"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

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徒然なるままにツイッター

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12 13

今日のツイッターの書き込みはまあ保存しておいてもいいかと思ったので別途ブログに書き残しておく。雑文もいいとこだが、まあこういうあっちこっちに思考が飛ぶのを自由に許すのもツイッターのいいところだということでご了承。 Wikileaksは「「組織が金をかけてまで情報を隠そうとしているというのは、その情報を世に出せば社会的利益がある」という信念に基づいている」/「無関心との戦い」/日本への飛び火もそろそろか、などなど。いい記事です: http://ow.ly/3o17W チョムスキー「アメリカ合衆国は宇宙の軍事基地化を計画していて、それは極めて危険なことです」。宇宙開発のアメリカ独占の裏に潜む危険についての彼の率直な意見。なるほど…。 雑木帖「ノーム・チョムスキー」: http://ow.ly/3o1uM MITの友達の何人かは本気でNASAで働きたいという夢に向かって全力疾走していて、僕はいち友人として素朴に彼らを尊敬し応援するのですが、彼らの宇宙へのロマンなども軍事目的や経済利益で国家に利用される恐れと常に背中合わせなんだな、ということに凹んだ。みんな知ってることなのかねえ。 チョムスキーのアナーキズムは国家の暴力性と不正に関する彼の根気強い警鐘に裏打ちされていると言えるだろうが、ウィキリークスによる一連の暴露を目の当たりにするにつけ、いよいよ彼の勇気ある活動の意義が明らかになってきたのではないだろうか、と思っている。 これもその関連でそう思うし。RT @kenichiromogi: 今年の最重要ニュースは、間違いなくウィキリークスだと思う。国家とは何か、情報とは何か、報道とは何か、根源的な問いかけをする画期的な出来事。そして、変化はもう逆戻りできない。 日本はそれほど豊かでも安全でもない社会に移行しつつある…「[そんな社会]でも生き延びられるように自分なりの備えをしておく方が合理的だろう…私自身はそのための「備え」をだいぶ前から始めている。血縁地縁ベースの相互扶助共同体の構築である」内田樹 http://ow.ly/3o2og 「国」ってなんでしょね。 茂木健一郎がちょっと前のブログで「一人ひとりの人間は、弱々しく、欠点だらけで、だからこそ愛すべき存在なのに、なぜ「国」になったとたんにモンスターになるのか」と問うていたのが目についたが、実際実に正しい問いだと思う。 うーむ、孤独。寂しい。と、思う。 ところで爆笑問題のカーボーイで「太田はこれを読んだ」というPodcastが流れた時があったが、そこで宮沢賢治の銀河鉄道の夜を太田が紹介していて、誰かが主人公にこういうシーンがあるのですって。「別の神様を信じている人をだって愛せるだろ。その人がいうことにも感動できるだろお前」と。 僕はあまり小説を読まないので知りませんでしたが、いやあ本当にいいセリフ。海外で生活して人種や宗教や価値観の違う人たちと話す日常を過ごす上でかなり励みになったし、というかついつい勝手に「同族意識」のフィルターを通して見がちな日本人への接し方だってだいぶ考えなおさせられた。 どこの国の人だとか、どの政党、宗教や学説にコミットしてるかとか、どういう連中と利害関係を持ってるかとか、そういうことは常に気になっちゃうけど、ある程度そういう事とは別のこととして、単純に自分の前で人が笑ったり楽しく喋ったりしているっていうローカルなことを大切にしたいよね。 という、徒然なるままのツイート。いやーTwitterってこういう書き物の敷居が低くて助かる。

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死を想う

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08 10

