"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

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上野顕太郎『さよならもいわずに』を読んで

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04 7

以前凹レンズ 〜まとまりのない日記〜にて紹介されているのを読んでから気になっていたマンガ、上野顕太郎『さよならもいわずに』を帰国と同時に購入し、今日読了。 「マンガ表現の新しい可能性を見た」などと紹介されていただけあって確かにコマ割りの工夫や、リアリティと幻想と空白とランダムなインクの染みなどが一つのコマ内に同居するような描き方など独自の面白い手法がたくさんあった。上記ブログでも面白いレビューをされているので参考にしていただきたいですが、ともかく「これはマンガでしかできない」、というような工夫が随所に見られます。そしてそれらの工夫が愛する人を喪う一連の経験と連動して揺れ動く得も言われぬ心情をどこまでもリアルに表現するために機能している。 近年従来的なテレビ、ラジオ、映画、紙本の形態で読む雑誌、論文・論説・エッセイや小説、マンガなどの既存のメディアに加え、ホームページやYoutubeなどの動画投稿サイトのみならずブログ、SNS、Twitter、UStream、電子書籍…というふうにかつて無いスピードでメディアの形態が広がり、世界総表現者時代とでも呼ぶべき時期を我々は経験しています。そんな中僕は(そういう「ロングテール」に属する表現者の一人として)「どういう内容をどういうメディアに載せて発信するのがどういうメッセージを伝えるのに適しているのか」ということを考えるのが楽しいと思っているのですけど、このマンガはことマンガという視覚表現を考える上で参考になりました。 まあそういう「外枠・箱」への興味に比べ、「中身」への感心という意味では僕は個人的には誰にでもお薦めしたいという風には思いませんでしたが、ともあれ興味のある方はどうぞ。僕はやはりこういう近しい人の死にまつわる話をどうしても母を亡くした自分の経験に引き寄せて読んでしまいますんで、嗚咽しながら読んだ『ブラックジャックによろしく』のがん篇のどんぴしゃ感とかに比べたら…、というような、非常に個人的な経験に基づく相対的な評価です(僕の母は膵臓がんだったので黄疸が出て入院してやせ細っていって西洋医療に絶望して出口のないままもがきながら…ていう流れが『ブラよろ』(と訳すか?)のそれとまあ重なる重なる、という感じだったもので)。 でも、「そうそう」とか思う場面も少なからずあった。その中でも特筆すべきは以下のくだり。うつ病を患っている奥さん(キホさん)が心臓麻痺で死ぬ前日の描写、抗鬱剤の作用で集中力が持てず本などを読めないとこぼすキホさんが「ごめんね」と呟く。上野は「別に何も悪くないよ。薬が効くのが遅いのかもしれないね」と特段表情も変えずに言うのだが、心の声で彼はこう呟く: 私はいつもキホの病気を恐れていた  日常が崩れてしまうのを恐れていた  予定が狂ってしまうことを恐れていた  一番つらいのはキホ自身だというのに  この時私は思ってしまった… こまったな やっかいだな めんどうだな …………と  あやまるのは私のほうなんだ……… 上野顕太郎はキホさんを心臓麻痺という突然の出来事で亡くすのだが、それは僕の母ががんを宣告されてそうだと認識をしながら段々と死に近づいていく感覚とは異なる。が、それにつけてもこれはとてもリアル。がんが発覚し入院している母を日常的に見舞いに行く日々や、残り少ない時間を家で過ごしたいという母の希望のために料理を覚えたり通院のために車を出したりという日常でも、この言葉で語られるような背徳感を僕だって抱いていた。表現者としてのプライドがなせる業なのか、ないし「この出来事をマンガで表現するんだ」という使命感に支えられたものなのか、そんな得も言われぬ後ろめたさをこういうリアルな言葉でこういう形で想起し告白する上野の気持ちはいかばかりのものであろうか。 