"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

心の物理学 Articles

Subscribe to the 心の物理学 articles

黒田成幸、ゼータ関数、言語学と数学

by | Leave a Comment | Tags:
01 17

UCSD名誉教授でいらした故黒田成幸教授(2009年没。生成文法理論黎明期から日本語文法研究や形式言語理論研究において多大な功績を残した; http://ling.ucsd.edu/kuroda/obituary.html )は、彼の遺稿論文『数学と生成文法』(2009)において、文脈自由句構造言語と呼ばれる形式言語のある特定の部分言語を算術化し、その累和としてラマヌジャンのゼータ関数(ζ functions)を特徴づける、という一大構想をぶち上げています。少なくとも二次ゼータ関数までに関しては部分的な成功を収めたようです。数論や力学系の研究を始め数学や物理学の様々な分野で用いられているゼータ関数ですが、それがある抽象的なレベルで言語の形式構造にも関わりを持つことが示唆されているとしたらすごく面白いですよね。曰くこの研究の示唆するところは「ヒトの言語のありようも、数学的実在として、情報の構造とともに、奥深い数学的実在と本質的に全く無関係ではないかもしれない」ということだそうです。ヒト言語はヒトの生物学的所与であるという意味で文字通り自然物であるわけですが、その構造もやはり自然界の背後に抽象的に存在する数学的実在からの影響下にあるということが、とても奇妙な形で、そしてもしもその全貌が明らかにされたならば大変な知的好奇心を喚起するだろう形でさらなる証左を与えられていることになります。 僕は数学の知識が絶対的に不足しているため、目下この研究の意義を全く理解できておりません。言語学しかできない人間の限界をこうまざまざと見せつけられて悔しい限りなんですけど、でもいつかはしっかり黒田先生のお仕事を読み込めるようになりたいなあ。 ※参考文献:・黒田成幸(2009). “数学と生成文法—「説明的妥当性の彼方に」、そして言語の数学的実在論 福井直樹へ贈る一つのメルヘン.”  Sophia Linguistica 56:1-36.・Kuroda, S.-Y. (1976). A topological study of phrase-structure languages. Information and Control 30.4: 307-379.

成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売

by | Leave a Comment | Tags:
11 1

お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。 第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。 言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。 Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k よろしければ!

形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ:その2

by | Leave a Comment | Tags:
01 10

前回、前々回のエントリーに関して@wataruuくんからまた別のフォローアップの質問をTwitter上でもらいました。 成田さんはある種理論の”packaging”をしているように思われるのですが、internalistでありつつモデル論的意味論を採用することは可能ではないでしょうか。…(続く) あと、internalistになった途端に、意味論はsyntaxになる、というのがよく分からないのですが、教えていただけますか? 今回はこれに応えるエントリーを書きます。 まず、「形式意味論ってのは結局syntaxとして解釈されるべきもんですんで」っていうのはチョムスキーが最近いろんなところで口を酸っぱくして言ってることですんで、別に僕が最初に言い出したなんてことは全然ないですからね。