 もう母を亡くして七年です。4年前くらいの文章ですが、最近法事づいており思い出す機会があるもので昔のブログより再掲:   *   *   *   *   *   *   * さて、久々に気が向いたので余談の始まりです。 僕は死を想って生きたいと想うのです。自殺願望とかじゃないですよ、念のため(皆様のお蔭でまったく楽しい人生ですから自殺したいなんて一度足りとて思ったことはないはずですよ)。そういうことではなく、自分の生が有限であること、その先にいつか訪れる死のことをもっとしっかり意識的に積極的に考えながら生きたいと思います。そういう大事なことを最近ちょっと忘れ気味でしたが、『ブラックジャックによろしく』のがん編読んで大分触発されました。だってあの話あんまりに僕の体験とかぶる部分が大きいのですもの。いろいろ思い出します。 私は大学三年のときに若くして母を亡くしましたが、その経験が僕のそういう考えを強く裏打ちしていると思います。 いちいちブログなんぞでぐちぐちそのころのことを振り返るつもりはありませんから、僕や父の苦労とかのことは抜きにして一言で言ってしまえば、僕の母の死に方、悪くないと思うんです。がんは苦しい病気だが、交通事故とかの突発死と違って、患者がしっかり自分が病気であることを理解し、自分の死や残される家族と向き合う時間を十分に与えてくれる、そういう死に方です。 母はがんになってから家族と食いたいもの色々食べた。僕に料理のごく初歩の手ほどきをした。父は洗濯とアイロンがけとごみの回収日を覚えた。父と二人で旅行も行った。僕と言語学の期末試験に打ち込んで三日連続徹夜でガストにこもった話とか、グリークラブでパーマスがどうのとか、それはそれはいろいろな話をした。父に毎晩お灸を手伝ってもらった。面と向かって言えないことをノートで会話したりとかもした。 最高じゃないか? 僕も死ぬならああいう風に死にたい。そして友人や家族が死ぬときは、ああいう風にして見送りたい。 まあ闘病生活を渡り歩いた一人息子が遺族として残された後に自己満足で自分に都合のいい記憶にすり替えてるだけかもしれませんがね、構わんさ、それで。僕はああいう、母のような、言葉に満ちた死、人と人とのかかわりの中にある死を、羨み、肯定し、誇る。そのことに関して誰にも、自分にも、母にも、言い訳も罪悪感もない。たとえ僕が死の痛みを分かってあげられてなくても、つまり結局は一方的なエゴであっても、やはり僕は僕と母の別れ方の是非を僕自身に肯定する。 死とは別れだ。別れは突然降りかかることも不幸にしてあるが、しかし時間を掛けて、意識的に、これでもかと考えながらやる別れもある。母と僕ら家族は後者をやり遂げたし、だから僕は、たとえそれがどんなにつらかろうと、選べるなら常に後者の、能動的な死に方、別れ方を選びたい。 僕の意図する、「死を想う」とは、そういうことだ。半分もうまくいえないが、そういうことだ。 自分が死んだり相手が死んだりして、僕たちは結局自分の全ての大切な人たちと別れる。いずれ。「今を楽しめ」とかいう容易い言葉で片付けてしまうには、このことはあまりに重過ぎる事実ではないだろうか。 自分が死ぬときは、大切な人たちには、手紙を書いたり会って話したり、泣いたり、抱きしめてもらったり、握手をしたり、もしくは会っても少しも暗いそぶりも見せず冗談言って歌うたって過ごそう。きっとそのときどき、僕のやり方、死に方、別れ方は違うに違いない。 大切な人が死ぬときは、もしもその人にとって僕が「別れ」に足る人間だと僕自身が信じられるなら、そばにいよう。彼または彼女が僕に対してしようとする、長かったり短かったりな、思い思いの「別れ」に参加しよう(それはときに「別れない」と誓い合う別れだったりもするだろう)。 大して僕がその人にとって重要じゃないだろうと思うなら、彼または彼女が元気だったころの記憶を思い出したり忘れたり僕の側で勝手にしながら、でもとりあえず彼または彼女のやせ細った体やつやを失った顔などを勝手に見に行くのは、やめにしよう。 僕は生きる。死にたくない。だって人生楽しいもの、これでもかと生に固執して生きてやるともさ。 ただし死を想いながら。僕は別れのことを忘れないでいたい。

有神論的無宗教、とか?

