@rashita2 さんのブログ『R-style』で今朝「Evernote企画4th:第0回:「あなたのEvernote術教えて下さい!」企画」というエントリを目にしました。8月16日 ~ 8月22日 23:59:59というエントリー期間を設け、R-style読者から寄せられたEvernote活用術を共有することで情報交換の場としてくださるそうで、どんなアッと驚く使い方が寄せられてくるのか今から楽しみです。 思えばひょんなことから@goryugo さんのブログ『goryugo, addicted to Evernote』を拝読する機会に恵まれ、Evernoteに興味を持ち使い始めたのが今年の6月1日、以来主にこのお二方のブログやそこで紹介されている人々のEvernote活用法を聞きかじり見かじりしつつ自分なりに試行錯誤を重ねてきました。僕は2ヶ月強ということで全然使い始めてからの日が浅いんですけど、とはいえ上記ブログなどの力を借りてかなり好スタートを切れたつもりでいます。また、学生言語学者である僕は基本的に人と会っている以外の時間では一日中パソコンに向かいっぱなしで研究しているので、朝起きてから夜寝るまで常にEvernoteとともに生活をしていますから、短いながらも濃いお付き合いを通してそれなりにEvernote活用に関して自分なりの工夫もできてきたところでした。 さて、@rashita2 さんの仰る通りで、「自分が当たり前だと思っているやり方は案外他の人からみると意外な使い方だったりする」ということがEvernoteではよくあると思います。このことを僕は自分の過去の経験から知っていましたので、先達への恩返し、というわけではありませんが、前々から一度ブログを通して自分のEvernote使用法を公開し、他の皆々様(別に言語学研究者に限らず)に参考にしていただきたいと思っていました。今回@rashita2 さんブログからまさに渡りに船の企画をいただいたので、これを機会に一度現時点での僕のEvernote活用法をいくつかのポイントに分けて紹介したいと思います。書いてみたらかなりガッツリ長くなってしまったんですが、まあ部分部分でご参考になれば幸いです。 (「Evernoteってどういうソフト?」という疑問を持たれた方は、上記の『R-style』や『goryugo, addicted to Evernote』などのブログの初期のEvernoteエントリをたどるなどしてみてください。お手軽に使えてすごく便利なソフトですよ。ビジネスマンのみならず大学院生にもすごくおすすめなソフトです。以下は基本的なEvernoteの操作方法を理解されている方を対象に書きます。) 1: Evernoteを英単語や専門用語の単語帳として活用する まずは僕のEvernoteの一番上5個のノートブックを紹介。以下のようになってます。 初めに、すでに他の方のブログなどでも盛んに紹介されていることなのですが一応確認を。Evernoteは基本的にノートブックを名前順に並べてしまうので、自分の好みのノートブック順を実現するためにはノートブックそれぞれの名前の先頭に数字をふるなどの工夫を施す必要があります。以下僕のノートブックそれぞれが「03.」などの数字をふられているのはこのためです。 まず「00.Inbox」は言わずもがなですが、Evernoteでクリップを取り込むデフォルトの保存先としてのみ機能しています。これも先達のお知恵を拝借した結果です。 さて、ここからまず一点目なんですが、僕はEvernoteを自分なりの「単語帳」として活用することを最近始めました。僕はアメリカに留学している大学院生として生活している以上、基本的に毎日授業に出たり先生や同僚とかとメールのやり取りをしたり論文を読み漁ったりして知識の増大を目指すわけですが、そうするといつだって知らないことがいっぱい出てくるんですね。まず英単語。論文特有の難しい言い回しに始まり、言語学や哲学など調べてる分野の専門用語およびその分野ごとの特異な意味・含意も知らなければいけないですし、またしゃべる準備をするためにはアクセントや発音のことも気にしなければいけない。またそりゃいっぱしの成人としてそれなり新聞やニュースも読みますし、言語学以外のことも時間をとって勉強しますが、そうするともう次から次へといろんなカテゴリーのいろんな用語が入力として頭に入ってきます。全部を一つ一つ覚えようと思ってもそうそうできるもんではありません。きっと半分以上次の日には忘れてたりするんでしょう。 