その前提での僕なりの私見(つまりチョムスキーの意図とは違うかもしれない僕個人の意見)を以下に述べることにします。 「”packaging”してるだけじゃん?」と@wataruuくんが言う意図はわかるような気がして、つまり「なんでsyntax/統語論と別の理論であるべきsemantics/意味論をまで”packaging”してsyntaxとよばなきゃいけないんかい?」っていう質問なのでしょう。これはまあ基本的には用語の問題で、LSLT以来の術語を使って「The theory of linguistic/mental form and its formal manipulation (with no explicit reference to the way in which it is put to use)」としてsyntaxを定義するなら、現行のmodel-theoryの計算というのはその広い意味でのsyntaxと捉えるのが一番妥当だ、というのがまず基本的な点です。 さて、ここでまず有りうる反論1:「いやいやいや、「linguistic formがどう使用されるか」に関するある特定の形式的手続きによる記述がmodel-theoretic semanticsなんであって、そうであるならそれは上の()部分の条件を満たしていない以上syntaxではない」  ⇐この立場について最近のエントリで僕がいっているのは、そういう形式的意味記述が面白いデータを提供しているらしいってことについて僕は文句ないってことです。そういうデータに関してはやはり来るべき説明理論を求める、ということで、説明を目指すということはイコールsimplest possibleな理論を求めること、そして願わくば(おそらく自然法則が導きだしてくるところの)simplicityという概念そのものを説明項として利用する可能性を追究することで、まあそれはつまり意味の問題に関してもminimalist programで研究をすることでしょうね(Goodmanの路線:Goodmanのsimplicityの概念がChomskyによってどう言語理論に応用されてきたについての簡明なoverviewに関してはTomalin 2003, Linguaがとても詳しい)。そこでnarrow syntaxがどれだけ主要な役割をはたすことになるかは経験的な問題ですが、すでにLSLT, Syntactic Structuresで示されているようにnarrow syntaxの意味の問題に関する強い説明力は疑い得ないでしょうから、じゃあこのnarrow syntaxをどこまで強い説明項として利用できるかを問うというのは意義のあることでしょうな。それがChomsky-Hinzen-Uriagerekaの問いでしょう。 でま、この反論1によると意味論が記述しているのはlinguistic formでは「なく」「それの使用の仕方だ」ということになるんで、この方向で意味論の射程を解釈する限りにおいては@wataruuくんの「packagingしてるだけじゃん?」っていう批判はあたってるってことになるのかな。 しかしここで注意すべきは、この路線を求めるということは本来的に「言語の使用に関する理論は作りえない」という後期ウィトゲンシュタインの強い批判と対峙しなくてはならなくなるということなんです。言語使用というのは「暑いね」と言われたらそれが「クーラーつけて」とか「アイスクリーム頂戴」というリクエストの意味にも「お前の部屋換気もしてねーのかよくそったれが」という非難の意味にもとれたりとか、そういう徹頭徹尾形式的記述を拒む複雑な人間行動の全体を指すわけで、その全てをformal semanticsが記述しおおせる(ましてや説明しおおせる)可能性はないでしょう。デカルト以来”creative aspect of language use”というのが徹頭徹尾理論的説明を拒み続けていることを言語学者・言語哲学者は無視できません(Cartesian Linguistics (またその3rd editionのイントロby McGilvray)、New Horizons in […]

