"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

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成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売

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お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。 第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。 言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。 Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k よろしければ!

上野顕太郎『さよならもいわずに』を読んで

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以前凹レンズ 〜まとまりのない日記〜にて紹介されているのを読んでから気になっていたマンガ、上野顕太郎『さよならもいわずに』を帰国と同時に購入し、今日読了。 「マンガ表現の新しい可能性を見た」などと紹介されていただけあって確かにコマ割りの工夫や、リアリティと幻想と空白とランダムなインクの染みなどが一つのコマ内に同居するような描き方など独自の面白い手法がたくさんあった。上記ブログでも面白いレビューをされているので参考にしていただきたいですが、ともかく「これはマンガでしかできない」、というような工夫が随所に見られます。そしてそれらの工夫が愛する人を喪う一連の経験と連動して揺れ動く得も言われぬ心情をどこまでもリアルに表現するために機能している。 近年従来的なテレビ、ラジオ、映画、紙本の形態で読む雑誌、論文・論説・エッセイや小説、マンガなどの既存のメディアに加え、ホームページやYoutubeなどの動画投稿サイトのみならずブログ、SNS、Twitter、UStream、電子書籍…というふうにかつて無いスピードでメディアの形態が広がり、世界総表現者時代とでも呼ぶべき時期を我々は経験しています。そんな中僕は(そういう「ロングテール」に属する表現者の一人として)「どういう内容をどういうメディアに載せて発信するのがどういうメッセージを伝えるのに適しているのか」ということを考えるのが楽しいと思っているのですけど、このマンガはことマンガという視覚表現を考える上で参考になりました。 まあそういう「外枠・箱」への興味に比べ、「中身」への感心という意味では僕は個人的には誰にでもお薦めしたいという風には思いませんでしたが、ともあれ興味のある方はどうぞ。僕はやはりこういう近しい人の死にまつわる話をどうしても母を亡くした自分の経験に引き寄せて読んでしまいますんで、嗚咽しながら読んだ『ブラックジャックによろしく』のがん篇のどんぴしゃ感とかに比べたら…、というような、非常に個人的な経験に基づく相対的な評価です(僕の母は膵臓がんだったので黄疸が出て入院してやせ細っていって西洋医療に絶望して出口のないままもがきながら…ていう流れが『ブラよろ』(と訳すか?)のそれとまあ重なる重なる、という感じだったもので)。 でも、「そうそう」とか思う場面も少なからずあった。その中でも特筆すべきは以下のくだり。うつ病を患っている奥さん(キホさん)が心臓麻痺で死ぬ前日の描写、抗鬱剤の作用で集中力が持てず本などを読めないとこぼすキホさんが「ごめんね」と呟く。上野は「別に何も悪くないよ。薬が効くのが遅いのかもしれないね」と特段表情も変えずに言うのだが、心の声で彼はこう呟く: 私はいつもキホの病気を恐れていた  日常が崩れてしまうのを恐れていた  予定が狂ってしまうことを恐れていた  一番つらいのはキホ自身だというのに  この時私は思ってしまった… こまったな やっかいだな めんどうだな …………と  あやまるのは私のほうなんだ……… 上野顕太郎はキホさんを心臓麻痺という突然の出来事で亡くすのだが、それは僕の母ががんを宣告されてそうだと認識をしながら段々と死に近づいていく感覚とは異なる。が、それにつけてもこれはとてもリアル。がんが発覚し入院している母を日常的に見舞いに行く日々や、残り少ない時間を家で過ごしたいという母の希望のために料理を覚えたり通院のために車を出したりという日常でも、この言葉で語られるような背徳感を僕だって抱いていた。