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05 9

 久しぶりの投稿。文章を書くというのは難しい行為だけど、それを通してしか気付けないことというのが確実にあるから、書くことで何かが学べそうだと思われるときには忙しくてもTwitterをやめて筆をとるべきですね。なかなか難しいことですが。     *  *  *  *  *  僕はごく普通の日本人で、よくある通り普通に仏教の一派を家の宗教として持ち、祖先やおじいちゃん、亡き母をその下に埋めるお墓も地元の寺にあり、まあそういった活動に真剣味はないにせよ、別段反対する理由もないので盆には墓参りもするし、法事にも参加する。しかし自分は仏教徒なのかと問われるとちょっとよく分からない。中高は仏教校に通ったけど、理事長が坊主だった、時々ホームルームの代わりに坐禅があった、部活のランニングでは寺の階段や裏山をよく走った、という程度のこと以外は普通の学生と変わらなかったと思う。学部と修士課程はキリスト教の大学に行ったが(しかも前者はプロテスタントで後者はカトリック)、それは単にそこにあるカリキュラムに惹かれたから行ったまでで、入学式などの強制的なもの以外は一度も教会で説教を聞いたこともないし、聞こうとも特に思わない。本当に僕はそういうのはどっちでもいいんである。無宗教、ないし無信仰というのが実にまっとうな形容だと思われる人間である。  無宗教・無信仰であることを僕はそれなりに自分のこだわりとして持っていて、大学時代に歌好きだったことから合唱団に入ったわけだが、その時もコンサートでミサだの黒人霊歌だの宗教曲という類のものを歌うことには抵抗があった。積極的にキリスト教を支持するつもりがない(が否定するつもりもない)自分がそんなの歌っちゃうのは無責任だろうと思ったからだ。先輩にコンサートのそれらの宗教曲のステージに関しては歌わない方向でお願いしたいと相談したこともあったように思うが、たしか「新入生が全ステージ乗るのは当たり前でしょ」的な論理で説き伏せられた気がする。あーまあじゃあ伝統だってんならそれを曲げてまで頑固に歌わないというほど「無宗教」が強いバックボーンとして自分にあるわけでもないしなーと思い、結局流れで歌ってしまったものだが(しかし合唱やるなら宗教曲やらなきゃいけないっていうのはぶっちゃけちょっとした部の傲慢ですな)、まあともかく、そういうふうに色んな意味で僕は宗教にこだわりが無いんです。  ところでアメリカ留学なんぞをしていると当然周りはキリスト教信者が大半を占める環境にいるわけで、その中には毎週末教会に通うとか、教会主催の活動に積極的に参加するとかいう敬虔なキリスト教徒の人だっているわけですね。先日そういう敬虔な人のひとりが「私が今までにした一番素晴らしいことはキリスト教者になったことだと思う」「私はこういう活動(彼女のやってる教会の活動)を通して願わくば全ての人がキリスト教の素晴らしさを知って、そして願わくば全ての人にキリスト教徒になって欲しい」というようなことを言っていたのを聞いて、なんだか違和感を覚えずにはいられなかったので、「宗教と政治の話はご法度」というのは知りつつも色々と訊いてみた。まあopen-mindedな子だったので色々答えてくれた。  要するに、キリスト教の教えでは、神に救われるためには神にしっかりと自らが罪深き者であるという宣言、及びその上で神に向きあって真摯に赦しを求めるというジェスチャーが必要であり、そしてその罪を認め赦しを求めるという行為こそが所謂「洗礼」という儀式であるということらしい(まー一時はキリスト教の学校に行っておきながら僕はそんなことも知らなかったわけだが、まあこと宗教に関しての無知を僕は特に恥じるつもりはないので(これは僕にしてみれば単にトリビアの一つ)それはそれでいい)。