Cartographyとか形式意味論とかが流行ってる言語学の現状についての僕の私見

by | Leave a Comment | Tags:
01 4

言語学の先輩に質問というか問題提起のメールを受けて、ちょっと考えて返信したので一応こちらに返信した内容の抜粋をアップしておきます。 まず一点目:Cartographyのようなものが日本も含めてやたら取り沙汰される言語学の現状をどう思うか、ということをご質問いただきまして、それに対する僕の簡単な回答が以下: さてさて、おっしゃるとおりで、なんであんなにCartographyみたいなのに惹かれてしまう連中がいるのかというのが全く分からないです。まあしかし、福井先生がおっしゃるとおりで、いわゆる機能範疇だったり素性だったりの道具立てが多ければ多いほど記述が楽になるっていうところに甘んじてああいうのを利用して論文書いちゃう無責任者共が後を絶たないからって居う部分が大きいんじゃないですかね。僕は全く評価できませんが、しかし傾向としてこういう流れがあるとしたら残念ですよね。 この辺のことについての僕の自分の意見についてはNarita(2010) “The tension between explanatory and biological adequacy”(Review of Fukui (2006))の方で提示しましたので、興味のある方はそちらもご参照ください。結局のところ、生成文法理論の勃興当初から常にシンプルな説明を追究する方向と目に見えるデータを記述したいというdescriptive pressureがせめぎ合ってきていたわけで、Cartographyなんかに逃げてノリでイタリア語のleft peripheryだったり日本語の文末助詞だったりを記述してふんぞり返っているだけでは、結局のところ説明的妥当性(explanatory adequacy)の問題も生物的妥当性(biological adequacy; ないしbeyond explanatory adequacy)の問題も全く解決できない、というかむしろそれらのより重要な問題を看過しがたい形で複雑化するだけのことです。 まあそういう当たり前のことに気づいてる人達も実は多いと思うんですけど、しかし時間の制約の中で論文を量産しなきゃいけないプレッシャーに常に追われている言語学者の皆々様方はこういう「使いやすい」「便利な」道具があるとついつい使ってしまうのが人情ですよね。壁にあいてしまった穴を埋めなければならないというとき、板から漆喰から何から買い揃えて抜本的なケアを時間と手間をかけてやるという辛抱強さが必要なところを、手元にたまたまあったペンキでとりあえずはその穴の部分を塗って隠しただけでめんどくさい仕事に取り組むのを怠る、そういう感じ。やめましょう。難しいことですが、ヒト言語の形式・出自に関する真の説明を求める態度を失ったら言語学は廃業ですよ(ま、真の説明を求めるための一番効果的なアプローチがCartographyだとホントの本気で信じこんでしまっている人がいるのかどうかは僕は不勉強にして知りませんが、どうなんでしょうね)。 この「目先の使いやすい(しかし説明力の薄い)小手先術」をつかうという態度についてなんですが、これはCartographyにかぎらずかなり言語学全般を通して陥りやすい罠で、例えばuninterpretable featuresをだらだらstipulateしまくってふんぞり返ってるタイプの仕事も同じようなことがいえます。それから以下に述べる形式意味論もおんなじ問題を抱えています。 というわけでその先輩からの第二の質問:(成田くんはあまりsemanticsを信用していなかったはずだけど)、意味論上の問題にミニマリズムと同じ種類の疑問をぶつけること(具体的には獲得の問題を考えることとか、意味計算がどれだけ他の物理法則や生物法則に従っていて,より一般性の高い原理から導かれるのかということを問う試み)をどう思うか、という問題提起を頂きました。それに対する僕の回答: 僕は当然そういう疑問があるべきで、その疑問をしっかり持って取り組もうとする以上は絶対にやすやすとはやりのtruth-conditional denotational (externalistic) type-theoretic Fregean semanticsだのなんだのに与するわけにはいかないと(あくまで僕個人は)思ってます。ChomskyがGenerative Enterprise Revisitedのインタビューなんかでも指摘していますが、記述意味論の現状はまるで音韻論のようで、考えうるありとあらゆる計算制約を破っています(inclusiveness, minimality, non-tampering, etc.)。一方で形式意味論で仮定されているモジュールというのは結局のところsymbol-manipulationのシステムであり、故に広い意味でのsyntaxですから(McGilvray 1998の用語を使うなら”broad syntax”)、もし仮にあれをFLの内容として仮定し、つまりpost-LF syntaxとして定式化するとしたら(そうしなきゃいけないという強い根拠は示されていない;(formally approachable) semanticsと(unexplainable) pragmaticsの区別というのはアプリオリな仮定として慣習として持ち込まれているだけでその区別を経験的に正当化するデータは上がっていない)、なぜ「そのsyntax」がnarrow syntaxとかくも異なるimperfectionを示さなきゃいけないのかというのが経験的な問題になります。