表現者としてのプライドがなせる業なのか、ないし「この出来事をマンガで表現するんだ」という使命感に支えられたものなのか、そんな得も言われぬ後ろめたさをこういうリアルな言葉でこういう形で想起し告白する上野の気持ちはいかばかりのものであろうか。 ところで、僕は上の言葉で表現されるような背徳感のようなものを自分も抱いたことがあることを認めるが、そういう後ろめたい感情だけで母との闘病生活の時期を過ごしていたなんてことは全くないし、何の恥ずかしげもなく自分で自分に肯定できる愛だの慈しみだの献身だのの感情だって持っていたことを僕は自分で知っているから、今更そのとき背徳感を持った事実に背徳感を持って落ち込むなんていう不毛なことを僕はしない。 そして思うに、上野がその時期を「あやまるのは私のほうなんだ」と後ろめたい気持ち「のみ」で過ごしていたということはあるまい。上のように呟く彼の中にも同時的に愛があり、慈しみがあり、献身があったはずです。 さて、ヒト言語というのは、少なくともそれが音声化されて心/脳の外に出てくる限りではその音声形式は単線的な構造を持っており(音声形式の背後にある句構造はもっと豊かな構造を持っていますが、それは別の話)、後ろめたさを告白する文と「同時に」他の内容を伝える文を出すことができません。「2文以上を同時に表現することができない」というヒト言語に関する経験則は僕は人の口蓋器官が形成しうる音声の単線的特徴によって規定されているものなのかと思ってましたが(十分に調音された音を2音以上同時に口で発することはできない)、友人にきいた限りはおそらく手話の方でも(2本の手や表情筋など表現に参画する器官が複数個並列的に存在しうるにも関わらず)この経験則は適用されるようなので、モダリティを超えでたなにかもっと深い原理がそこに関わっているのかもしれません。ヒトは考えるときはもっと色々なことを同時多発的に思っているんだろうという個人的直感があるんですが、なぜ言語を通すとこうも単線的な表現ないし知覚しかできないんだろう。不思議。 で、マンガというメディアもやはり部分的にヒト言語の表現形式に依存したメディアであると思いますが、上野が上記の後ろめたさを告白するという言語行為をする際、コマ全体も暗い色調、人の描写にもどよーんと陰がかかり…、というふうにページ全体が言語的にも視覚的にも「あやまるのは私のほうなんだ」的雰囲気に満ちています。『もっとキホが生きているうちにできることがあったんじゃないか』と悔いる日々を描くマンガのストーリー進行上この告白のインパクトというのはかなり重要なので、上野が表現者としてここで視覚情報全体で「どよーん」感を演出することを選んだということに僕は当然何の文句もないんだが、じゃあ上野のこの表現に限らず、「「ヒトが複数個の相反する感情を同時的に有機的に連続的に多発的に抱きうること」を何らかの形で率直に表象するような表現というものは可能なのか」、という問いを問うてみるのは面白い、と思った。 言語文で意味内容を表現することが(なぜか)「2文以上を同時に表現することができない」とするなら、そういう同時性の表現は言語のみの描写ではないのかもしれない。いや、あるいは言語での表現にあくまでこだわり、時系列的には一瞬の出来事であってもそこで起こった感情を数十ページにわたって詳細に述べ連ねるというのもひとつの手なのかもしれない。 しかし、何かを言語で語るということは他のすべてを言語で語らないこととイコールであると思われるので、難しい。 それでは言葉で何かを表現しつつも視覚や聴覚情報などでは別のことを表現しようとするという形態はどうか。ないし、あえて言語を全く離れてしまってはどうか。ピカソの絵などの絵画なんかがもしかしたらそういう方向性、言語というメディアの構造的制約を離れた表現の可能性を追求する一つの試みなのかもしれません。僕には絵画はよく分かりませんが。 人の心・感覚のリアリティをどこまでも追求することがあえてビジュアルや言語そのものの単純なreproductionを離れることをもその可能性の一つとして内包する、というのは面白いですね。 しかし人が人の感情を表現するときの言語の持ち味とというのはなかなか他の感覚情報に置き換えづらい何かを持っているというのも事実かと思う。そしてヒトもそれぞれきっと言語を使って自分の中の得も言われぬ感情を理解しようと努めているわけで、特定の形式制約を持ちつつもかなり効率的な情報整理の方式が「言語化」であるとしたら、我々のエピソード記憶の多くも多かれ少なかれ言語を介してこそ保持可能になっているのやも知れぬ。いやはやとても難しいですね。 ま、何の結論もないですが、そんなでした。