さて、記憶補助装置としてのEvernoteの便利さの一つに、およそウェブ上のものなら、ないしクリップボードに取り込めるものなら、なんでもノートとして切り貼りしてスクラップ保存できるというのがありますよね。僕が上のように雑多な調べ物をする際には論文PDFのみならずオンライン辞書やWikipediaやGoogleやニュースヘッドラインや個々のブログ記事など、あらゆるソースにアクセスするわけなんですけど、用語を調べるたびにとりあえずそれぞれのソースをちゃちゃっとEvernoteに取り込んで保存しておく。僕の場合保存先はこの「01.単語帳」です。とりあえず今日の僕の「01.単語帳」ノートブックを開くと以下のようになりました。 表示されているノート例は”extricate”という単語をMac付属の英和辞書で引いた情報をそのままコピペしたものです。この他、例えばIvy League8校がちゃんと覚えきれてない、と思ったらそのWikipediaの項目を取り込み、また株のことを調べてたときにふとぐぐって見つけた「PER(株価収益率)」に関するどこぞのブログのわかりやすい説明を取り込み、また親族構造に関する系統的な知識をかなり正確に記憶できるらしい猿baboon(=ヒヒ)のことを認知科学の機関誌で読めばその該当箇所のテキストをコピペしてかつGoogle imageでbaboonの画像を取り込み、などなどをしておきます。各ノートのタイトルにはその用語のみを記しておきますと、後で見返すときにこれがそのまままるで単語帳のように使えます。要するにこのノートブックを開いたら各ノートの見出しタイトルを見て、「どういう意味だったかな」とか「どういう関連で調べたんだっけかな」ということを思い出すよう試みる。そしてノートを開いて答え合わせをする、という要領です。 ちなみに上の画像の二個目のノート「’ reconcile」ですが、これは前々から知ってたつもりだった”reconcile”(和解させる)の特にアクセント位置の把握をあやふやなままにしていたことに気づいたというときに、特にアクセント位置を確認する単語帳エントリーにするために置いたものです(アクセント関係の確認ノートも結構あります)。 何度か繰り返し確認するうちに「あ、この用語・単語はだいたい頭に入ったな」と思ったら、そのノートを「02.単語帳(覚えたかな?)」に移します。そしてまたしばらく後にこの「覚えたかな」リストも見返してみて、「もう大丈夫だろう」と記憶に自信が出てきた用語・単語に関してはもう「03.単語帳(覚えた!)」に移す、と。これは紙の単語帳で言えばそのページを破り捨てるのに当たるわけですな。とはいえまあ人間の記憶なんてあやふやなものですから、自信を持って「記憶完了」の太鼓判を押したものでも1ヶ月後・一年後には忘れてるかもしれません。だから02や03に入ってるノートも必要によってはやっぱりまた01.の現役の単語帳として再利用することもある、という感じでしょうか。また、時間がなくて・ないしオフライン作業中につき調べるのをとりあえず後回しにしたいものに関しては「05.知らない/いずれ調査」に一時保管しておく、というユルさも残しておくといいと思います。 ところで単語帳用途のEvernoteに関して一つ注意点が。Evernoteはノートブックを開くたびにその一番上のノートを自動的に開いてしまいます。僕はデフォルトの表示を「作成日時順」にしているので、この場合一番新しいノートが常にノートブックを開くたびに自動的に表示されてしまい、結果意図せずして答えを“カンニング”する形になっちゃうわけですね。まあそんな細かいことをあまり気にする必要もないのかもしれませんが、僕は「_______」というブランクのノートを常にこのノートブックの先頭に置くようにしています。Evernoteは各ノートの作成日時や更新日時も後々修正できるんですけど、この「_______」の作成日時を3010年辺りに設定しておけばとりあえずどんな新しいノートにも追い越されることはありません(笑)。 ちなみにこの作成日時修正による順番管理は色々なところで活躍します(たしか@goryugoさんのブログで読み知った方法だったかと思います)。この単語帳に限って言えば、何度も間違える用語・単語のノートは作成日時をいじって常にノートブックの上位に表示するようにしておく、などの用途が考えられます。というか僕はそうしてます。 このご時世ですから、英単語帳やビジネス用語確認なんてのはiPhoneの辞書アプリの付録機能だったりでこんなマニュアルなやり方よりも効率のいいやり方があるのかもしれません。