そこ Minimalismと同様の疑問をぶつけるなら、まずは絶対に疑い得ないもの(“virtual conceptual necessity”)から話を始めてみたり、ないし計算効率原理などのthird factorの効果を探すところから始めたりという取り組むべき課題が自ずと見えてきますし、それゆえにこそFregean semanticsとuse-theoretic pragmaticsの区別をstipulateするところから始めたりexternalistの概念である真理条件なんかを意味の議論に持ち込むところから始めたりというステップは取るべきでないと(個人的には)思いますね。 ま、もちろん意味論をやる上でminimalist programに従った研究方策のみが正当だ、なんていうような乱暴な議論はできませんし、もし記述意味論が記述の部分でなんかの成果をあげるっていうのであればそれはデータとして意味のあることとは思います。それはGBのころにECPとかgovernmentだとかの「古い概念」でもって記述されたデータがデータとして未だ興味深いのと同じで、いずれ同じようにtruth-conditionだのFregean senseだのtype-theoryだのFunction-applicationだのの「古い概念」が乗り越えられるべきなんだろうと僕は思っています。Cartographyとも同様ですね。 そしてそんな現状で意味の問題にどう取り組むべきかということを考えた場合には、僕としては(discrete infinityなどの基本的な事実から存在が確実な)narrow syntaxの方をむしろ第一義の説明項として意味の問題に取り組もうというUriagereka-Hinzenの研究プログラムに共感するところが大きいですね。ま、これはあくまで僕の決断なので、他の人がそうしなきゃいけないとは言わないですが。 ま、形式意味論に取り組む方々が往々にしてsyntaxの説明力を疑問視するということが続いていて久しいですが、おそらくその手の反感はcartographyとかuninterpretable featuresをふりつづけるとかそういう無責任な仕事をする連中の仕事を「つまらない」「説明的でない」と思うという至極当然の認識からきているというパターンが多い。それらの仕事に対して正しく低評価をできる人達にむしろ僕は強い共感を覚えますが、しかしそういう仕事をまるでsyntaxの代表のように取ってしまい、その上で「syntaxなんて結局古く説明力のない分野に成り下がった」という結論へジャンプする人たちがいたらそれは大間違いだと思いますね。 ChomskyがLSLTをもって生成文法理論を立ち上げた当初から、syntaxというのは言語学の中心的な分野で在り続けてきましたし、そしてその当初から「いかに言語学は「意味」(=自由意志による言語使用)なんて掴みどころのない物に言及しない形で文法理論を作ることができるか」という問題設定のもとにsyntaxの研究が進んできました。そして言語学の主要なachievementsはその多くがsyntaxに関するものです。それはある意味で当然のことで、他のヒト以外の生物のコミュニケーションシステムとヒト言語を区別する最も根本的な特徴はその生成力の離散無限性(discrete infinity)にありますが、それをとらえようとする限りにおいてヒトの認知能力に特有の生得的でかつ回帰的な(recursiveな)計算システムを仮定せざるを得ず、それがつまりsyntaxです。(そこで起こる計算手順のおそらく最もシンプルな定式化は併合(Merge)という操作によって与えられるものと思われ、それゆえ我々はbare phrase structureを追究するのですが、まあその辺は今回は置いておいて。)言語学をbiologyとして捉え、それに取り組もうとする限り、その研究の主対象はこのヒトに生得的な計算能力の研究となるでしょう。それは徹頭徹尾syntaxです。 上のメールの返信部分にも書きましたが、現行の”formal semantics”と呼ばれる分野は結局のところそれはsyntaxの一分野にしか過ぎないわけです。その上で疑問をもつべくは、どうしてこの部分のsyntaxがいわゆるnarrow syntaxと比べてかくも異なる様相のあり方を呈しなければならないのかという問題です。この問題に取り組む限りは、願わくばnarrow syntaxの研究が進んだやり方と同じようにこのbroad syntaxの研究も真の説明を求めていくべきであり、その上ではやはりminimalismのような研究方策をとることが一番正当だと思うんですよね。そしてその場合stipulationsから研究を始めるという形式意味論の文献内でintensifyされてしまった態度に関しては徹底的な反省の余地があると思います。真の説明を求めてnarrow syntaxの研究がGB理論の不備を徹底的に反省していき、結果としてGB理論を解体していったのと同様に、我々はいずれ現行の形式意味論の文献に散在するあらゆる無反省なstipulationsの数々を徹底的に吟味するという作業が必要です。 ところで上のメール部分でHinzen-Uriagerekaの路線に言及したのですが、こういう時に不便なのが、HinzenやUriagereka自身がnarrow syntaxに持っている考え方自体がかなりかたよっている(し多くの部分で間違っていると僕は思う)ということでして、彼らの打ち出している研究方策には非常に共感すれど彼らが出しているnarrow syntaxの理論には決して魅力を感じないというか、そういうところが難しいんですよね。僕は一時期はかなりPaul Pietroskiの仕事の方にむしろHinzen-Uriagerekaプログラムを進める上での魅力を感じていたのですが、まあPaulはPaulでね(笑)。ま、この研究方策について簡単に知りたい人は僕のUriagereka(2008)のReviewか”The naturalist […]