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ:その2

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01 10

前回、前々回のエントリーに関して@wataruuくんからまた別のフォローアップの質問をTwitter上でもらいました。 成田さんはある種理論の”packaging”をしているように思われるのですが、internalistでありつつモデル論的意味論を採用することは可能ではないでしょうか。…(続く) あと、internalistになった途端に、意味論はsyntaxになる、というのがよく分からないのですが、教えていただけますか? 今回はこれに応えるエントリーを書きます。 まず、「形式意味論ってのは結局syntaxとして解釈されるべきもんですんで」っていうのはチョムスキーが最近いろんなところで口を酸っぱくして言ってることですんで、別に僕が最初に言い出したなんてことは全然ないですからね。その前提での僕なりの私見(つまりチョムスキーの意図とは違うかもしれない僕個人の意見)を以下に述べることにします。 「”packaging”してるだけじゃん?」と@wataruuくんが言う意図はわかるような気がして、つまり「なんでsyntax/統語論と別の理論であるべきsemantics/意味論をまで”packaging”してsyntaxとよばなきゃいけないんかい?」っていう質問なのでしょう。これはまあ基本的には用語の問題で、LSLT以来の術語を使って「The theory of linguistic/mental form and its formal manipulation (with no explicit reference to the way in which it is put to use)」としてsyntaxを定義するなら、現行のmodel-theoryの計算というのはその広い意味でのsyntaxと捉えるのが一番妥当だ、というのがまず基本的な点です。 さて、ここでまず有りうる反論1:「いやいやいや、「linguistic formがどう使用されるか」に関するある特定の形式的手続きによる記述がmodel-theoretic semanticsなんであって、そうであるならそれは上の()部分の条件を満たしていない以上syntaxではない」  ⇐この立場について最近のエントリで僕がいっているのは、そういう形式的意味記述が面白いデータを提供しているらしいってことについて僕は文句ないってことです。そういうデータに関してはやはり来るべき説明理論を求める、ということで、説明を目指すということはイコールsimplest possibleな理論を求めること、そして願わくば(おそらく自然法則が導きだしてくるところの)simplicityという概念そのものを説明項として利用する可能性を追究することで、まあそれはつまり意味の問題に関してもminimalist programで研究をすることでしょうね(Goodmanの路線:Goodmanのsimplicityの概念がChomskyによってどう言語理論に応用されてきたについての簡明なoverviewに関してはTomalin 2003, Linguaがとても詳しい)。そこでnarrow syntaxがどれだけ主要な役割をはたすことになるかは経験的な問題ですが、すでにLSLT, Syntactic Structuresで示されているようにnarrow syntaxの意味の問題に関する強い説明力は疑い得ないでしょうから、じゃあこのnarrow syntaxをどこまで強い説明項として利用できるかを問うというのは意義のあることでしょうな。それがChomsky-Hinzen-Uriagerekaの問いでしょう。 でま、この反論1によると意味論が記述しているのはlinguistic formでは「なく」「それの使用の仕方だ」ということになるんで、この方向で意味論の射程を解釈する限りにおいては@wataruuくんの「packagingしてるだけじゃん?」っていう批判はあたってるってことになるのかな。 しかしここで注意すべきは、この路線を求めるということは本来的に「言語の使用に関する理論は作りえない」という後期ウィトゲンシュタインの強い批判と対峙しなくてはならなくなるということなんです。言語使用というのは「暑いね」と言われたらそれが「クーラーつけて」とか「アイスクリーム頂戴」というリクエストの意味にも「お前の部屋換気もしてねーのかよくそったれが」という非難の意味にもとれたりとか、そういう徹頭徹尾形式的記述を拒む複雑な人間行動の全体を指すわけで、その全てをformal semanticsが記述しおおせる(ましてや説明しおおせる)可能性はないでしょう。デカルト以来”creative aspect of language use”というのが徹頭徹尾理論的説明を拒み続けていることを言語学者・言語哲学者は無視できません(Cartesian Linguistics (またその3rd editionのイントロby McGilvray)、New Horizons in […]