しかし言語学の専門用語や和製英語や日常会話やスラングなど、ありとあらゆる英語や日本語のレジスターを一緒くたにサポートできる辞書なんていうのは端からありえないし、だからこそEvernoteの可塑性が活きてくると僕は思います。 こういう利用法でEvernoteから恩恵を受けるにつけ、もし例えば10年前、自分が大学受験をしているときとかにすでにEvernoteがあったらだいぶ勉強の効率が上がっただろうにと、思ってしまいます。「1931」→「満州事変」みたい歴史などの暗記物にも応用できるし、数学の公式を登録することもできた。便利そう! まあでもその頃は今よりずっとパソコンに向かう時間も少なかったわけですから、なんともいえないかもしれませんが。 ともあれ、人間一生学び続けるわけですし、その一助としてEvernoteを使ってみてはいかがでしょうか。 以上が僕の単語帳としてのEvernote利用法の説明になります。 2: 長期・短期・当日タスクリスト兼日記としてEvernoteを利用する 2なんつって仰々しく書きましたが、これはもう先達の皆々様がやっていらっしゃることとあまり代わり映えはしないと思います。大体タイトル見て内容はお分かりになるでしょう。3以降で言語学者としてのEvernoteの僕なりの用途についてご説明しますので、必要ない方はどうぞこの「2」は読み飛ばしてください。 僕の10番代のノートブック(の一部)は以下の通りです。 「12.近々やりたい」と「13.いつかやるかも」がいつも「あ、これをやりたいな」という思いつきを徒然なるままに書き留めておくノートブックです。優先順位や緊急度などでどちらに書き留めるかをその都度判断します。これで短期、長期のTo Do リストの完成ですな。その上で僕は「12.近々やりたい」を夜な夜な眺めながら、だいたい就寝前くらいに、翌日に成し遂げたいこと、「博論の2節の3パラグラフ目を書き足す」とか「Bittner and Hale 1996を半分読む」とか「☓☓大学准教授職への応募書類の3節を書く」とか「買い物する」とかいう実現可能な範囲で細かく区切った仕事リストを「10.今日やる!」に書き込んでおきます(場合によっては10−11時でこれをやる、と時間指定もする)。 当日はその「今日やる!」リストの仕事をなるべく組んだ予定通りにこなしていきます。仕事が終わるたびに「14.やった」ノートブックに完成したタスクのノートを移していきます。晴れて「今日やる!」ノートブックのノート数が0になったら今日のお仕事修了、ご苦労様、というわけです。「やった」ノートブックはこういうわけでどんどんノートの数が増えていきますけど、ここに表示される数字が大きくなると自分が(一つ一つは細かろうが)なんかいっぱい仕事してきたんだなあというのを数字の大きさで見れて「ムフフ」となります(笑)。 僕はちなみに「今日やる!」リストを作るときに既に”100817=”とか”100816.10-11=”というような自分なりの年月日の接頭辞を各ノートに付しておくようにしています。こうしておけば終了したタスクを「やった」ノートブックに移していくだけでその「やった」ノートブックが後で読み返せる簡便な日記にもなり一石二鳥。基本的に僕はこのタスクリスト用途では各ノートはタイトルしか書き込みませんが、とくに日記としての利用を充実させたければ、各ノート毎に必要なときにコメントを残しておけばいいでしょうね。 3: (言語学)研究活動の補助としてEvernoteを活用する いよいよ僕が実際の研究活動のお供としてEvernoteを使っている場面について説明させていただきます。以下僕の20番代、本業の言語学関係のノートブック一覧です。 とりあえずノートブックごとの説明を。25番のついたノートブックの活用が結構肝なんで、とりあえずそれ以外のノートブックの説明から: 「20.Diss To Do」は上記「12.近々やりたい」の言語学バージョンというか、とくに博士論文執筆に特化したタスクリストです。 「20.問い」は研究を進めていく上で思いついた疑問点、研究課題等を書き留めていくノートブックです。日進月歩の生成文法理論ですが、そこではいつなんどきどういう部分にアイディアが出てくるか分かりません。自分が疑問に思ったことをメモの形で書き留めておくだけでも思わぬところで複数の問題間に連関を見出したりとかいうことが起こると思います。 「21.分からない」は上記「05.知らない/いずれ調査」の言語学バージョンですな。 […]
大学院 Articles
Subscribe to the 大学院 articlesとある理論言語学大学院生のEvernote活用法(2010年8月現在)
有神論的無宗教、とか?
