お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。 第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。 言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。 Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k よろしければ!
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Subscribe to the 生物学 articles成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売
言語学と進化論:なぜ言語学者が最近進化の問題によく口を出すようになったのかについての私見
前回のエントリーでもご出演いただいた生田敏一博士からの別の問い合わせがありました。 言語を記述する上で生物学的な人の進化を考慮しないといけない理由ってなんですか?まずは計測(=記述)するのが科学です。少なくとも生物学にお いては、進化の過程で起こり得るか起こり得ないかを考えた上で生命現象の記述(というよりかは計測)をすることは無いです。そもそも中枢神経の存 在なんて奇跡でしかないしなあ。脊椎動物の発生なんて事故だよ。(なんて生物学をやっていると、平気で口にしてしまいます。) それに対しての僕なりの回答が以下の通り。 考えなきゃいけないということはないでしょうね。おっしゃるとおり言語学の目標は結局のところ言語能力の記述なんであってそれ以上ではないですから。ただ、理論である以上できるだけシンプルに、そして願わくば深い説明的洞察を与える理論を目指すというのは当然で、それがminimalismですよね。で、minimalismを標榜するようになってからChomskyらがなぜこんなに言語の進化の問題に首をつっこむようになったのか、という疑問があるわけですが、僕の理解では「進化の問題を問うという態度」そのものがミニマリズムを追究するひとつの根拠を与えてくれるということがあるからだと理解しています。ことヒト言語の理論に関していうと(i)「ヒト言語が5万年か10万年かそこいらの、生物進化のスケールでいえば「瞬き」みたいな一瞬で出てきた(それゆえ自然選択やadaptationなどが強く働く時間は与えられていなかった)もんなはずなのに他の生物に類を見ないような能力でありうるのはなぜか」、と問い、(ii)それにたいして「いやいや一見複雑に見えるけどちゃんと注意深くその構成を吟味するとその実こんだけシンプルなメカなんですよ」という答えを予見すること、(iii)それでもって「100の独立のモジュールが犇めき合う器官より1こだの2こだののelementaryなメカをもつだけのシンプルな器官だということになればそれだけ「それがなぜ進化上出てこれたか」という問題に対してアプローチするのが容易くなる」という儲け話を期待する、という三つ巴のconsiderationsが絡まってのことなんだと僕は理解しています。つまり進化の問題というのは、シンプルな理論的記述を求めるという態度=minimalismを擁護するための一つのplausibility argumentであって、それは重要な問題意識だがminimalismの全てではないし、原理的にはそれと独立にminimalismをやってってもなんの問題もない、そういったものだと思います。 同じ質問をされたときに例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが、僕の進化論的議論に関する現行の態度はそのようなものです。 生田さんのそれに対するコメントは以下。 なるほどなあ。でも、別に上記の理由無くても科学だったらSimplestな記述をするわけだしね。つまりこれはGenerative Grammarのではなく、(GBの歴史の上に立つ)Minimalistの企てを行っていく上での話だな。ここまで壮大な哲学的論争を繰り広げなくては ならないというのはやはりGBからMinimalismっていうのは相当なパラダイムシフトだったってことだな。そもそも記述的な必要性があってシフトしたわけじゃないんだから(ってChomskyも書いてたし)、論争が起こるのは当然かもだけど、パラダイムシフトの時に哲学的論争が起こ るのは必死だね。アインシュタインVSボーア論争もしかり。 ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね。いや、もちろん、記述が完了し たらそれは進化の結果を記述したことになるのは間違いないし、よく考えてみると確かに言語学は(機能的な「退化」を含めた)進化を記述してるんだ しね。