早稲田で講演: 言語学、認知革命、自然主義

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先日早稲田大学の久野正和准教授にゲストスピーカーとして彼の授業に呼んでいただき、「言語学、認知革命、自然主義」というタイトルで講演させていただだいた(2010/7/2)。久野先生とは上智・ハーバードの先輩後輩の間柄でよくお世話になっているのだが、そのご縁で50人以上の学部生の前で話をさせてもらえる機会を今夏は2回も与えていただけて恐縮至極である。今回は2回目で、1回目よりは時間配分等改善が見られたが、まだまだ平易な言葉でリズムよく話を進めるのがまだまだ不得手で、また説明ベタのせいでところどころ話の無駄な重複もあり、反省点の多く残る講演となった。前回は特に学生に配るものは何も用意せず講演メモのみで臨んだせいで時間配分を失敗した経緯があるので、今回はある程度話の流れをつかんだシノプシスを載せた両面一枚のハンドアウトを配らせていただいた。まあこのままではこれ以降誰も読み返していただく機会も与えられないままお蔵入りになってしまいもったいないので、誰かの参考になるかもしれないということで一応そのハンドアウトを以下に一部加筆修正を加えた上で転載する。ご参考まで。なお、僕はもともと哲学をやろうとして大学に入り、言語哲学→言語そのものというふうに興味の対象がシフトしていったという経緯があるので、言語学も好きながらこういう言語学が与える科学や哲学への示唆のような話もすごく好きでして、そのため普通の職業言語学者よりも多少は多くその類の論文を読んでいると思う(まあ言語学者をやる以上ある程度このたぐいの勉強はマストだと思うが)。この方面でもノーム・チョムスキーの思想の深みは絶大なんですね。こういう事に興味がある人はこの投稿の一番下にあげた参考文献等に手を伸ばしていただくといいと思います。僕自身がこのたぐいの問題について述べたものということなら、最近書いたブログ(「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について)、および拙著The naturalist program for neo-Cartesian biolinguisticsをとりあえずは挙げておきます(後者は英語ですが)。*  *  *  *  *  *  *  *  * 言語学、認知革命、自然主義 成田広樹 2010年 7月 2日 (金) 早稲田大学 生成文法成立以前の「こころ(mind)=白紙(tabula rasa)」という経験主義的精神観(要するに経験のみによる言語習得説) その背後には行動主義(behaviorism)や論理実証主義(logical positivism)などからの強い影響があった 「自然科学の対象は「観察されたもの」(observables、典型的にbehavior)に限る」というドグマ  それを特に言語に当てはめれば、「 観察しうる言語表現(=E-language)が言語の全て」という想定に繋がる チョムスキーは自らの生成文法研究を通してE-language から I-language へ言語研究の対象をシフトすることを提唱した E-language: 外置された言語表現の集合、 I-language: (原理的に無限個の)言語表現を生成する脳内の計算システム 20世紀中葉の「認知革命」(cognitive revolution) ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)らによる変換生成文法(transformational generative grammar)の理論 デービッド・マー(David Marr)らの視覚の研究 オカルトの領域と思われていた心の領域においてもその内的メカニズムの数理的研究が可能だということを彼らが説得力をもって示した  刺激の貧困(poverty of the stimulus)という存在証明の論法の力強さ 教えられてもないのに出てくる言語の普遍性が数多く存在する  構造依存性、  回帰性、  移動規則の遍在性、  普遍的な島制約の数々、等々 習っていない、後天的な経験を通しての学習からではどうしても説明がつかないこれらの特性は生得的にヒトに与えられている、と考えるよりほかない ただし、ヒト言語特有の生得的知識の内容が豊かになればなるほど、どうしてそんなメカニズムがヒトの進化の過程で現れたのかという進化論の問題への回答が難しくなるというジレンマがある 言語のデザインに関する三つの因子(three factors of language design)の概念による論点の整理 ヒト(言語)特有の遺伝的特性 genetic […]