久しぶりの投稿。文章を書くというのは難しい行為だけど、それを通してしか気付けないことというのが確実にあるから、書くことで何かが学べそうだと思われるときには忙しくてもTwitterをやめて筆をとるべきですね。なかなか難しいことですが。 * * * * * 僕はごく普通の日本人で、よくある通り普通に仏教の一派を家の宗教として持ち、祖先やおじいちゃん、亡き母をその下に埋めるお墓も地元の寺にあり、まあそういった活動に真剣味はないにせよ、別段反対する理由もないので盆には墓参りもするし、法事にも参加する。しかし自分は仏教徒なのかと問われるとちょっとよく分からない。中高は仏教校に通ったけど、理事長が坊主だった、時々ホームルームの代わりに坐禅があった、部活のランニングでは寺の階段や裏山をよく走った、という程度のこと以外は普通の学生と変わらなかったと思う。学部と修士課程はキリスト教の大学に行ったが(しかも前者はプロテスタントで後者はカトリック)、それは単にそこにあるカリキュラムに惹かれたから行ったまでで、入学式などの強制的なもの以外は一度も教会で説教を聞いたこともないし、聞こうとも特に思わない。本当に僕はそういうのはどっちでもいいんである。無宗教、ないし無信仰というのが実にまっとうな形容だと思われる人間である。 無宗教・無信仰であることを僕はそれなりに自分のこだわりとして持っていて、大学時代に歌好きだったことから合唱団に入ったわけだが、その時もコンサートでミサだの黒人霊歌だの宗教曲という類のものを歌うことには抵抗があった。積極的にキリスト教を支持するつもりがない(が否定するつもりもない)自分がそんなの歌っちゃうのは無責任だろうと思ったからだ。先輩にコンサートのそれらの宗教曲のステージに関しては歌わない方向でお願いしたいと相談したこともあったように思うが、たしか「新入生が全ステージ乗るのは当たり前でしょ」的な論理で説き伏せられた気がする。あーまあじゃあ伝統だってんならそれを曲げてまで頑固に歌わないというほど「無宗教」が強いバックボーンとして自分にあるわけでもないしなーと思い、結局流れで歌ってしまったものだが(しかし合唱やるなら宗教曲やらなきゃいけないっていうのはぶっちゃけちょっとした部の傲慢ですな)、まあともかく、そういうふうに色んな意味で僕は宗教にこだわりが無いんです。 ところでアメリカ留学なんぞをしていると当然周りはキリスト教信者が大半を占める環境にいるわけで、その中には毎週末教会に通うとか、教会主催の活動に積極的に参加するとかいう敬虔なキリスト教徒の人だっているわけですね。先日そういう敬虔な人のひとりが「私が今までにした一番素晴らしいことはキリスト教者になったことだと思う」「私はこういう活動(彼女のやってる教会の活動)を通して願わくば全ての人がキリスト教の素晴らしさを知って、そして願わくば全ての人にキリスト教徒になって欲しい」というようなことを言っていたのを聞いて、なんだか違和感を覚えずにはいられなかったので、「宗教と政治の話はご法度」というのは知りつつも色々と訊いてみた。まあopen-mindedな子だったので色々答えてくれた。 要するに、キリスト教の教えでは、神に救われるためには神にしっかりと自らが罪深き者であるという宣言、及びその上で神に向きあって真摯に赦しを求めるというジェスチャーが必要であり、そしてその罪を認め赦しを求めるという行為こそが所謂「洗礼」という儀式であるということらしい(まー一時はキリスト教の学校に行っておきながら僕はそんなことも知らなかったわけだが、まあこと宗教に関しての無知を僕は特に恥じるつもりはないので(これは僕にしてみれば単にトリビアの一つ)それはそれでいい)。①神は積極的に洗礼を通して自らの罪を認め赦しを求めた者のみをお赦しになってくださるわけであって、②全ての人類が等しく幸せになって欲しいし、そして人の幸せの最高の形とはつまり神に赦されることであるからこそ、③全ての人にキリスト教者になっ(て神に救われ)て欲しいと、まあそういったことらしい。僕はここでいう①で想定される神様ってのはずいぶんと気前の悪い人だなあ、全知全能ってんならケチケチしないで誰でも彼でも救ってくれりゃいいのに、と思ったが、まあ①を強く信じることに決めた人たちに対して特にその個人的な決断を積極的に支持するつもりもなければ反対する理由もないんで、ははあそうですか、とそういった感じでした。 