早稲田で講演: 言語学、認知革命、自然主義

by | 1 Comment | Tags:
07 6

先日早稲田大学の久野正和准教授にゲストスピーカーとして彼の授業に呼んでいただき、「言語学、認知革命、自然主義」というタイトルで講演させていただだいた(2010/7/2)。久野先生とは上智・ハーバードの先輩後輩の間柄でよくお世話になっているのだが、そのご縁で50人以上の学部生の前で話をさせてもらえる機会を今夏は2回も与えていただけて恐縮至極である。今回は2回目で、1回目よりは時間配分等改善が見られたが、まだまだ平易な言葉でリズムよく話を進めるのがまだまだ不得手で、また説明ベタのせいでところどころ話の無駄な重複もあり、反省点の多く残る講演となった。前回は特に学生に配るものは何も用意せず講演メモのみで臨んだせいで時間配分を失敗した経緯があるので、今回はある程度話の流れをつかんだシノプシスを載せた両面一枚のハンドアウトを配らせていただいた。まあこのままではこれ以降誰も読み返していただく機会も与えられないままお蔵入りになってしまいもったいないので、誰かの参考になるかもしれないということで一応そのハンドアウトを以下に一部加筆修正を加えた上で転載する。ご参考まで。なお、僕はもともと哲学をやろうとして大学に入り、言語哲学→言語そのものというふうに興味の対象がシフトしていったという経緯があるので、言語学も好きながらこういう言語学が与える科学や哲学への示唆のような話もすごく好きでして、そのため普通の職業言語学者よりも多少は多くその類の論文を読んでいると思う(まあ言語学者をやる以上ある程度このたぐいの勉強はマストだと思うが)。この方面でもノーム・チョムスキーの思想の深みは絶大なんですね。こういう事に興味がある人はこの投稿の一番下にあげた参考文献等に手を伸ばしていただくといいと思います。僕自身がこのたぐいの問題について述べたものということなら、最近書いたブログ(「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について)、および拙著The naturalist program for neo-Cartesian biolinguisticsをとりあえずは挙げておきます(後者は英語ですが)。*  *  *  *  *  *  *  *  * 言語学、認知革命、自然主義 成田広樹 2010年 7月 2日 (金) 早稲田大学 生成文法成立以前の「こころ(mind)=白紙(tabula rasa)」という経験主義的精神観(要するに経験のみによる言語習得説) その背後には行動主義(behaviorism)や論理実証主義(logical positivism)などからの強い影響があった 「自然科学の対象は「観察されたもの」(observables、典型的にbehavior)に限る」というドグマ  それを特に言語に当てはめれば、「 観察しうる言語表現(=E-language)が言語の全て」という想定に繋がる チョムスキーは自らの生成文法研究を通してE-language から I-language へ言語研究の対象をシフトすることを提唱した E-language: 外置された言語表現の集合、 I-language: (原理的に無限個の)言語表現を生成する脳内の計算システム 20世紀中葉の「認知革命」(cognitive revolution) ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)らによる変換生成文法(transformational generative grammar)の理論 デービッド・マー(David Marr)らの視覚の研究 オカルトの領域と思われていた心の領域においてもその内的メカニズムの数理的研究が可能だということを彼らが説得力をもって示した  刺激の貧困(poverty of the stimulus)という存在証明の論法の力強さ 教えられてもないのに出てくる言語の普遍性が数多く存在する  構造依存性、  回帰性、  移動規則の遍在性、  普遍的な島制約の数々、等々 習っていない、後天的な経験を通しての学習からではどうしても説明がつかないこれらの特性は生得的にヒトに与えられている、と考えるよりほかない ただし、ヒト言語特有の生得的知識の内容が豊かになればなるほど、どうしてそんなメカニズムがヒトの進化の過程で現れたのかという進化論の問題への回答が難しくなるというジレンマがある 言語のデザインに関する三つの因子(three factors of language design)の概念による論点の整理 ヒト(言語)特有の遺伝的特性 genetic […]