「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について

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心身二元論という哲学的・形而上学的言説があります。自然界には物質の世界と心・精神の世界のふたつがあり、このふたつの世界はかなりな程度断絶されていて、それぞれまったく異なる法則や実体によって支配されている、というような考え方ですね。それ以前にもそれ以後にもそれに似た自然観は存在していたものと思われますが、デカルトのそれが最も有名でしょうしまたこれから続ける何回かの投稿に最も関わりが深いと思いますので、とりあえずはその定式化を紹介します。 デカルト的心身二元論によると、物質の世界はいわゆる有限の体積および質量を持つモノどものがひしめく世界である。この物質の世界における運動は、単純にモノとモノがぶつかり合って運動エネルギーが伝わるというような「接触による伝導」という形で、そのような形のみによって実現される機械的な世界です。一方こころの世界は、なんだかよく分からない思推実体や霊魂などの世界である。どういうわけだか脳の下垂体あたりの位置にこの精神世界のベンチのようなものがあるというふうにデカルトは言っていたんですが、まあそれ以上はよくわかりませんね、という、なんというか不明な世界だった。 ノーム・チョムスキーが著書”Language and nature” (1995, Mind収録)やNew Horizons in the Study of Language and Mind (2000)などで指摘しているように、デカルトの形而上学的二元論(metaphysical dualism)というのはその実「自然はこういうふうにできている」という経験的な仮説(hypothesis)ないし予想(conjecture)だったと考えられます。この予想を提出するデカルト側の動機は(他にもあるかもしれませんが)とりあえず大きく分けて2つありました。まず第一に、後に物理学と呼ばれていくような一大研究プロジェクトをデカルトが立ち上げようとしていたとき、人間の思惟の問題はどうも物質およびその接触による運動がどうのという方向性ではとても説明し尽くしようがないなにかがあるということに彼は気づいていました(デカルトのこの辺の思想史的事情はもっとずっと複雑ですが)。そこで、数学的に明晰に物事を把握するという探究の仕方を、とりあえず心の問題はカッコに入れて進めてみよう、というふうに決めました。ですから、二元論的にモノの世界を心の世界と独立のものとしてとりあげるというのが、彼にとっての数学的明晰性をモットーとする物理学の構築にとって必要なガイドライン・working hypothesisでした。また、より重要なことに、この形而上学は「接触力学を極めることで(少なくとも物質的な)世界の理を極めることができるはずだ」というデカルトの壮大な楽観を裏付けるバックボーンでもありました。実際、モノの世界なんて結局のところそれくらい単純なものなんじゃないか。それくらい単純なモノの世界に関してなら、接触による運動っていうこれまた単純な概念のみを通して究極の説明理論を作ることができるんじゃないか。とそういう楽観的な野望がデカルトにはありました。 いってみれば、デカルトの形而上学的二元論とは、接触力学としての物理学が到達しうる世界把握に関して、彼がもつ期待の最大値をあらかじめ表明したものだったんです。心のことは(この方向だけでは)分からんだろうけど、モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち!!っていうね。 接触力学でそこの法則すべてを看過しうる(と期待される)世界としての物質の世界と、その探究においてはとりあえずカッコに入れられてしまった別次元のものとしての心の世界。このモノと心の二元論的断絶は、デカルトの提示する機械的物理観が経験的に正しい仮説である限りにおいてその信憑性が高まります。しかし、これは口を酸っぱくして言っておかなきゃいけないんですが、デカルトの機械的物理観はニュートンの万有引力の発見によって完膚なきまでにぶっ潰された。ご存知のとおり、万有引力は、質量を持つ2つの物質が互いに接触を介さず引き合う引力である。「接触を介さず」というのが味噌で、これは接触力学を唯一の原理とすべきデカルト的物質世界においてはあり得ない力であったわけです。こういう接触を介さない力が重力加速という根本的な運動現象を生み出すということが知れた以上、デカルト的なモノの概念、接触力学のみをもって把握しきりうる「閉じた」物質の世界というのは実際のところ間違っていた、ということにならざるを得ない。この結論は当時のデカルト的自然観に慣れ親しんでいた哲学者たちにはおよそ受け入れがたいものであったし、それゆえニュートンの仮説は「せっかくデカルトが純粋化した物質世界にまた幽霊みたいな”オカルト”力を持ち込んできやがるトンデモ仮説」としてさんざっぱら批判されたそうです。面白いことに万有引力を発見した当人のニュートンすらもそう思っていたらしくて、ニュートンは晩年にいたるまで自分の発見した万有引力の接触力学的根拠を明らかにすること、デカルトの機械的物理観と万有引力の間の矛盾を何とか解消する糸口を見つけることに専心したといいます。