ところで、僕は上の言葉で表現されるような背徳感のようなものを自分も抱いたことがあることを認めるが、そういう後ろめたい感情だけで母との闘病生活の時期を過ごしていたなんてことは全くないし、何の恥ずかしげもなく自分で自分に肯定できる愛だの慈しみだの献身だのの感情だって持っていたことを僕は自分で知っているから、今更そのとき背徳感を持った事実に背徳感を持って落ち込むなんていう不毛なことを僕はしない。 そして思うに、上野がその時期を「あやまるのは私のほうなんだ」と後ろめたい気持ち「のみ」で過ごしていたということはあるまい。上のように呟く彼の中にも同時的に愛があり、慈しみがあり、献身があったはずです。 さて、ヒト言語というのは、少なくともそれが音声化されて心/脳の外に出てくる限りではその音声形式は単線的な構造を持っており(音声形式の背後にある句構造はもっと豊かな構造を持っていますが、それは別の話)、後ろめたさを告白する文と「同時に」他の内容を伝える文を出すことができません。「2文以上を同時に表現することができない」というヒト言語に関する経験則は僕は人の口蓋器官が形成しうる音声の単線的特徴によって規定されているものなのかと思ってましたが(十分に調音された音を2音以上同時に口で発することはできない)、友人にきいた限りはおそらく手話の方でも(2本の手や表情筋など表現に参画する器官が複数個並列的に存在しうるにも関わらず)この経験則は適用されるようなので、モダリティを超えでたなにかもっと深い原理がそこに関わっているのかもしれません。ヒトは考えるときはもっと色々なことを同時多発的に思っているんだろうという個人的直感があるんですが、なぜ言語を通すとこうも単線的な表現ないし知覚しかできないんだろう。不思議。 で、マンガというメディアもやはり部分的にヒト言語の表現形式に依存したメディアであると思いますが、上野が上記の後ろめたさを告白するという言語行為をする際、コマ全体も暗い色調、人の描写にもどよーんと陰がかかり…、というふうにページ全体が言語的にも視覚的にも「あやまるのは私のほうなんだ」的雰囲気に満ちています。『もっとキホが生きているうちにできることがあったんじゃないか』と悔いる日々を描くマンガのストーリー進行上この告白のインパクトというのはかなり重要なので、上野が表現者としてここで視覚情報全体で「どよーん」感を演出することを選んだということに僕は当然何の文句もないんだが、じゃあ上野のこの表現に限らず、「「ヒトが複数個の相反する感情を同時的に有機的に連続的に多発的に抱きうること」を何らかの形で率直に表象するような表現というものは可能なのか」、という問いを問うてみるのは面白い、と思った。 言語文で意味内容を表現することが(なぜか)「2文以上を同時に表現することができない」とするなら、そういう同時性の表現は言語のみの描写ではないのかもしれない。いや、あるいは言語での表現にあくまでこだわり、時系列的には一瞬の出来事であってもそこで起こった感情を数十ページにわたって詳細に述べ連ねるというのもひとつの手なのかもしれない。 しかし、何かを言語で語るということは他のすべてを言語で語らないこととイコールであると思われるので、難しい。 それでは言葉で何かを表現しつつも視覚や聴覚情報などでは別のことを表現しようとするという形態はどうか。ないし、あえて言語を全く離れてしまってはどうか。ピカソの絵などの絵画なんかがもしかしたらそういう方向性、言語というメディアの構造的制約を離れた表現の可能性を追求する一つの試みなのかもしれません。僕には絵画はよく分かりませんが。 人の心・感覚のリアリティをどこまでも追求することがあえてビジュアルや言語そのものの単純なreproductionを離れることをもその可能性の一つとして内包する、というのは面白いですね。 しかし人が人の感情を表現するときの言語の持ち味とというのはなかなか他の感覚情報に置き換えづらい何かを持っているというのも事実かと思う。そしてヒトもそれぞれきっと言語を使って自分の中の得も言われぬ感情を理解しようと努めているわけで、特定の形式制約を持ちつつもかなり効率的な情報整理の方式が「言語化」であるとしたら、我々のエピソード記憶の多くも多かれ少なかれ言語を介してこそ保持可能になっているのやも知れぬ。いやはやとても難しいですね。 ま、何の結論もないですが、そんなでした。