①神は積極的に洗礼を通して自らの罪を認め赦しを求めた者のみをお赦しになってくださるわけであって、②全ての人類が等しく幸せになって欲しいし、そして人の幸せの最高の形とはつまり神に赦されることであるからこそ、③全ての人にキリスト教者になっ(て神に救われ)て欲しいと、まあそういったことらしい。僕はここでいう①で想定される神様ってのはずいぶんと気前の悪い人だなあ、全知全能ってんならケチケチしないで誰でも彼でも救ってくれりゃいいのに、と思ったが、まあ①を強く信じることに決めた人たちに対して特にその個人的な決断を積極的に支持するつもりもなければ反対する理由もないんで、ははあそうですか、とそういった感じでした。  ただ、①や②の想定をした上で、キリスト教徒となり、神に救われたと信じ、神からの愛・赦しを心から感じて感謝することができ、赦されたという安心感を常に持ち続けることが出来るというのは、もしそれがやれたなら実に精神衛生上好ましいだろうな、というのは客観的に考えても分かるような気がする。そういう一連の精神形成が好みにあうような人は積極的にキリスト教徒になっていけばいいんじゃないでしょうか。それは僕とは違う人生だろうと思うけど、いや、応援しますよ、そういう人がいたら。  ただ、それを言った上で、やはり「すべての人類にキリスト教徒になって欲しい」というのはそのままでは納得できないなあ。どうしても傲慢なように思えてしまう。①、②の仮定を受け入れるってのは個人の自由でしょうから、それを根拠に③と結論づけられてもこっちは知らんよ、というね。だから「①、②は非合理的な想定だし、それを受け入れる入れないもこっちの自由でしょ」、とその友人にはいっておいた。彼女は自分の言いたいことを100%僕に伝えられなかったと感じて悔しかったようですが、それでも①,②が非合理的な想定だということは認めていた。  しかし彼女が言うには、「キリスト教徒になるということは私が人生の中でした最も非合理的な、しかし最も素晴らしい決断だった」ということらしい。なるほどねえ。  ところで、言語の神秘に魅せられ、その謎の解明に幾許かでも貢献をしたいと願って言語の自然科学(biolinguistics)を追究している者として、僕はこの宇宙に内在する大いなる神秘的な力が存在することをこれでもかというくらい信じている。宇宙がある特定の統一をもって厳然としてそこにあ(りえ)るという事実、地球が形成されえた偶然、そこに生命が誕生しえた奇跡、それが遺伝子というblueprintの微細な変異を通してかくも多種多様な生態を創り出しうるという謎、その中にヒトが現れ地球46億年の歴史からしてみればまばたきひとつにも満たないこの短期間でこれほどの文明社会を築き上げたという驚き、そしてこのヒトという生物種の経験世界を色濃く決定づけている心的世界というものがこの物理的世界に現れえたという神秘、そのヒト特有の心的世界をまた色濃く特徴付けているこのヒト言語というメカニズムが現れ(え)たという不思議——数え上げればきりがないほどの神秘に我々は囲まれている。それら数えきれない神秘が可能であったという事実は、即ち我々人間が現在の文明では決して解明できていない(そしてもしかすると人間がその文明で解明し尽くすことが原理的に不可能であるかもしれない)ような、この世界を統一的に支配する大いなる神秘的な力の存在を仮定するだけの十分な根拠を与えてくれる。それは自然法則というカバータームで呼んでもいいだろうし、好みでそれを「神」と呼んでもいいのだろうと思う。人知の及ばない力の存在に深く驚き、そしてそのまだ見ぬ相手を狂おしく知りたいと願う好奇心をある特定の対象の研究という営為に落としこんで実践する者、それが科学者であろうと思う(なぜヒトが好奇心を持つのかはところで人性を決定づけるまた別の大いなる謎だ)。神秘を認めることと科学者であることとはその意味で矛盾しないばかりか、むしろある意味で神秘への驚き・憧れは科学者であることの本質的な必要条件ですらあるのだろうと思う。  よって僕は「神の存在を信じる」という言い方で自分の人智を超えた神秘への憧れを語ることができるし、そうすることが嫌いではない。