ニュートンのその努力は結局のところ報われることはなく、結局彼は諦観をもって”I frame no hypothesis”とつぶやきましたとさ(この”I frame no hypotheses”はまるで反理論主義、実験・データ・観察至上主義を支える言明として権威主義的によく引用されるようですが、少なくともニュートンの意図を汲む限りそれは曲解だと考えるべきでしょう)。 と、いうわけで、デカルトが物質世界の究極理解を夢見た接触力学原理主義的研究プログラム、およびそれを支える経験的仮説・予想だった心身二元論はニュートンによってものの見事にぶっ壊されてしまった。まあ経験的仮説が後日新たなデータ・発見によって覆されるなんてのはよくあることなんで、それ自体はむしろ理解が深まったということで歓迎されるべき発見なんですけど、しかしそれにしても、デカルトの形而上学的心身二元論が既に経験的反証によって瓦解してしまったことの意義は十分に現代人たちに認識されているとは言い難い。 ひとつ大きな結論としては、ニュートン後、我々はもはやそれによって立つべき明晰なモノの概念、モノだけの「閉じた」世界という世界像を描くことができなくなった、ということがあります。モノの存在や運動の背後にある原理は接触力学なんていう偏狭な理論じゃ全く語りつくせないような、人智を超えた神秘的な力に満ち満ちている。事実その後の物理学には、万有引力を皮切りとして、電磁波、一般相対性、量子、などなど、なんというか「手で触れられる」みたいな常識的なモノ観なんかの遥か外にあるような概念がどんどん入ってくるということが科学史的事実として起こってきた。結果として、我々は今、そういう物理法則の類が実際に力を及ぼしている範囲についての原理的な理解を有していない。デカルトの機械的物理観亡き後、モノの世界は接触原理のみに「閉じて」いなくなった。そして僕たちは「モノ」や「物理法則」の範囲をどう「閉じ(なおし)て」いいのか分からない。 もうひとつの結論は、「(心のことは分からんだろうけど)モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち」っていうデカルトの楽観的予想がもろくも崩れ去った今、心の世界とモノの世界を二元論的に峻別する経験的・理論的根拠はもはやないのだ、ということです。モノが物理学(などの自然科学)が扱える範囲であり、心はその蚊帳の外のオカルトなんだろう、というのがデカルト時代の「科学者たち」の一般的な想定であったが(ちなみに自然哲学が自然科学と哲学に分離させられていく方向性をこの二元論的想定が助長していったのは間違いない)、先の段落に見たように、いまやもう「モノ」の世界・物理学の世界は閉じていないのである。閉じ方を知られていないのである。だから心とモノの境界線だってどうやって引かれるべきかも分からない。というかそもそもデカルトの研究プログラム亡き後、そんな境界線を引く科学的根拠すらも今のところ与えられていない、という状態なのである。 よって次のようなことが起こりうる。ひょっとしたら、今まで心の領域と呼ばれていたもののどこかに、モノの世界で観察されるような物理法則の影響を見出すことがありうるかもしれない。逆も然りで、もしかして心の領域に関わるとされる何らかの法則の影響を実はモノの世界の方にも見出しうるのかもしれない。物理法則がモノだけでなく心の現象の一端をも説明する統一的原理として再認識されることがありうるかもしれない。逆もまた然りかもしれない。モノと心の世界は結局のところ閉じていないのかもしれない。互いに素ではないかもしれない。形容矛盾でもなんでもない「心の物理学」(mental physics)というものが(例えば「化学現象に関する物理学」(chemical physics)と同じように)将来的に可能なのかもしれない。 ある程度僕の解釈が入るかもしれませんが、現代言語学を牽引する研究プログラムである極小主義プログラム(ミニマリスト・プログラム、the minimalist program)は、結局のところ「心の物理学として言語学をやっていこう」という呼びかけなんだとも解釈しうると僕は考えています。現在、言語現象の中に作用最小性原理や計算最適化原理などの物理法則の影響を探すという、それこそちょっと前だったら考えられなかったようなことが、極小主義プログラムを追究する一部のbiolinguistたちによって真剣に試みられています(ちなみにminimalistを無反省に権威主義的に、ないし意識的に政治的に名乗っている連中の大半はその実真剣なminimalistではないので言語学の文献にあたる際には注意が必要)。 やっぱり未だにノーム・チョムスキーがこの極小主義プログラムを牽引する急先鋒なんですが、しかし残念ながら彼には一流の物理学者・数学者としての素養はないのでなかなか彼だけではどうにもならず、その意味では未だ研究プログラムとしては実に刺激的なものが立ち上がったとはいえ、他所の分野の人達に誇って示せる、それをもとに言語学のキャンペーンを張っていけるような美しい研究成果というものを我々はまだ出せてないでいます。でも心の物理学を真剣に目指して研究を続けることで、将来的に心の科学に関するガリレオやニュートンの到来を期待できるかもしれないんです。 ともかく、デカルト二元論亡き後、真に有意義な形で「心の物理学」を目指すことを阻む哲学的原理はもはや何もなく、言語学を初めとする認知科学が物理などの自然科学との将来的な統合に向けて歩みを始めているということそれ自体は、ぜひ言語学の分野の外にいる人達にも知っていってもらいたいことです。 ちょっと長くなりましたので、またこの記事の続きは日を改めて書かせていただくことにします。