認知機能の記述でもあることを60年代からチョムスキーは主張してきたけど、その時も「言語学は認知そのものを記述しているのではないので 認知科学ではない」と一見筋の通ったデタラメが流行したらしいし。言語学の対象はStateだってちゃんと言ってたのにねえ。 ここで生田さんがおっしゃっている、「ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね」という意見に僕は個人的に賛成です。そして頻繁に一人歩きしているという現状認識も僕は共有しますね。うん十年前から言われていたとおり、言語進化の問題について我々が実際上経験的な仮説を述べる余地は元々ほとんどないわけで、いくら最近チョムスキーがそういう関連のことを語り始めたからと言って、流行りに乗っかってフォロワーの連中がspeculation(机上の空論)の応酬のようなことで言語学の文献を埋め尽くすような事にはなってほしくないと僕は個人的には思っています。 ところで、僕の回答部分で「例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが」という但し書きを付けましたが、きっと彼は僕みたいな進化論のほぼ素人がちゃちゃっと考えるよりもずっと長く言語学と進化論のかかわりのあり方について思いを巡らせてこられているわけで、だから例えば彼が”evolutionary adequacy”だの「ダーウィンの問題(Darwin’s problem)」などという用語を用いて言語進化の問題設定の重要性を言語学者に語っているのには彼なりの哲学が背後にあるからなんだと思います。実際藤田耕司先生とは去年一本共著論文を書かせていただく機会がありまして、その上で色々と個人的に意見交換させていただいたのですが、その時彼がe-mailで言っていたのは以下のとおり: 僕が進化、進化といってるのは、たとえば進化心理学や進化倫理学などが、単に心理学や倫理学の下位部門を意図しているのではなく、進化を統合のキーワードにして諸分野をまとめあげようとしているのと同じように、言語学についても進化言語学がそういう役割を果たすべきである、と思っているからなんだけど、ね。 僕は不勉強にして藤田先生のこの方法論的な、ないしヒューリスティック(heuristic)な目標設定について主体的にコメントできる知識はありません。しかしやはりこう言った問題設定の可能性も頭の片隅に置きつつ研究を続けていきたいと思っています。
形式意味論(ないしそういう名前で呼ばれている統語論)に関してのフォローアップ
前回のブログで僕が現行の「formal semantics」と呼ばれているある種の統語論について持っている疑念を簡単に紹介しましたが、それに関して早速ICUの先輩である生田敏一博士(漢字が分かんなくて試しにぐぐってみたらWikipediaのICU人物一覧の言語学の欄に載ってた!)にフォローアップをいただきましたんで、ご参考までにそちらもご本人の許可を得てこちらにアップしておきます。 ブログで形式意味論に関して成田くんが議論したいのは、形式意味論そのものについてではなく、形式意味論者の態度とかあり方についてだよね? Strictな意味で、形式意味論は、「意味」(whatever it is)を形式的/数学的に「記述」するものであるのだとし たら、syntaxが意味あるかないかなんて、そもそも関係ないわけ。 これはまさに相対性理論で速度が質量と関係しないと同じくらい無関係だな。 だから、形式意味論その物に対する問題提起ではなく、形式意味論絶対主義に対する問題提起だよね。 それには大賛成だな。 ってか、「意味」では解決できないSyntaxの必要性なんて、Syntactic StructuresのChapter2を読めば小学生でも分かるような問題だよね。 こちらで生田さんにご指摘いただいているとおり、形式意味論と呼ばれる枠組みで行われている言語の意味の形式的記述に関して僕は何の文句もありません。downward/upward entailing environmentsだのquantifierだのfocusだのの振る舞いなど色々と面白いデータが記述されてますし、僕自身興味深いと思うこともしばしばです。 こちらのメールへの僕の返信を以下に一部抜粋して掲載します。基本的には生田さんにご指摘いただいた通りである旨を確認した上で、僕なりの「形式意味論者の態度とかあり方について」の問題提起を具体的に列挙しています(僕の方でのあきらかな文法ミスやタイポなどは気づいた範囲で直してあります)。 そうです、形式意味論者のよくある態度のあり方についての僕なりの問題提起をしているつもりです。 