よって僕は有神論者(theist)である、と宣言することができる。無宗教でありながらも。  というわけで、無宗教であることと有神論者であることもまた矛盾しない。僕はこの人智の及ばない神秘への単純な憧れを何教とも呼びたくないし、またなになに教が語る特定の「神」とこの神秘の源泉をby assumptionで同一視してしまうという非論理的なステップを個人的に踏みたいと思えないんです。だからしない。  かつ、宗教というのは、少なくとも僕の知っている範囲では大抵がこのステップだけに留まらず、プラスアルファで神の神性を100%実現した特定の個人(イエスなりムハンマドなり)というのを想定しその個人を崇めるというextraな部分を持つことが多いように思われるから、それもなんだか自分としては受け入れたくないものです。  もちろんそういう想定の数々を信じる人、そうすることに決めた人がいてもそれはそれでその人の個人的な決断ですから尊重しますよ。単になんというか、そういうのが僕の好みに合わないから個人的に僕はそういうことはしない、という、それだけのことです。  しかしまあ、その上で、ヒトが宗教を作りだしたということ、というかヒトという種を規定する遺伝的特性と環境的要因の相互作用が宗教を創りだすことをヒトに可能たらしめているという事実は、それ自体として非常に面白いし興味深い。なぜヒトに言語が可能であったのか、とか、なぜヒトに数学が可能であったのか、なぜヒトに道徳があるのか、というようなことを問うのと同じレベルで人類学的・ヒト生物学的に面白い気がする。上でいうキリスト教なんてのも実に巧妙なそれ自体として面白い構造をもった作品・芸術ですね。すごいよなあ。  ともあれ、そんなわけでですね、僕は積極的な有神論的無宗教です。当面はこれで行きます。これを他人に勧めるつもりも全くないが、まあ自分の信念としてね。こうあることで例えばキリスト教の想定するような永遠に赦される喜びなどの精神衛生上好ましい類の心理を自分の中に形成する機会を失っているかもしれないというのは重々承知しつつも、とはいえだって僕は、非合理的な一群の想定をとりあえず信じきるところから始める、という精神行為がどうしても自分にあっていると思えないんだもの。だからキリスト教徒にはならないだろうし、仏教徒にも特にならないんじゃないかなあ。別に自分ちの墓に入ることにさしたる抵抗はないけど。  そんなでした。

誰が、何が目的で、何をすべきか (その1:日本の医者に関して)

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01 9

 僕の中学からの同級生に今年度から研修医として勤務を始めた医者の卵がいる。仮にKとしよう。つまりドクターKである。親の代から医者というサラブレッドで、実際中学のときから優秀なやつだったし、よい医者になってくれればと思う。自分が将来手術なりなんなりするときはあいつにファーストなりセカンドなりのオピニオンをもらいに行こうと思うし、入院するならやつを主治医にしたらなにかと面白そうである。  さて、新年明けた1/3、Kの家に泊まって夜通し彼や友人たちと話をする機会に恵まれた。誰が結婚するの別れたのいう話で盛り上がったり、また友人が俺たちファミリーに対して一年以上彼女ができたことを隠し続けていたという不義理を働いていたことを激しく糾弾したり、などなど、話題は多岐にわたったが、その中でも特になるほどと思ったのがKの医者としての立場からのマスコミ批判であったのでここに記する。  医師不足とそれに伴う医療労働者たちの非人間的な労働環境がいろいろと取りざたされて久しい。特に産科医や小児科医などは本当に壊滅的にやばいらしい。Kによればマスコミの報道などがそういう流れに相当な拍車をかけているという。  お産というのは、本来的に母子ともに非常に危険な状態であり、いってみれば子宮内に大量出血をしているようなものだという(医者がつかった表現なので多分間違いあるまい)。