"We have to learn about the conditions that set the problem in the course of trying to solve it."
(Noam Chomsky, 2008, On Phases, p.135)

進化論 Articles

Subscribe to the 進化論 articles

成田広樹・福井直樹「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」所収の『日本語学』11月号 今日発売

by | Leave a Comment | Tags:
11 1

お知らせです。明けて今日11/1、明治書院刊行の『日本語学』という雑誌の11月号が発売されます。今回は「言語と進化」に関する特集号になっています。 第三章として福井直樹先生との共著の解説文「言語を巡る「何」と「なぜ」―生成文法の視点から―」が収められております。 言語理論の歩んできた途の概説として、なるべく平易に書いたつもりですので、もしもご興味があればどうぞ。 Amazonなどでも購入可です: http://ow.ly/7ei1k よろしければ!

言語学と進化論:なぜ言語学者が最近進化の問題によく口を出すようになったのかについての私見

by | Leave a Comment | Tags:
01 14

前回のエントリーでもご出演いただいた生田敏一博士からの別の問い合わせがありました。 言語を記述する上で生物学的な人の進化を考慮しないといけない理由ってなんですか?まずは計測(=記述)するのが科学です。少なくとも生物学にお いては、進化の過程で起こり得るか起こり得ないかを考えた上で生命現象の記述(というよりかは計測)をすることは無いです。そもそも中枢神経の存 在なんて奇跡でしかないしなあ。脊椎動物の発生なんて事故だよ。(なんて生物学をやっていると、平気で口にしてしまいます。) それに対しての僕なりの回答が以下の通り。 考えなきゃいけないということはないでしょうね。おっしゃるとおり言語学の目標は結局のところ言語能力の記述なんであってそれ以上ではないですから。ただ、理論である以上できるだけシンプルに、そして願わくば深い説明的洞察を与える理論を目指すというのは当然で、それがminimalismですよね。で、minimalismを標榜するようになってからChomskyらがなぜこんなに言語の進化の問題に首をつっこむようになったのか、という疑問があるわけですが、僕の理解では「進化の問題を問うという態度」そのものがミニマリズムを追究するひとつの根拠を与えてくれるということがあるからだと理解しています。ことヒト言語の理論に関していうと(i)「ヒト言語が5万年か10万年かそこいらの、生物進化のスケールでいえば「瞬き」みたいな一瞬で出てきた(それゆえ自然選択やadaptationなどが強く働く時間は与えられていなかった)もんなはずなのに他の生物に類を見ないような能力でありうるのはなぜか」、と問い、(ii)それにたいして「いやいや一見複雑に見えるけどちゃんと注意深くその構成を吟味するとその実こんだけシンプルなメカなんですよ」という答えを予見すること、(iii)それでもって「100の独立のモジュールが犇めき合う器官より1こだの2こだののelementaryなメカをもつだけのシンプルな器官だということになればそれだけ「それがなぜ進化上出てこれたか」という問題に対してアプローチするのが容易くなる」という儲け話を期待する、という三つ巴のconsiderationsが絡まってのことなんだと僕は理解しています。つまり進化の問題というのは、シンプルな理論的記述を求めるという態度=minimalismを擁護するための一つのplausibility argumentであって、それは重要な問題意識だがminimalismの全てではないし、原理的にはそれと独立にminimalismをやってってもなんの問題もない、そういったものだと思います。  同じ質問をされたときに例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが、僕の進化論的議論に関する現行の態度はそのようなものです。 生田さんのそれに対するコメントは以下。 なるほどなあ。でも、別に上記の理由無くても科学だったらSimplestな記述をするわけだしね。つまりこれはGenerative Grammarのではなく、(GBの歴史の上に立つ)Minimalistの企てを行っていく上での話だな。ここまで壮大な哲学的論争を繰り広げなくては ならないというのはやはりGBからMinimalismっていうのは相当なパラダイムシフトだったってことだな。そもそも記述的な必要性があってシフトしたわけじゃないんだから(ってChomskyも書いてたし)、論争が起こるのは当然かもだけど、パラダイムシフトの時に哲学的論争が起こ るのは必死だね。アインシュタインVSボーア論争もしかり。  ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね。いや、もちろん、記述が完了し たらそれは進化の結果を記述したことになるのは間違いないし、よく考えてみると確かに言語学は(機能的な「退化」を含めた)進化を記述してるんだ しね。認知機能の記述でもあることを60年代からチョムスキーは主張してきたけど、その時も「言語学は認知そのものを記述しているのではないので 認知科学ではない」と一見筋の通ったデタラメが流行したらしいし。言語学の対象はStateだってちゃんと言ってたのにねえ。 ここで生田さんがおっしゃっている、「ここが一人歩きして(そして頻繁にしているけど)「言語学は進化の説明の企て」みたいになっちゃうと面倒くさいね」という意見に僕は個人的に賛成です。そして頻繁に一人歩きしているという現状認識も僕は共有しますね。うん十年前から言われていたとおり、言語進化の問題について我々が実際上経験的な仮説を述べる余地は元々ほとんどないわけで、いくら最近チョムスキーがそういう関連のことを語り始めたからと言って、流行りに乗っかってフォロワーの連中がspeculation(机上の空論)の応酬のようなことで言語学の文献を埋め尽くすような事にはなってほしくないと僕は個人的には思っています。 ところで、僕の回答部分で「例えば藤田耕司先生などはもしかしたらもっと違うお答えをされるかもしれませんが」という但し書きを付けましたが、きっと彼は僕みたいな進化論のほぼ素人がちゃちゃっと考えるよりもずっと長く言語学と進化論のかかわりのあり方について思いを巡らせてこられているわけで、だから例えば彼が”evolutionary adequacy”だの「ダーウィンの問題(Darwin’s problem)」などという用語を用いて言語進化の問題設定の重要性を言語学者に語っているのには彼なりの哲学が背後にあるからなんだと思います。実際藤田耕司先生とは去年一本共著論文を書かせていただく機会がありまして、その上で色々と個人的に意見交換させていただいたのですが、その時彼がe-mailで言っていたのは以下のとおり: 僕が進化、進化といってるのは、たとえば進化心理学や進化倫理学などが、単に心理学や倫理学の下位部門を意図しているのではなく、進化を統合のキーワードにして諸分野をまとめあげようとしているのと同じように、言語学についても進化言語学がそういう役割を果たすべきである、と思っているからなんだけど、ね。 僕は不勉強にして藤田先生のこの方法論的な、ないしヒューリスティック(heuristic)な目標設定について主体的にコメントできる知識はありません。しかしやはりこう言った問題設定の可能性も頭の片隅に置きつつ研究を続けていきたいと思っています。