その問題の態度の在り方については大まかに三種類あって、まずひとつはformal semanticsが仮定しているようなFunction ApplicationだのPredicate Abstractionだののメカが真理条件なりなんなりの「denotation」とやらを計算して出してくるっていうあのメカは、結局のところsyntaxであるということを認識していないこと。もう少し正確に言うなら、formal semanticsとは、LFという表示をinputとしてとり、(narrow syntaxと全く違う手順でもってinclusivenessを破りまくって)”D(enotation)-marker”なるものをoutputとして出すというsyntaxの別個のcomponentを仮定しその理論を作るという試みというふうにしか捉えざるを得ない(それを単なる言語行動の記述ではなく心/脳の実在として主張する限り)。それなのに例えばnarrow syntaxの研究に関してまるで傍観者の立場から「ミニマリズムとかなんとか言って結局いくらでもstipulationを加えて記述用にメカを複雑にしてるだけじゃん」とか言ってきたりするんですが、同様の批判はそっくりそのままD-markerの計算機構にも当てはまるということを認識していないことが往々にしてあるんです。 この問題を複雑にしているのが、Chomskyがミニマリズムの目標を定式化するときによく使う「syntaxはCI(“thought system”)の要請に対してoptimalに応えるefficientな計算機構だ」みたいな言説なんですが、これを上に述べたような誤解をしているsemanticistsが曲解すると「じゃー俺の意味の理論はこれとこれとこれっていうinterpretive rulesを仮定しておくから、syntaxの方はそれに見合うようなphrase-markersを単に出してきてくれればいいんじゃね?」っていう謎の想定につながるんですわ。この路線ですとsyntaxとはformal semanticistsが勝手にnarrow syntaxの外にstipulateしたものどもにへへえと迎合してそいつらのために妙ちくりんな表示をかえすっていう奴隷のようなメカのように捉えられることになりますが、これは僕はやはり不当な仮説だと思います。この類のextra-syntacticなstipulationsというのは二重にたちが悪くて、まずこんなものがヒトの進化(ないし初期の言語獲得)でどうやって出くんだっていう出自の問題をまったく未解決のままに放っておくしかないということ。それにくわえて、結局「thought system」というのは言語=syntaxを使ったときの表れを通してしか研究できないですから、それをもとにして意味の問題を研究するべきsyntaxをstipulationによってsemanticsにsubserveするものと見ようというのはなんとも滑稽なものなんです。 その上さらにsemanticistsの態度として問題なのが、これが3つ目ですが、「externalismは言語のような認知機構の研究においては徹頭徹尾排除されるべきだ」というChomskyの大元の批判にはさも同意するような顔をしておきながら、その実D-markerという概念を全くexternalismのdenotationという概念と同等の価値を無反省に付与したままふんぞり返っているということに気づいていない、という点。これも自分たちがやっているのがその実syntaxの研究だっていうことを認識出来ていないところから起因することなんでしょうね。「What is denotation?」という問題設定をしているsemanticistsの少なさったらホントに異常ですよ。この点Uriagerekaの以下のコメントが非常にto the pointだと思います。 “[W]hen it comes to … `reference’-bearing elements, or more generally elements with a denotation (John, book, sing, and the like) not a single theory exists that clarifies what sort of relation takes place between […]
早稲田で講演: 言語学、認知革命、自然主義