それが胎児なり母親なりの身体・生命を時として脅かし、時には死に至ってしまうということも当然十分にありうることなのだが、しかしとかくお産ということのめでたさ・ないしめでたいものであるというデフォルトの期待が、そういう部分を見えなくさせる。だから人は一般にお産というおめでたい行為によって母親や生まれてくる子、ないし両方の生命を失うということが許せない。そんなことが起こると、まるで産科医をあだ討ちのごとく責めつらい、訴訟なんかを起こして徹底した追及をする、ということがしばしば起こる。あまりにもそういうのが当たり前なので、むしろこの間「担当の産科医を訴えることはしません」という発言をした遺族のほうがさも珍しいこと・例外的なことであるかのようにマスコミに取りざたされた、とのことだ。日本のこういった医療訴訟の場合、ほとんど常に患者側が勝訴するらしく、なので医者の側は医師免許剥奪だの賠償金だのいろいろな苦しみにあう。  同じようなことが生まれたての、自ら自分の生命を守り抜く力などまだないような赤ん坊にも言えるし、だから小児科の先生方も同じような苦労に常に直面する。  こういうお医者さんが自分の仕事を割に合わないと感じるのは当然だろうとKは言う。日本の医師に対する診療報酬というのは基本的に一律と設定されており、言ってみれば風邪の検診や眼科の検診と労働対価としては全く差がないということになる。すると当然ながら、風当たりの強くないような眼科なんかに若い医者が流れていく。若い医師を獲得できない産科や小児科はさらに人材不足によって労働環境が悪化していく。  たとえばある女性が急に産気づいて救急車で運ばれるとする。救急車は近くの病院に電話をかけ受け入れを請うがどこもいっぱいといって取り合ってくれない。結局そうやってもたもたとしているうちに胎児が死んだり女性が死んだりするとする。新聞が「またたらい回し!」などのセンセーショナルな見出しを書くことになるだろう。事情を知らない僕のような人間はこういう記事を見てそれらの病院の対応を「無責任」とあげつらい憤りを覚えるだろう。  しかしKの意見は異なる。きちんと妊婦検診などを定期的に行っている女性とその担当の産科医は、あらかじめ出産予定日や胎児の成長などのいろいろな情報を正しく共有することができるため、たいていの場合は実際の出産に際して予測に基づいた適切な対応をすることができる場合がほとんどだという。むしろいきなり予測もなく産気づき、担当医もくそもないままどっかの病院に搬送されるような女性の場合、そのほとんどが適切な時期に適切な妊婦検診を受けていないのだという。すると胎児の先天的な異常や妊娠の状態などについてあらかじめ病院側に全く知らされていない状態になるため、対応ももちろん遅れるし、その妊娠が非常に危険を伴うものであったりすることが「手遅れ」の状態で露見することもしばしばであるらしい。しかも出産予定日などにあわせて分娩室が予約されたりということもないから、実際問題として分娩室いっぱいで対応できないという病院があってもとりわけ不思議なことでもないのである。  しかしそんな事情を外側の人間は知らないし、だから新聞だって「たらい回し」と書くし、僕らはそれを読んで憤りを覚えるし、あおりを食って医療裁判は雨のように降りかかり続ける。そりゃ産科医もやめてくわ、という話である。そして、辞めてった人の穴を埋めるようにして現場の産科医たちは睡眠時間を削って医療労働に従事し、あくることない疲労と戦い続ける(疲労によるミスなどまたマスコミの格好のネタになるのだ)。  どっかの地方の大学病院かなんかで、一年間病院に「住んで」(=休みなしで)医療を行い続ければ5000万円の年収を出す、という産科医の公募があったそうだ。その額に僕たちは驚愕するが、さらに驚くべきはそれでもそこに応募しようとする医師がいなかったということだろう。産科医がおかれる未曾有の悪質な労働環境を示唆するできごとであり、きっとそれは氷山の一角でしかないのだろう。  