徒然なるままにツイッター

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12 13

今日のツイッターの書き込みはまあ保存しておいてもいいかと思ったので別途ブログに書き残しておく。雑文もいいとこだが、まあこういうあっちこっちに思考が飛ぶのを自由に許すのもツイッターのいいところだということでご了承。 Wikileaksは「「組織が金をかけてまで情報を隠そうとしているというのは、その情報を世に出せば社会的利益がある」という信念に基づいている」/「無関心との戦い」/日本への飛び火もそろそろか、などなど。いい記事です: http://ow.ly/3o17W チョムスキー「アメリカ合衆国は宇宙の軍事基地化を計画していて、それは極めて危険なことです」。宇宙開発のアメリカ独占の裏に潜む危険についての彼の率直な意見。なるほど…。 雑木帖「ノーム・チョムスキー」: http://ow.ly/3o1uM MITの友達の何人かは本気でNASAで働きたいという夢に向かって全力疾走していて、僕はいち友人として素朴に彼らを尊敬し応援するのですが、彼らの宇宙へのロマンなども軍事目的や経済利益で国家に利用される恐れと常に背中合わせなんだな、ということに凹んだ。みんな知ってることなのかねえ。 チョムスキーのアナーキズムは国家の暴力性と不正に関する彼の根気強い警鐘に裏打ちされていると言えるだろうが、ウィキリークスによる一連の暴露を目の当たりにするにつけ、いよいよ彼の勇気ある活動の意義が明らかになってきたのではないだろうか、と思っている。 これもその関連でそう思うし。RT @kenichiromogi: 今年の最重要ニュースは、間違いなくウィキリークスだと思う。国家とは何か、情報とは何か、報道とは何か、根源的な問いかけをする画期的な出来事。そして、変化はもう逆戻りできない。 日本はそれほど豊かでも安全でもない社会に移行しつつある…「[そんな社会]でも生き延びられるように自分なりの備えをしておく方が合理的だろう…私自身はそのための「備え」をだいぶ前から始めている。血縁地縁ベースの相互扶助共同体の構築である」内田樹 http://ow.ly/3o2og 「国」ってなんでしょね。 茂木健一郎がちょっと前のブログで「一人ひとりの人間は、弱々しく、欠点だらけで、だからこそ愛すべき存在なのに、なぜ「国」になったとたんにモンスターになるのか」と問うていたのが目についたが、実際実に正しい問いだと思う。 うーむ、孤独。寂しい。と、思う。 ところで爆笑問題のカーボーイで「太田はこれを読んだ」というPodcastが流れた時があったが、そこで宮沢賢治の銀河鉄道の夜を太田が紹介していて、誰かが主人公にこういうシーンがあるのですって。「別の神様を信じている人をだって愛せるだろ。その人がいうことにも感動できるだろお前」と。 僕はあまり小説を読まないので知りませんでしたが、いやあ本当にいいセリフ。海外で生活して人種や宗教や価値観の違う人たちと話す日常を過ごす上でかなり励みになったし、というかついつい勝手に「同族意識」のフィルターを通して見がちな日本人への接し方だってだいぶ考えなおさせられた。 どこの国の人だとか、どの政党、宗教や学説にコミットしてるかとか、どういう連中と利害関係を持ってるかとか、そういうことは常に気になっちゃうけど、ある程度そういう事とは別のこととして、単純に自分の前で人が笑ったり楽しく喋ったりしているっていうローカルなことを大切にしたいよね。 という、徒然なるままのツイート。いやーTwitterってこういう書き物の敷居が低くて助かる。

とある理論言語学大学院生のEvernote活用法(2010年8月現在)