先日早稲田大学の久野正和准教授にゲストスピーカーとして彼の授業に呼んでいただき、「言語学、認知革命、自然主義」というタイトルで講演させていただだいた(2010/7/2)。久野先生とは上智・ハーバードの先輩後輩の間柄でよくお世話になっているのだが、そのご縁で50人以上の学部生の前で話をさせてもらえる機会を今夏は2回も与えていただけて恐縮至極である。今回は2回目で、1回目よりは時間配分等改善が見られたが、まだまだ平易な言葉でリズムよく話を進めるのがまだまだ不得手で、また説明ベタのせいでところどころ話の無駄な重複もあり、反省点の多く残る講演となった。前回は特に学生に配るものは何も用意せず講演メモのみで臨んだせいで時間配分を失敗した経緯があるので、今回はある程度話の流れをつかんだシノプシスを載せた両面一枚のハンドアウトを配らせていただいた。まあこのままではこれ以降誰も読み返していただく機会も与えられないままお蔵入りになってしまいもったいないので、誰かの参考になるかもしれないということで一応そのハンドアウトを以下に一部加筆修正を加えた上で転載する。ご参考まで。なお、僕はもともと哲学をやろうとして大学に入り、言語哲学→言語そのものというふうに興味の対象がシフトしていったという経緯があるので、言語学も好きながらこういう言語学が与える科学や哲学への示唆のような話もすごく好きでして、そのため普通の職業言語学者よりも多少は多くその類の論文を読んでいると思う(まあ言語学者をやる以上ある程度このたぐいの勉強はマストだと思うが)。この方面でもノーム・チョムスキーの思想の深みは絶大なんですね。こういう事に興味がある人はこの投稿の一番下にあげた参考文献等に手を伸ばしていただくといいと思います。僕自身がこのたぐいの問題について述べたものということなら、最近書いたブログ(「心の物理学」としての言語学は我々の心身二元論的常識をブチ壊していくのだ:(1) デカルトの形而上学的二元論の崩壊について)、および拙著The naturalist program for neo-Cartesian biolinguisticsをとりあえずは挙げておきます(後者は英語ですが)。* * * * * * * * * 言語学、認知革命、自然主義 成田広樹 2010年 7月 2日 (金) 早稲田大学 生成文法成立以前の「こころ(mind)=白紙(tabula rasa)」という経験主義的精神観(要するに経験のみによる言語習得説) その背後には行動主義(behaviorism)や論理実証主義(logical positivism)などからの強い影響があった 「自然科学の対象は「観察されたもの」(observables、典型的にbehavior)に限る」というドグマ それを特に言語に当てはめれば、「 観察しうる言語表現(=E-language)が言語の全て」という想定に繋がる チョムスキーは自らの生成文法研究を通してE-language から I-language へ言語研究の対象をシフトすることを提唱した E-language: 外置された言語表現の集合、 I-language: (原理的に無限個の)言語表現を生成する脳内の計算システム 20世紀中葉の「認知革命」(cognitive revolution) ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)らによる変換生成文法(transformational generative grammar)の理論 デービッド・マー(David Marr)らの視覚の研究 オカルトの領域と思われていた心の領域においてもその内的メカニズムの数理的研究が可能だということを彼らが説得力をもって示した 刺激の貧困(poverty of the stimulus)という存在証明の論法の力強さ 教えられてもないのに出てくる言語の普遍性が数多く存在する 構造依存性、 回帰性、 移動規則の遍在性、 普遍的な島制約の数々、等々 習っていない、後天的な経験を通しての学習からではどうしても説明がつかないこれらの特性は生得的にヒトに与えられている、と考えるよりほかない ただし、ヒト言語特有の生得的知識の内容が豊かになればなるほど、どうしてそんなメカニズムがヒトの進化の過程で現れたのかという進化論の問題への回答が難しくなるというジレンマがある 言語のデザインに関する三つの因子(three factors of language design)の概念による論点の整理 ヒト(言語)特有の遺伝的特性 genetic […]
「言語の種」/UG