「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について

by | Leave a Comment | Tags:
06 19

心身二元論という哲学的・形而上学的言説があります。自然界には物質の世界と心・精神の世界のふたつがあり、このふたつの世界はかなりな程度断絶されていて、それぞれまったく異なる法則や実体によって支配されている、というような考え方ですね。それ以前にもそれ以後にもそれに似た自然観は存在していたものと思われますが、デカルトのそれが最も有名でしょうしまたこれから続ける何回かの投稿に最も関わりが深いと思いますので、とりあえずはその定式化を紹介します。 デカルト的心身二元論によると、物質の世界はいわゆる有限の体積および質量を持つモノどものがひしめく世界である。この物質の世界における運動は、単純にモノとモノがぶつかり合って運動エネルギーが伝わるというような「接触による伝導」という形で、そのような形のみによって実現される機械的な世界です。一方こころの世界は、なんだかよく分からない思推実体や霊魂などの世界である。どういうわけだか脳の下垂体あたりの位置にこの精神世界のベンチのようなものがあるというふうにデカルトは言っていたんですが、まあそれ以上はよくわかりませんね、という、なんというか不明な世界だった。 ノーム・チョムスキーが著書”Language and nature” (1995, Mind収録)やNew Horizons in the Study of Language and Mind (2000)などで指摘しているように、デカルトの形而上学的二元論(metaphysical dualism)というのはその実「自然はこういうふうにできている」という経験的な仮説(hypothesis)ないし予想(conjecture)だったと考えられます。この予想を提出するデカルト側の動機は(他にもあるかもしれませんが)とりあえず大きく分けて2つありました。まず第一に、後に物理学と呼ばれていくような一大研究プロジェクトをデカルトが立ち上げようとしていたとき、人間の思惟の問題はどうも物質およびその接触による運動がどうのという方向性ではとても説明し尽くしようがないなにかがあるということに彼は気づいていました(デカルトのこの辺の思想史的事情はもっとずっと複雑ですが)。そこで、数学的に明晰に物事を把握するという探究の仕方を、とりあえず心の問題はカッコに入れて進めてみよう、というふうに決めました。ですから、二元論的にモノの世界を心の世界と独立のものとしてとりあげるというのが、彼にとっての数学的明晰性をモットーとする物理学の構築にとって必要なガイドライン・working hypothesisでした。また、より重要なことに、この形而上学は「接触力学を極めることで(少なくとも物質的な)世界の理を極めることができるはずだ」というデカルトの壮大な楽観を裏付けるバックボーンでもありました。実際、モノの世界なんて結局のところそれくらい単純なものなんじゃないか。それくらい単純なモノの世界に関してなら、接触による運動っていうこれまた単純な概念のみを通して究極の説明理論を作ることができるんじゃないか。とそういう楽観的な野望がデカルトにはありました。 いってみれば、デカルトの形而上学的二元論とは、接触力学としての物理学が到達しうる世界把握に関して、彼がもつ期待の最大値をあらかじめ表明したものだったんです。心のことは(この方向だけでは)分からんだろうけど、モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち!!っていうね。 接触力学でそこの法則すべてを看過しうる(と期待される)世界としての物質の世界と、その探究においてはとりあえずカッコに入れられてしまった別次元のものとしての心の世界。このモノと心の二元論的断絶は、デカルトの提示する機械的物理観が経験的に正しい仮説である限りにおいてその信憑性が高まります。しかし、これは口を酸っぱくして言っておかなきゃいけないんですが、デカルトの機械的物理観はニュートンの万有引力の発見によって完膚なきまでにぶっ潰された。ご存知のとおり、万有引力は、質量を持つ2つの物質が互いに接触を介さず引き合う引力である。「接触を介さず」というのが味噌で、これは接触力学を唯一の原理とすべきデカルト的物質世界においてはあり得ない力であったわけです。こういう接触を介さない力が重力加速という根本的な運動現象を生み出すということが知れた以上、デカルト的なモノの概念、接触力学のみをもって把握しきりうる「閉じた」物質の世界というのは実際のところ間違っていた、ということにならざるを得ない。この結論は当時のデカルト的自然観に慣れ親しんでいた哲学者たちにはおよそ受け入れがたいものであったし、それゆえニュートンの仮説は「せっかくデカルトが純粋化した物質世界にまた幽霊みたいな”オカルト”力を持ち込んできやがるトンデモ仮説」としてさんざっぱら批判されたそうです。面白いことに万有引力を発見した当人のニュートンすらもそう思っていたらしくて、ニュートンは晩年にいたるまで自分の発見した万有引力の接触力学的根拠を明らかにすること、デカルトの機械的物理観と万有引力の間の矛盾を何とか解消する糸口を見つけることに専心したといいます。