さをその問題設定上全くinvolveしないという意味で)単純すぎるものであることもその無責任な若さを助長するのだろう。
 Kはそんなわけで今、とりあえず上の意味での「三流」ないし「二流の医者」になろうと熱心に勉強中である(彼女と遠距離になってまで!!)。が、僕は勝手に彼が上の意味での「一流」になり、彼をとりまくそんな状況をいつの間にか打開していってくれることを無責任に若く願ってしまう。がんばれ、K。



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