ヒトの幼児は健常児ならだれでも、それが日本語であれ英語であれアラビア語であれ、何らかの自然言語を生後かなり早い段階で母語として獲得します。この言語獲得のプロセスはなかなか驚異的なもので、たとえば語彙の数を見てみても1日10語とか20語とかいうペースで覚えていくらしいし、また数量化しにくいながらも文法的知識の獲得もかなりハンパないスピードで進みます。しかもこのすごい言語獲得能力というのはどうやら人類に共通・普遍のものであるらしく、どういう人種の両親から生まれた赤ん坊をどういう言語を話すコミュニティーに連れて行っても、およそそこで話されている言語が自然言語の体をなしていさえすればきちんとその力を発揮するものらしい(ピジン語とクレオール語の問題なんかが示すように、実は刺激として与えられる言語が自然言語である必要すらない)。言語以外の認知能力に関してはまだまだ発達していない生まれたての段階でも、この言語獲得能力だけはもう最初の最初っからフルスロットル・アクセル全開で動き始める。というか、もっと言えば、ヒトの幼児は、どういうわけか生得的に、遺伝子のレベルで決定されているくらいのあがらいがたい本能、アクセル全開で言語を獲得し始めるようなプログラムを与えられている。彼らは言語を獲得するよう生得的に運命づけられている。 ただしこれはヒトにのみ与えられた運命・本能・プログラムですよね。たとえばどっかの花子ちゃんがいてその子が周りで話されてる東京弁を母語として獲得しているとして、仮にその花子ちゃんが猫のタマちゃんや犬のポチくんやオウムのソボロくんみたいなペットと生まれてこの方ずーーっと一緒にいたとして、そういうペットたちがたとえ花子ちゃんと一字一句にいたるまで全く同じな言語刺激を花子ちゃんの周りの大人たちから与えられていたとしても、結果花子ちゃんは東京弁をしゃべれるようになるけど、タマちゃんもポチくんもソボロくんもそんなことは絶対にできるようにならない。その事情は花子ちゃんを他のどんな子供におきかえても変わりませんし、またタマやポチなんかを他のどの生き物に置き換えても変わりません。ヒトは誰でも少なくとも1つの言語を話せるようになるけど、ヒトでない生き物は誰もヒト言語を操れるようにならない。 でまあ、そうだとすると、どういうわけだかはしらないが、言語獲得を可能たらしめる何らかの特別な能力、いわば「言語の種」のようなものが、どうやら生得的に、ヒトという生物種のみに与えられているらしい(そしてそれは他のどのような生物種にも与えられていないらしい)ということが簡単に結論づけられるわけですね。仮にこれを慣例にならって「言語生得説」と呼ぶことにしましょうか。 言語生得説に基づき、「言語の種」の内実、およびそれが適切な言語刺激を通して成人の文法知識に発達していく過程を研究する分野がbiolinguisticsです。ヒト言語に関する生物学的研究(biological study of (human) language)ということですね。この呼称の前は生成文法(generative grammar)なんていう呼ばれ方もしてましたが、基本的には同義語と観て差し支えないと思います。ちなみにbiolinguisticsって用語ですが、上智大学の福井直樹先生が正しく指摘するように、これ結構日本語に訳すのが難しいんですよね。生物言語学とやるとまるで「生物の(生物を対象とする、生き物である、etc.)言語学」のようになってしまって正確ではありませんし、「言語生物学」とやってもなかなかしっくり来ないわけです(やっぱり生物学というよりは(生物学的観点を持ち込んでいるような)言語学ですし)。福井先生が悩んでいるとおっしゃるので、一回 「ヒト言語学」というのはいかがでしょうか。カタカナ表記で「ヒト」とすることでhumanの生物種としての側面を強調し、かつその種に属する生物学的自然科学的対象であるところの言語を対象とする点をも強調し、また「生物言語学」に見られるような「生物の/生物を対象とする言語の学」という類の無駄なconnotationもなんとなく省けているような気がします というようなことを個人的にメールで提案させていただいたことがあったんですけど、 うーん、言っていることは分かるし悪くはないと思うけど、ちょっとあまりに 原語と離れてしまうような気がする。訳語というのは、日本語の表現として自然で意味を成すと同時に、(原語=英語が出来る人にとっては)原語が自然に 思い浮かぶようなものが理想だと思うんだけど、「ヒト言語学」と聞いて– human linguisticsでなく–「biolinguistics」という英語表現を思い浮かべ る人は何人いるだろうか・・・ ということでしたね。なんかいい訳語ないですかね、皆様。 さて、言語生得説。普通に考えたら、はっきりいってこんなの説と名付けるのもおこがましい。ヒトのみが言語を操り人以外のどの生物もそう出来ない以上、ほとんど自明の理である。しかし、ノーム・チョムスキーが1950年代に現代言語学を立ち上げて言語に関する生得説を正しく指摘し、言語研究は本質的に生物学であり、この言語の種をその中心的な研究対象として扱う学問(=biolinguistics)であるべきだ、というこれまた今聞けば当たり前のようなことを言ったとき、言語生得説は多くの心理学者や哲学者によってなにやらものすごく胡散臭い仮説のように受け止められたらしい。