産科が陥るこうした悪循環が改善されていくような兆しはどこにも見えず、またこのような問題を多かれ少なかれいろいろな科が抱えている、というのが日本の医療の現状である。   *  *  *  さて、こういった話を聞いたとき、僕はすごくマスコミの在り方について疑問を持った。なぜ「たらい回し」などのセンセーショナルな見出しをこの期に及んで書き続けるというのか。その目的は何なのか。  マスコミが組織や制度の不備や不正を指摘することは、それらの是正への道を探り、また再発防止のための監視的な役割を担うなどの「改善」へ向けてのポジティブな働きかけであるべきではないだろうか。しかし、ことKが語った上のような事例では、むしろ世論を煽るような記事を書き続けることで、直接間接産科医などに対する風当たりをいたずらに強くしていき、その医療行為に従事するものたちの気力を著しく挫いていく。そしてそうやってこの産科という医療現場は悪化していく一方なのである。  いったい、マスコミは何をしているというのか。その悪循環などただただ気づかずに、ということではあるまい。「一介の研修医」Kはむしろ彼のこういった指摘を医療に従事する者の間ではもはや「当たり前」の域に達しているような多数派の意見であるかのように語っていた。記者が取材を続ける限りこういった医師たちの意見が全く彼らの耳に入ってこないというのも考えにくい。  むしろ、近年のマスコミ側の人間が陥ってしまう方向性のひとつとして、マスコミが本来持つ監視機能の充足という健全な目的を忘れ、自身のメディアの増長(新聞や雑誌なら部数増刷、テレビなら視聴率、etc)などの狭い商業的な独善的な利潤追求にとかく走ってしまいがちになる、というようなことが考えられないだろうか。Kが意図していた指摘も、大まかに言ってこういうことだったのではないかと僕は思った。  僕は試しにKに、「そういう現状があることはわかった。じゃあKはKの立場でどうしたらそういう現状を改善していく方向に働きかけることができると思う?」と訊いてみた。Kは肩をすくめ、「さあ、本でも書こうか? それともマスコミの取材でも受けようか?」と言った。そこにどの程度の皮肉が込められているのか、僕にはわからなかった。付け加えて、彼は言った。「とりあえず俺がまず人を治せるようにならなきゃ話にならん」と。実に研修医然とした答えである。    *  *  *  医者の間で囁かれるこんな格言があるらしい。 「三流の医者は病気を治す。二流の医者は人を治す。そして一流の医者は国を治す」  Kは問題を知っている。しかし自分が個人としてこの問題に対して何ができるかと自分に問うたとき(ないし僕のような門外漢にビールグラス片手に無責任に問われたとき)、彼は彼自身が諸々の状況を悪化させるばかりと指摘したばかりのマスコミを神頼み的に名指すくらいしかできなかった。  しかし、それが皮肉であったか如何にかかわらず、たぶんKはある程度正しい。おそらく上のような医者を取り巻く状況を悪化させるように働いているのもマスコミだし、またそれの改善へ向けての効力を発揮できるのもマスコミなのだろう。馬鹿と鋏は使いよう、ということか。  僕はどうも気持ちが無責任なまでに若い。一般に、問題の所在を知りながら、それに対して自らが無力だと諦めることを自分に許したくはないし、また友達に許したくもないのだ。  そんな無責任なことを言っていられるのは、おそらくは僕が真の意味での挫折を経験したことがないからだろうなあ。おそらく自分自身で設定した人生の目標が「ヒト言語の計算特性の解明」なんていう(社会で生きることの複雑さをその問題設定上全くinvolveしないという意味で)単純すぎるものであることもその無責任な若さを助長するのだろう。  Kはそんなわけで今、とりあえず上の意味での「三流」ないし「二流の医者」になろうと熱心に勉強中である(彼女と遠距離になってまで!!)。が、僕は勝手に彼が上の意味での「一流」になり、彼をとりまくそんな状況をいつの間にか打開していってくれることを無責任に若く願ってしまう。がんばれ、K。