ニュートンのその努力は結局のところ報われることはなく、結局彼は諦観をもって”I frame no hypothesis”とつぶやきましたとさ(この”I frame no hypotheses”はまるで反理論主義、実験・データ・観察至上主義を支える言明として権威主義的によく引用されるようですが、少なくともニュートンの意図を汲む限りそれは曲解だと考えるべきでしょう)。 と、いうわけで、デカルトが物質世界の究極理解を夢見た接触力学原理主義的研究プログラム、およびそれを支える経験的仮説・予想だった心身二元論はニュートンによってものの見事にぶっ壊されてしまった。まあ経験的仮説が後日新たなデータ・発見によって覆されるなんてのはよくあることなんで、それ自体はむしろ理解が深まったということで歓迎されるべき発見なんですけど、しかしそれにしても、デカルトの形而上学的心身二元論が既に経験的反証によって瓦解してしまったことの意義は十分に現代人たちに認識されているとは言い難い。 ひとつ大きな結論としては、ニュートン後、我々はもはやそれによって立つべき明晰なモノの概念、モノだけの「閉じた」世界という世界像を描くことができなくなった、ということがあります。モノの存在や運動の背後にある原理は接触力学なんていう偏狭な理論じゃ全く語りつくせないような、人智を超えた神秘的な力に満ち満ちている。事実その後の物理学には、万有引力を皮切りとして、電磁波、一般相対性、量子、などなど、なんというか「手で触れられる」みたいな常識的なモノ観なんかの遥か外にあるような概念がどんどん入ってくるということが科学史的事実として起こってきた。結果として、我々は今、そういう物理法則の類が実際に力を及ぼしている範囲についての原理的な理解を有していない。デカルトの機械的物理観亡き後、モノの世界は接触原理のみに「閉じて」いなくなった。そして僕たちは「モノ」や「物理法則」の範囲をどう「閉じ(なおし)て」いいのか分からない。 もうひとつの結論は、「(心のことは分からんだろうけど)モノのことなら接触力学だけで行けるとこまで行けるんだぜ俺たち」っていうデカルトの楽観的予想がもろくも崩れ去った今、心の世界とモノの世界を二元論的に峻別する経験的・理論的根拠はもはやないのだ、ということです。モノが物理学(などの自然科学)が扱える範囲であり、心はその蚊帳の外のオカルトなんだろう、というのがデカルト時代の「科学者たち」の一般的な想定であったが(ちなみに自然哲学が自然科学と哲学に分離させられていく方向性をこの二元論的想定が助長していったのは間違いない)、先の段落に見たように、いまやもう「モノ」の世界・物理学の世界は閉じていないのである。閉じ方を知られていないのである。だから心とモノの境界線だってどうやって引かれるべきかも分からない。というかそもそもデカルトの研究プログラム亡き後、そんな境界線を引く科学的根拠すらも今のところ与えられていない、という状態なのである。 よって次のようなことが起こりうる。ひょっとしたら、今まで心の領域と呼ばれていたもののどこかに、モノの世界で観察されるような物理法則の影響を見出すことがありうるかもしれない。逆も然りで、もしかして心の領域に関わるとされる何らかの法則の影響を実はモノの世界の方にも見出しうるのかもしれない。物理法則がモノだけでなく心の現象の一端をも説明する統一的原理として再認識されることがありうるかもしれない。逆もまた然りかもしれない。モノと心の世界は結局のところ閉じていないのかもしれない。互いに素ではないかもしれない。形容矛盾でもなんでもない「心の物理学」(mental physics)というものが(例えば「化学現象に関する物理学」(chemical physics)と同じように)将来的に可能なのかもしれない。 ある程度僕の解釈が入るかもしれませんが、現代言語学を牽引する研究プログラムである極小主義プログラム(ミニマリスト・プログラム、the minimalist program)は、結局のところ「心の物理学として言語学をやっていこう」という呼びかけなんだとも解釈しうると僕は考えています。現在、言語現象の中に作用最小性原理や計算最適化原理などの物理法則の影響を探すという、それこそちょっと前だったら考えられなかったようなことが、極小主義プログラムを追究する一部のbiolinguistたちによって真剣に試みられています(ちなみにminimalistを無反省に権威主義的に、ないし意識的に政治的に名乗っている連中の大半はその実真剣なminimalistではないので言語学の文献にあたる際には注意が必要)。 やっぱり未だにノーム・チョムスキーがこの極小主義プログラムを牽引する急先鋒なんですが、しかし残念ながら彼には一流の物理学者・数学者としての素養はないのでなかなか彼だけではどうにもならず、その意味では未だ研究プログラムとしては実に刺激的なものが立ち上がったとはいえ、他所の分野の人達に誇って示せる、それをもとに言語学のキャンペーンを張っていけるような美しい研究成果というものを我々はまだ出せてないでいます。でも心の物理学を真剣に目指して研究を続けることで、将来的に心の科学に関するガリレオやニュートンの到来を期待できるかもしれないんです。 ともかく、デカルト二元論亡き後、真に有意義な形で「心の物理学」を目指すことを阻む哲学的原理はもはや何もなく、言語学を初めとする認知科学が物理などの自然科学との将来的な統合に向けて歩みを始めているということそれ自体は、ぜひ言語学の分野の外にいる人達にも知っていってもらいたいことです。 ちょっと長くなりましたので、またこの記事の続きは日を改めて書かせていただくことにします。