ただ、①や②の想定をした上で、キリスト教徒となり、神に救われたと信じ、神からの愛・赦しを心から感じて感謝することができ、赦されたという安心感を常に持ち続けることが出来るというのは、もしそれがやれたなら実に精神衛生上好ましいだろうな、というのは客観的に考えても分かるような気がする。そういう一連の精神形成が好みにあうような人は積極的にキリスト教徒になっていけばいいんじゃないでしょうか。それは僕とは違う人生だろうと思うけど、いや、応援しますよ、そういう人がいたら。 ただ、それを言った上で、やはり「すべての人類にキリスト教徒になって欲しい」というのはそのままでは納得できないなあ。どうしても傲慢なように思えてしまう。①、②の仮定を受け入れるってのは個人の自由でしょうから、それを根拠に③と結論づけられてもこっちは知らんよ、というね。だから「①、②は非合理的な想定だし、それを受け入れる入れないもこっちの自由でしょ」、とその友人にはいっておいた。彼女は自分の言いたいことを100%僕に伝えられなかったと感じて悔しかったようですが、それでも①,②が非合理的な想定だということは認めていた。 しかし彼女が言うには、「キリスト教徒になるということは私が人生の中でした最も非合理的な、しかし最も素晴らしい決断だった」ということらしい。なるほどねえ。 ところで、言語の神秘に魅せられ、その謎の解明に幾許かでも貢献をしたいと願って言語の自然科学(biolinguistics)を追究している者として、僕はこの宇宙に内在する大いなる神秘的な力が存在することをこれでもかというくらい信じている。宇宙がある特定の統一をもって厳然としてそこにあ(りえ)るという事実、地球が形成されえた偶然、そこに生命が誕生しえた奇跡、それが遺伝子というblueprintの微細な変異を通してかくも多種多様な生態を創り出しうるという謎、その中にヒトが現れ地球46億年の歴史からしてみればまばたきひとつにも満たないこの短期間でこれほどの文明社会を築き上げたという驚き、そしてこのヒトという生物種の経験世界を色濃く決定づけている心的世界というものがこの物理的世界に現れえたという神秘、そのヒト特有の心的世界をまた色濃く特徴付けているこのヒト言語というメカニズムが現れ(え)たという不思議——数え上げればきりがないほどの神秘に我々は囲まれている。それら数えきれない神秘が可能であったという事実は、即ち我々人間が現在の文明では決して解明できていない(そしてもしかすると人間がその文明で解明し尽くすことが原理的に不可能であるかもしれない)ような、この世界を統一的に支配する大いなる神秘的な力の存在を仮定するだけの十分な根拠を与えてくれる。それは自然法則というカバータームで呼んでもいいだろうし、好みでそれを「神」と呼んでもいいのだろうと思う。人知の及ばない力の存在に深く驚き、そしてそのまだ見ぬ相手を狂おしく知りたいと願う好奇心をある特定の対象の研究という営為に落としこんで実践する者、それが科学者であろうと思う(なぜヒトが好奇心を持つのかはところで人性を決定づけるまた別の大いなる謎だ)。神秘を認めることと科学者であることとはその意味で矛盾しないばかりか、むしろある意味で神秘への驚き・憧れは科学者であることの本質的な必要条件ですらあるのだろうと思う。 よって僕は「神の存在を信じる」という言い方で自分の人智を超えた神秘への憧れを語ることができるし、そうすることが嫌いではない。よって僕は有神論者(theist)である、と宣言することができる。無宗教でありながらも。 というわけで、無宗教であることと有神論者であることもまた矛盾しない。僕はこの人智の及ばない神秘への単純な憧れを何教とも呼びたくないし、またなになに教が語る特定の「神」とこの神秘の源泉をby assumptionで同一視してしまうという非論理的なステップを個人的に踏みたいと思えないんです。だからしない。 かつ、宗教というのは、少なくとも僕の知っている範囲では大抵がこのステップだけに留まらず、プラスアルファで神の神性を100%実現した特定の個人(イエスなりムハンマドなり)というのを想定しその個人を崇めるというextraな部分を持つことが多いように思われるから、それもなんだか自分としては受け入れたくないものです。 