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08 19

@rashita2 さんのブログ『R-style』で今朝「Evernote企画4th:第0回:「あなたのEvernote術教えて下さい!」企画」というエントリを目にしました。8月16日 ~ 8月22日 23:59:59というエントリー期間を設け、R-style読者から寄せられたEvernote活用術を共有することで情報交換の場としてくださるそうで、どんなアッと驚く使い方が寄せられてくるのか今から楽しみです。 思えばひょんなことから@goryugo さんのブログ『goryugo, addicted to Evernote』を拝読する機会に恵まれ、Evernoteに興味を持ち使い始めたのが今年の6月1日、以来主にこのお二方のブログやそこで紹介されている人々のEvernote活用法を聞きかじり見かじりしつつ自分なりに試行錯誤を重ねてきました。僕は2ヶ月強ということで全然使い始めてからの日が浅いんですけど、とはいえ上記ブログなどの力を借りてかなり好スタートを切れたつもりでいます。また、学生言語学者である僕は基本的に人と会っている以外の時間では一日中パソコンに向かいっぱなしで研究しているので、朝起きてから夜寝るまで常にEvernoteとともに生活をしていますから、短いながらも濃いお付き合いを通してそれなりにEvernote活用に関して自分なりの工夫もできてきたところでした。 さて、@rashita2 さんの仰る通りで、「自分が当たり前だと思っているやり方は案外他の人からみると意外な使い方だったりする」ということがEvernoteではよくあると思います。このことを僕は自分の過去の経験から知っていましたので、先達への恩返し、というわけではありませんが、前々から一度ブログを通して自分のEvernote使用法を公開し、他の皆々様(別に言語学研究者に限らず)に参考にしていただきたいと思っていました。今回@rashita2 さんブログからまさに渡りに船の企画をいただいたので、これを機会に一度現時点での僕のEvernote活用法をいくつかのポイントに分けて紹介したいと思います。書いてみたらかなりガッツリ長くなってしまったんですが、まあ部分部分でご参考になれば幸いです。 (「Evernoteってどういうソフト?」という疑問を持たれた方は、上記の『R-style』や『goryugo, addicted to Evernote』などのブログの初期のEvernoteエントリをたどるなどしてみてください。お手軽に使えてすごく便利なソフトですよ。ビジネスマンのみならず大学院生にもすごくおすすめなソフトです。以下は基本的なEvernoteの操作方法を理解されている方を対象に書きます。) 1: Evernoteを英単語や専門用語の単語帳として活用する まずは僕のEvernoteの一番上5個のノートブックを紹介。以下のようになってます。 初めに、すでに他の方のブログなどでも盛んに紹介されていることなのですが一応確認を。Evernoteは基本的にノートブックを名前順に並べてしまうので、自分の好みのノートブック順を実現するためにはノートブックそれぞれの名前の先頭に数字をふるなどの工夫を施す必要があります。以下僕のノートブックそれぞれが「03.」などの数字をふられているのはこのためです。 まず「00.Inbox」は言わずもがなですが、Evernoteでクリップを取り込むデフォルトの保存先としてのみ機能しています。これも先達のお知恵を拝借した結果です。 さて、ここからまず一点目なんですが、僕はEvernoteを自分なりの「単語帳」として活用することを最近始めました。僕はアメリカに留学している大学院生として生活している以上、基本的に毎日授業に出たり先生や同僚とかとメールのやり取りをしたり論文を読み漁ったりして知識の増大を目指すわけですが、そうするといつだって知らないことがいっぱい出てくるんですね。まず英単語。論文特有の難しい言い回しに始まり、言語学や哲学など調べてる分野の専門用語およびその分野ごとの特異な意味・含意も知らなければいけないですし、またしゃべる準備をするためにはアクセントや発音のことも気にしなければいけない。またそりゃいっぱしの成人としてそれなり新聞やニュースも読みますし、言語学以外のことも時間をとって勉強しますが、そうするともう次から次へといろんなカテゴリーのいろんな用語が入力として頭に入ってきます。全部を一つ一つ覚えようと思ってもそうそうできるもんではありません。