結果大々的に「生得説論争」なるものを巻き起こしたという歴史的事実がその辺の事情を物語っています。しかし、繰り返して言いますが、言語を操るというのがヒトのみに与えられた能力である以上、言語の生得説自体は自明の理です。 なにが自明ではないかと言うと、実際にその生得的なメカニズムが存在することそのものではなくて、その生得的に存在するメカニズムがどの程度ヒト言語に特化した豊かな内容を持っているのか、ということです。たしかに、チョムスキーが言語生得説という当たり前のことを当たり前のこととして提示したとき、チョムスキーや彼の同僚たちが実際に行っていた具体的な言語の文法知識のモデル(変換文法/transformational grammarといいます)はそれはそれは複雑なものでした。従ってその知識の獲得を可能たらしめる「言語の種」の理論(UG, universal grammarと言います)もかなり奇妙で複雑なものにならざるを得ず、当時の多くの心理学者とか哲学者の目にはそんな変なものが「生得的に」ヒトの脳に備わっているなんて仮説は実に滑稽であり、当然破棄されるべきなものとして映ったと、そういうことなんです。(とはいえこれは5,60年前の話ですから、その間に言語理論はものすごい転換を遂げましたし、今はその限りではありませんが。) ところで、ヒトはいろいろな観点から見て実に「頭がイイ」。ヒトしかしゃべれないっていうだけじゃなく、ヒトしか船を操縦できないし、ヒトしか寿司を握れないし、ヒトしか買い物ができないし、ヒトしか人工的にモノを発明したりもしない。ヒトが自らの経験を通して「人間的に」学び、考え、行動するということ、そういうことが一切ヒト以外の生物には不可能だということ、どちらも実にあからさまな事実ですね。よってヒトは何らかの学習能力、経験を通して人間的な知識を発達させる能力を、ヒト特有のそしてヒト共通の生得的な能力として与えられていると考えるより他ない。一応そんなような能力をとりあえず一般学習能力とでも呼んでおきましょうか。それは確実にある。 ここで問題です。「言語生得説が仮定すべき「言語の種」/UGは、その実一般学習能力そのもであり、そこになんらヒト言語に特化した内容を仮定する必要はない」といえるでしょうか。答えは間違いなくノーです。 考えてみれば、確かにヒトしか船を操縦できないし、ヒトしか寿司を握れないし、ヒトしか買い物をできないし、ヒトしか人工的にモノを発明したりもしないですが、しかしヒトがヒトである限り全員すべからく船に乗ったり寿司を握ったり買い物をしたりモノを発明したりするようになるわけじゃありません。ヒトは一般学習能力を駆使して色々なことがやれる、しかしどうやらそのどれもやってもやらなくてもいいくらいの自由は与えられている。 しかし、ヒトは言語を獲得してもしなくてもいいくらいの自由を与えられているでしょうか。そうは問屋がおろさない。言語を獲得するというのは、どうやらヒトがヒトとして生を受け生きることその中のもはや生物学的必然であるらしい。重度の言語障害は別として、およそヒトは言語を学ばないわけにいかない。ヒトの遺伝子プログラムが不可避的にそれを要求するのである。言語のみに関して。だとすると、言語の獲得のみを強制し制御するような生得的メカニズム、「言語の種」がやはりなければいけない。 その上で、それじゃあどの程度「言語の種」の負担を一般学習能力のようなものが助けているかということに関しては勿論いろいろな可能性がある。一般学習能力が船出をする上での船くらい言語獲得にとって欠くべからざるものであるかもしれないし、ないし(少なくとも僕にとっての)牛丼の紅生姜やカレーの福神漬くらいあってもなくてもいいものかもしれない。 そこら辺の実際の事情を調べるのがbiolinguisticsのひとつの目標であるわけです。であるからして言語学者=biolinguistは、実際の言語獲得の事実や成人の文法知識の内実を実験的に調査することを通して、「言語の種」の内容にあれやこれやと思いをめぐらしているわけです。 まあいずれブログで紹介していける部分については紹介していきたいですが、biolinguistics、生成文法が過去60年を通して積み重ねてきた研究成果というものはそれはそれはなかなか目をみはるものがありまして(くだらない研究も(ものすごく)多いんですけど)、この「言語の種」は、少なくとも言語学の素人さんが思い描くよりも相当程度豊かな内容を持っていなければいけないってことがわかってきてます。もちろんこれは不思議なことで、なんでヒト(の脳)にのみこんなに面白い内容を持ったモノが出現するんだろう、その出現を支える遺伝子的な情報は何なんだろう、そんな遺伝的特性がどのようにしてヒトの進化の過程で生まれたんだろう. . . 、と、いろんな疑問は尽きません。 だから言語学は面白いんですね。