もちろんそういう想定の数々を信じる人、そうすることに決めた人がいてもそれはそれでその人の個人的な決断ですから尊重しますよ。単になんというか、そういうのが僕の好みに合わないから個人的に僕はそういうことはしない、という、それだけのことです。 しかしまあ、その上で、ヒトが宗教を作りだしたということ、というかヒトという種を規定する遺伝的特性と環境的要因の相互作用が宗教を創りだすことをヒトに可能たらしめているという事実は、それ自体として非常に面白いし興味深い。なぜヒトに言語が可能であったのか、とか、なぜヒトに数学が可能であったのか、なぜヒトに道徳があるのか、というようなことを問うのと同じレベルで人類学的・ヒト生物学的に面白い気がする。上でいうキリスト教なんてのも実に巧妙なそれ自体として面白い構造をもった作品・芸術ですね。すごいよなあ。 ともあれ、そんなわけでですね、僕は積極的な有神論的無宗教です。当面はこれで行きます。これを他人に勧めるつもりも全くないが、まあ自分の信念としてね。こうあることで例えばキリスト教の想定するような永遠に赦される喜びなどの精神衛生上好ましい類の心理を自分の中に形成する機会を失っているかもしれないというのは重々承知しつつも、とはいえだって僕は、非合理的な一群の想定をとりあえず信じきるところから始める、という精神行為がどうしても自分にあっていると思えないんだもの。だからキリスト教徒にはならないだろうし、仏教徒にも特にならないんじゃないかなあ。別に自分ちの墓に入ることにさしたる抵抗はないけど。 そんなでした。
minimalist ボヤキ
最近Twitterでもいちいちぼやいているんですけど、最近論文を書くのがどうもつまらないくていかん。 いや、自分でわかっていると思い込んでいることを言語化する段になって手こずるというのを知ることは自分の自分のアイディアに対する理解を促進するという効果があるのでいいのですよ。それはやはりストレスの貯まらないではない行程だが、ある程度有益にして必要なコストとも言えるので割り切れる。が、しかし昔それに加えて修士の頃くらいまでは結構しばしば経験していたのは、いわば書いているプロセスの中から新しいアイディアが出てくるっていうタイプの大なり小なりのエウレカ経験でして、それが最近どうも乏しくなってきているように思われるのが残念でならない。 これは僕が歳をとって頭が固くなってきているのが原因か、それともminimalist programという研究方策が我々研究者に課する独特の難しさによるものなのか。おそらくどちらもがあるのだろう。困ったものだ。 しかしなんだろうな、どうしてもっとこう、「言語学が楽しくて仕方がない」というふうに研究ができないものか(それともまさか今そう感じられてないのは僕だけ?)。そういう感覚というか雰囲気を今syntax研究者が作り出せてないということが多くの若い有能な人達をこの分野から遠ざけていると思う。 このままではいけないと思う。僕も可能なら微力ながらそういう明るい雰囲気を作ることに貢献したいけれど、そのためにはまず自分が心から研究を楽しめてないといけないし、また同じ分野でそういう楽しそうに研究している奴らとどんどん楽しみを語り合って共鳴しあって増幅してかなきゃいかんよな。人はひとりではなにもできないからね。 そもそもこういう「楽しいもんはともかくとことん楽しんでやっちゃえばいいんじゃね?」的なイケイケ感覚こそが我らがICUの吉田智之先生の最大の教えだったのかも。そう思えば、こういうおちゃらけた観点が僕の過去2年くらいの研究生活では必ずしも足りていなかったのではないかとも思う。まあでも、ああいうタイミングで一度真剣に「いつまでもふわふわと無責任に言語学で遊ぶだけのクソガキじゃいけねえ」と思いとどまって暗めに悩んだことで得たこともあるし、そのバックボーンを十二分に活かしつつ、今からどんどん取り返して言語学を楽しんで行けばよい。ということにしよう。 (ところで最近会ったところではPeter Svenoniusってなんだか研究楽しそうな感じ出してていい感じだ。まあ色々と提案に不満はあるけど、でも時々彼の研究普通に面白いしな。)