きっと半分以上次の日には忘れてたりするんでしょう。 さて、記憶補助装置としてのEvernoteの便利さの一つに、およそウェブ上のものなら、ないしクリップボードに取り込めるものなら、なんでもノートとして切り貼りしてスクラップ保存できるというのがありますよね。僕が上のように雑多な調べ物をする際には論文PDFのみならずオンライン辞書やWikipediaやGoogleやニュースヘッドラインや個々のブログ記事など、あらゆるソースにアクセスするわけなんですけど、用語を調べるたびにとりあえずそれぞれのソースをちゃちゃっとEvernoteに取り込んで保存しておく。僕の場合保存先はこの「01.単語帳」です。とりあえず今日の僕の「01.単語帳」ノートブックを開くと以下のようになりました。 表示されているノート例は”extricate”という単語をMac付属の英和辞書で引いた情報をそのままコピペしたものです。この他、例えばIvy League8校がちゃんと覚えきれてない、と思ったらそのWikipediaの項目を取り込み、また株のことを調べてたときにふとぐぐって見つけた「PER(株価収益率)」に関するどこぞのブログのわかりやすい説明を取り込み、また親族構造に関する系統的な知識をかなり正確に記憶できるらしい猿baboon(=ヒヒ)のことを認知科学の機関誌で読めばその該当箇所のテキストをコピペしてかつGoogle imageでbaboonの画像を取り込み、などなどをしておきます。各ノートのタイトルにはその用語のみを記しておきますと、後で見返すときにこれがそのまままるで単語帳のように使えます。要するにこのノートブックを開いたら各ノートの見出しタイトルを見て、「どういう意味だったかな」とか「どういう関連で調べたんだっけかな」ということを思い出すよう試みる。そしてノートを開いて答え合わせをする、という要領です。 ちなみに上の画像の二個目のノート「’     reconcile」ですが、これは前々から知ってたつもりだった”reconcile”(和解させる)の特にアクセント位置の把握をあやふやなままにしていたことに気づいたというときに、特にアクセント位置を確認する単語帳エントリーにするために置いたものです(アクセント関係の確認ノートも結構あります)。 何度か繰り返し確認するうちに「あ、この用語・単語はだいたい頭に入ったな」と思ったら、そのノートを「02.単語帳(覚えたかな?)」に移します。そしてまたしばらく後にこの「覚えたかな」リストも見返してみて、「もう大丈夫だろう」と記憶に自信が出てきた用語・単語に関してはもう「03.単語帳(覚えた!)」に移す、と。これは紙の単語帳で言えばそのページを破り捨てるのに当たるわけですな。とはいえまあ人間の記憶なんてあやふやなものですから、自信を持って「記憶完了」の太鼓判を押したものでも1ヶ月後・一年後には忘れてるかもしれません。だから02や03に入ってるノートも必要によってはやっぱりまた01.の現役の単語帳として再利用することもある、という感じでしょうか。また、時間がなくて・ないしオフライン作業中につき調べるのをとりあえず後回しにしたいものに関しては「05.知らない/いずれ調査」に一時保管しておく、というユルさも残しておくといいと思います。 ところで単語帳用途のEvernoteに関して一つ注意点が。Evernoteはノートブックを開くたびにその一番上のノートを自動的に開いてしまいます。僕はデフォルトの表示を「作成日時順」にしているので、この場合一番新しいノートが常にノートブックを開くたびに自動的に表示されてしまい、結果意図せずして答えを“カンニング”する形になっちゃうわけですね。まあそんな細かいことをあまり気にする必要もないのかもしれませんが、僕は「_______」というブランクのノートを常にこのノートブックの先頭に置くようにしています。Evernoteは各ノートの作成日時や更新日時も後々修正できるんですけど、この「_______」の作成日時を3010年辺りに設定しておけばとりあえずどんな新しいノートにも追い越されることはありません(笑)。 ちなみにこの作成日時修正による順番管理は色々なところで活躍します(たしか@goryugoさんのブログで読み知った方法だったかと思います)。この単語帳に限って言えば、何度も間違える用語・単語のノートは作成日時をいじって常にノートブックの上位に表示するようにしておく、などの用途が考えられます。というか僕はそうしてます。 このご時世ですから、英単語帳やビジネス用語確認なんてのはiPhoneの辞書アプリの付録機能だったりでこんなマニュアルなやり方よりも効率のいいやり方があるのかもしれません。しかし言語学の専門用語や和製英語や日常会話やスラングなど、ありとあらゆる英語や日本語のレジスターを一緒くたにサポートできる辞書なんていうのは端からありえないし、だからこそEvernoteの可塑性が活きてくると僕は思います。 こういう利用法でEvernoteから恩恵を受けるにつけ、もし例えば10年前、自分が大学受験をしているときとかにすでにEvernoteがあったらだいぶ勉強の効率が上がっただろうにと、思ってしまいます。「1931」→「満州事変」みたい歴史などの暗記物にも応用できるし、数学の公式を登録することもできた。便利そう! まあでもその頃は今よりずっとパソコンに向かう時間も少なかったわけですから、なんともいえないかもしれませんが。 ともあれ、人間一生学び続けるわけですし、その一助としてEvernoteを使ってみてはいかがでしょうか。 以上が僕の単語帳としてのEvernote利用法の説明になります。 2: 長期・短期・当日タスクリスト兼日記としてEvernoteを利用する 2なんつって仰々しく書きましたが、これはもう先達の皆々様がやっていらっしゃることとあまり代わり映えはしないと思います。大体タイトル見て内容はお分かりになるでしょう。3以降で言語学者としてのEvernoteの僕なりの用途についてご説明しますので、必要ない方はどうぞこの「2」は読み飛ばしてください。 僕の10番代のノートブック(の一部)は以下の通りです。 「12.近々やりたい」と「13.いつかやるかも」がいつも「あ、これをやりたいな」という思いつきを徒然なるままに書き留めておくノートブックです。優先順位や緊急度などでどちらに書き留めるかをその都度判断します。これで短期、長期のTo Do リストの完成ですな。その上で僕は「12.近々やりたい」を夜な夜な眺めながら、だいたい就寝前くらいに、翌日に成し遂げたいこと、「博論の2節の3パラグラフ目を書き足す」とか「Bittner and Hale 1996を半分読む」とか「☓☓大学准教授職への応募書類の3節を書く」とか「買い物する」とかいう実現可能な範囲で細かく区切った仕事リストを「10.今日やる!」に書き込んでおきます(場合によっては10−11時でこれをやる、と時間指定もする)。 当日はその「今日やる!」リストの仕事をなるべく組んだ予定通りにこなしていきます。仕事が終わるたびに「14.やった」ノートブックに完成したタスクのノートを移していきます。晴れて「今日やる!」ノートブックのノート数が0になったら今日のお仕事修了、ご苦労様、というわけです。「やった」ノートブックはこういうわけでどんどんノートの数が増えていきますけど、ここに表示される数字が大きくなると自分が(一つ一つは細かろうが)なんかいっぱい仕事してきたんだなあというのを数字の大きさで見れて「ムフフ」となります(笑)。 僕はちなみに「今日やる!」リストを作るときに既に”100817=”とか”100816.10-11=”というような自分なりの年月日の接頭辞を各ノートに付しておくようにしています。こうしておけば終了したタスクを「やった」ノートブックに移していくだけでその「やった」ノートブックが後で読み返せる簡便な日記にもなり一石二鳥。基本的に僕はこのタスクリスト用途では各ノートはタイトルしか書き込みませんが、とくに日記としての利用を充実させたければ、各ノート毎に必要なときにコメントを残しておけばいいでしょうね。 3: (言語学)研究活動の補助としてEvernoteを活用する いよいよ僕が実際の研究活動のお供としてEvernoteを使っている場面について説明させていただきます。以下僕の20番代、本業の言語学関係のノートブック一覧です。 とりあえずノートブックごとの説明を。25番のついたノートブックの活用が結構肝なんで、とりあえずそれ以外のノートブックの説明から: 「20.Diss To Do」は上記「12.近々やりたい」の言語学バージョンというか、とくに博士論文執筆に特化したタスクリストです。 「20.問い」は研究を進めていく上で思いついた疑問点、研究課題等を書き留めていくノートブックです。日進月歩の生成文法理論ですが、そこではいつなんどきどういう部分にアイディアが出てくるか分かりません。自分が疑問に思ったことをメモの形で書き留めておくだけでも思わぬところで複数の問題間に連関を見出したりとかいうことが起こると思います。 「21.分からない」は上記「05.知らない/いずれ調査」の言語学バージョンですな。 […]

書くということ

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06 12

久しぶりにブログの外観を更新し、そして思い切ってブログのタイトルを”A Singing Biolinguist”から”Biolinguistic Naturalism”に変えてみた。このBiolinguistic Naturalismというのは言語学的には単にNoam Chomskyがこれまでに提唱してきたmethodological naturalismだとかminimalismだとかいう名前でも呼ばれるような立場のことで、僕も最近の一連の著作で再強調している言語研究の方法論です(しかしその用語を実際に提示する論文を書けてない。一番近いのは”The naturalist program for neo-Cartesian biolinguistics“で言及した立場だろうか。この論文は早いとこリバイズしてどっかに投稿したいんだけど仕事がいつも後回しになる)。要するにヒト言語の研究を他の自然界のどの対象を扱う科学とも同じように研究しましょうってそういうことですな。その意味では単に方法論的自然主義(methodological naturalism)なんですが、言語の研究を通してこそ見えてくるような形而上学的な自然観への再考・洞察をきちんと推し進めていこうという意味でそれを特に言語学的自然主義(biolinguistic naturalism)と呼びました。 いやでもそんな言語学的な固っ苦しいことは抜きにして、このブログでは単に言語学者(biolinguist)として生きる日々で言語学者的に僕が考えたことを時々肩肘はらずに自然に(naturalに)発信出来る場になればいいな、という程度のゆるい意味でこのタイトルを選びました。よろしくお願いします。 僕はいつもブログって三日坊主で更新が疎かになります。それは忙しいということもあるし、また比較的時間が作れる余裕がある時にでも、なんというかブログを書くということを本来やる研究を脇においての「お遊び」というか「趣味」というか、なんというか生産的でない活動のようなものとしてなんとなく思ってしまっていたというのがあって、そのせいでやっぱりあえて筆をとるということに関して腰が重かったんですね。 ただ、最近知った数々の秀逸なブログを見て(「内田樹の研究室」、「My Life in MIT Sloan」、英語では「Talking Brains」なんか)、ブログを書くということを通して考えるということに改めて興味が湧いた。やっぱり考えって書いてなんぼなんだよね。 最近TwitterとFacebookでおおよそいかのようなつぶやきをしました: Believe me or not, I sometimes get so impressed by my own past writings. Stupid as it sounds, some of them seems to me to be really well-written, and I can’t help keeping learning from them! lol Whether generated by my internal language […]

東京03/教えるの楽しい

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09 28

 Mixiのニュースで今年のキングオブコント優勝したっていうのを呼んで始めて知ったけど、いやあ東京03ってすごい面白いじゃないですか。YouTubeで上がってるネタどれ見てもものすごくクオリティー高いし、しかもどれひとつとしてネタやパターンの使い回しもほとんどなく全く独立のオリジナル作品ばかり(まあ唯一「言わなきゃいいのに」というネタの型は複数回見たがそれでもその後の展開もいろいろ変化があるし)。コントってたいてい面白くないと思っていたのですが、東京03のは別だわ。  こりゃ優勝って言われても全く納得ですな。ここからどんどん売れていってくれるといいですが、しかしそれでもせっかくの才能だしコント作りはこのペースでproductiveかつcreativeなまま突き進んでほしいところです。  * * * * *   今年度から僕は博士課程三年生で、生活費を支給してもらうためにTAをしなきゃいけない学年になりました。うちの学科は一学期に2コマ授業を担当しなきゃいけないんですが、生徒は4人と少なめながら自分が好きなことを学部生に教えられるtutorialも自分の統語論にかける熱い想いを語れて楽しいし、Maria Polinsky教授のオーストロネジア語族統語論の授業のTAも意外と新鮮なことも多ければ生徒も素直でよい。教えるなんてのはすごく心配していたんですが、始まってみればいいスタートです。このまま何も起こらず穏便無事に楽しく終われたらいいなあ。  しかし自分の仕事をする時間が取りづらくなってるのは確実で、こないだの上智言語学会の発表を論文にしたためるのが〆切1週間前にしてまだ折り返し地点にも差し掛かってない! これはやばいぜ。  YouTubeには魔物が棲んでいますね。まあ誰でも知ってることですが。